船のいろいろ

    南米チチカカ湖の葦舟

    「南アメリカのボリビアとペルー両国にまたぐ、チチカカ湖周辺の原住民アイマラ族は、水辺に生えているアシ (トトラ)を材料にして約2000年も前から伝えられている技法で現在もこうしたアシ舟(バルサ・デ・トトラ)を作り、 漁撈や運搬に使っています。」(寄贈: ホセ・河合氏/ボリビア) [出典:説明パネルより][拡大画像(x23720.jpg)]

    エジプト ハシェプサット女王の船 紀元前15世紀

    「三大文明の一つエジプトの船については、絵、レリーフ、副葬品などからかなりのことが わかっています。パピルスを束ねナイル川を上り下りしていた船は、紀元前25世紀頃には レヴァント地方に航行できる木造船になりました。このハシェプサット女王の船は今なお謎の プント地方への遠征船であり、船の前後が下がるのを太いロープで支えるなど細部まで 工夫が見られます。主材料の木材も有名なレバノン杉を輸入し、使っていたと思われます。」  [出典:説明パネルより][拡大画像(x23772.jpg)]

    「古代エジプトの造船」と題するレリーフ
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    エジプトの船(BC13世紀) エジプト美術館蔵
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    ギリシャの船(BC8世紀) 大英博物館蔵
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    フェニキアの商船(BC7世紀)  ルーヴル美術館蔵 
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    ギリシアのトライリーム 紀元前5世紀

    「船首に長く突き出たとんがり(衝角)は、敵船に体当たりをして破壊する役割をもち、 戦いの勝敗はスピードと機動力がきめてでした。サラミスの海戦(紀元前480年)において、 ペルシャ軍を敗ったギリシャ軍は船を接舷して甲板上で戦うのではなく、船首のとんがりを突入させ 敵船を破壊する作戦をとったのでした。」 [出典:説明パネルより][拡大画像(x23724.jpg)] [拡大画像(x23790.jpg)]

    ギリシャのトライリーム 紀元前5世紀
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    「都市国家が競い合っていたギリシャで、シー・パワーの主力は帆とオールを使うガレー 船でした。推進力を増すにはオールの数をふやせばよかったのですが、船は長くしすぎると前後が 下がるので、漕ぎ手を上に重ねる必要がありました。さらにオールを1本ずつの力をふやすには1本に つく人数をふやす必要がありました。たとえば、“10のガレー船”は上から4、3、3の10人の 漕ぎ手が3本のオールに付いたと考えられています。」 [出典:説明パネルより][拡大画像(x23727.jpg)]

    「ローマの船」(A.D.1世紀) イタリア国立考古美術館蔵
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    ローマの商船 1世紀

    「陸の大帝国と考えられているローマ帝国ですが、海では、ギリシャの伝統を受けついでガレー船隊を つくり、消費都市ローマを支える食料やぜいたく品を各植民地から商船で運びました。こうして地中海は 「ローマの池」とさえ呼ばれるようになりました。パンはエジプトなどからの粉で焼かれ、オリーブ油は スペインからというように、商船による大量輸送が求められ、300トン以上も積める大型船も建造され ました。」 [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23733.jpg)]

    アラビアのダウ 8世紀
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    「砂漠の民と考えられているアラビア人が、実は優秀な海洋民族であることは、あまり知られていません。 らくだが「砂漠の船」と呼ばれるように、目標のない所で自分の位置を知るには星の知識が必要で、 これには砂漠も海も区別がありません。有名な「千夜一夜物語」のシンドバッドは数多くの 船乗りの代表とされた架空の人物ではありますが、当時三角帆でインド洋を自由に航行していた姿を伝えて います。この三角帆は中世の地中海に伝えられ帆装に改革をもたらしました。1498年ヴァスコ・ダ・ガマが 東アフリカからインドのマラバル地方に直航できたのはアラビアの水先案内人の力によるものでした。」   [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23734.jpg)]

    ヴァイキングの船 (1080年頃) マチルド王妃美術館蔵
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    北欧の船 13世紀

    「1本のマストに1枚の横帆をもつヴァイキング型をした北欧の船は、13世紀に入ると 船体も大型になり、船を操ったり、敵船へ有利な高い位置から攻撃できるよう船首と 船尾に城のような構造物をもつようになります。船の方向を変える舵は、右舷側に オール状のものを備えていたものが、13世紀の末頃になると舵を船体中心線の 船尾に位置させたことにより、操舵性能が向上するなど帆船として大きな発展が みられました。」   [出典:説明パネルより][拡大画像(x23738.jpg)][拡大画像(x23792.jpg)] [拡大画像(x23795.jpg)]

    ハンザ同盟のコグ 14世紀
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    「ローマ時代野蛮国とみなされていた北ヨーロッパは、ヴァイキングの海上活動に続き、 特に北ドイツの港町が商業と軍事上の共通目的からハンザ同盟を結び海上輸送を積極的に 行いました。リューベック、ハンブルグ、ブレーメンなどの町がこの中心でした。 ハンザ同盟が使用した船は板を重ね合わせる北方系の技術で造られ、荷物を多く積めるように 吃水が深く、北海の荒海にも堪える頑丈な船でした。1962年(昭和37年)ブレーメン外港でこの型の船の 遺物が発見され、封印に使う印章が正しい描写をしていたことが証明されました。」  [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23735.jpg)]

    ヴェネチアのガレー船 15世紀
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    「中近東との香料を始め、地中海の流通に大活躍したヴェネチアの町は「アドリア海の 女王」と呼ばれました。その海運の主役は伝説のガレー船で、軍艦としてだけではなく商船 としても使われました。横幅を大きくして荷物を多く積めるようにし、帆走をしやすくして ジブラルタル海峡を抜け、イギリスにまで航海しています。安全と海賊への防衛から 船隊を組むとともに、この頃から保険の制度も発達して現代につながっています。」  [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23736.jpg)]

    カラック サンタ・マリア 1492年

    「15世紀頃になって、北欧の横帆船と地中海の三角帆船とが融合して、カラックと いう新しい船型が生まれたことにより大洋の航海が容易になりました。1492年 コロンブス(イタリア人)は“サンタ・マリア”に乗船し、2隻の帆船を率いて スペインを出港、大西洋を西に向かいました。 その船隊は69日後には大西洋を横断し、北アメリカの西インド諸島に達しました。 コロンブスの一行が西洋人として最初に到達したと考えられていましたが、それから約 500年前の1000年頃に、ヴァイキングがアイスランド、グリーンランドを経てヴィンランド (現在のラブラドル半島付近)に上陸していたことがほぼ確実となっています。 トン数:233満載排水量トン、長さ:23.96メートル、幅:7.83メートル、深さ: 3.66メートル、船型:カラック、帆装:3檣(横帆、三角帆)。“サンタ・マリア”の要目は 不明な点が多く、唯一明らかなのは帆装だけで、その他のものはその時代の船からの推定 となっています。」   [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23739.jpg)][拡大画像(x23793.jpg)] [拡大画像(x23794.jpg)][拡大画像(x23796.jpg)]

    カラベラ ニーニャ 1492年
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    「コロンブスが一番気にいっていたのはサンタ・マリアではなく、「少女(ニーニャ)」の愛称で呼ばれていた “サンタ・クララ”でした。船の型はカラベラといい、ポルトガルの航海王子エンリケが東洋をめざす探検 で、アフリカ西海岸沿いの航海に使っています。正式にはアラビア起源の三角帆(ラテン・セール)を持って いたのでカラベラ・タティーナといいます。“ニーニャ”の帆は大西洋上で一定方向の風に強い横帆 に変えられ、この絵のようなカラベラ・ロツンダ型となりました。」  [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23740.jpg)][拡大画像(x23741.jpg): 説明書き]

    大航海時代の船 カラックとガレオン 15世紀~17世紀

    「カラックは、15世紀の後半に北欧の横帆船の影響を受けて、地中海で造られた3本または 4本マストの帆船です。200~600トンの大きさをもち、舷側が高く、前後に突出した大きな 船首楼が特徴で荷物をたくさん詰めましたが、横風の力を受けやすく、操船には苦労しました。一番うしろの三角帆 は主に舵取り用に使われました。16世紀のはじめに細くて低い船体の船、ガレオンが造られました。スピードが出せるようになり、 船体も一段と大きくなって1,000トン位の大きさのものも現れました。1588年イギリス占領をめざしたスペインのいわゆる 無敵艦隊がイギリス艦に負けたのは、接舷して高いカラックの上から陸兵が攻撃するスペイン側の戦法 に対し、ガレオンの操艦性能を生かし遠くから大砲を撃つイギリス側の戦法が効果があったからです。この海戦は300年以上 続くイギリス海上支配の始まりでした。」  [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23742.jpg)][拡大画像(x23743.jpg): 説明書き]

    オランダの東インド会社船 17世紀

    「大国スペインとの独立戦争を80年間も続けたオランダは、その間にシー・パワーを充実させ、 東南アジアへの貿易をめざして1600年連合東インド会社(V.O.C.)を設立しました。日本の平戸や 長崎にポルトガルやスペインと共に来航していましたが、同じ新教国で新興勢力のイギリスと英蘭戦争を 起し、東アジアを除いて勢力を失っていきました。オランダ船は浅い内海を航行するため吃水を浅くするハンデを 背負っていましたが、その造船技術は「ヨーロッパの造船学校」と呼ばれるほどの高い技術でした。」  [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23746.jpg)][拡大画像(x23747.jpg): 説明書き]

    中国の船 ジャンク 18世紀

    「13世紀、「東方見聞録」を著したマルコ・ポーロは、中国のジャンクを高く評価していました。 それは、西欧で出現していなかった防水隔壁や船尾舵をもっていたからでした。さらに明の永楽帝は 1405年から1433年にかけ、7次の遠征艦隊を東南アジアからインド洋に向け派遣しました。 鄭和を司令官とするジャンクの大艦隊は、アフリカ東岸に達し、分遣隊は紅海や、マダガスカル島対岸 まで進出したといわれています。ここに描かれている中国船は江戸時代(元禄頃)長崎に来航していた 唐船で、中国人自身は一度もジャンクと呼んだことはありません。」   [出典:説明パネルより] [拡大画像(x23744.jpg)][拡大画像(x23745.jpg): 説明書き]

    フランスの74門艦 ランビンシブル 1747年

    「18世紀後半から19世紀の海戦の主力は74門艦という3級艦でした。 1805年のトラファルガー沖海戦に参加したイギリス側27隻の戦列艦のうち16隻、フランス・スペイン連合側33隻中 22隻が74門艦でした。74門艦はフランスの考案で、フリゲート艦に準ずる速力と、戦列艦たる火力を備えた バランスのとれた艦として重用されました。17世紀のフランスの宰相リシュリーは海軍の増強に力を入れ、オランダ流の 造船技術を独自のものとしていきました。18世紀には伝統にこだわるイギリスに対し、科学を積極的に造艦術に取り入れ 世界一流との評価を得ました。しかし戦略のまずさからイギリス側に捕獲され、イギリスはフランスの造艦術を まねしながら自分に合うように改良し、世界一の海軍力を保ったのです。」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23750.jpg)] [拡大画像(x23751.jpg): 説明書き]

    戦列艦 ヴィクトリー 1765年

    「“ヴィクトリー”は、ネルソン提督が座乗するイギリス艦隊の旗艦として、1805年 トラファルガー沖海戦において、フランス・スペインの連合艦隊を打ち砕き、その後 イギリスの優位を動かないものとした歴史的な戦いでした。“ヴィクトリー”は、1765年 に建造されキールはにれの木、フレームと外板はならの木で作られ、船腹は銅版を張って 船喰虫の害を防いでいました。“ヴィクトリー”は今でも現役艦の扱いでポーツマス のドックで保存されています。
    トン数:2,162トン、長さ:67メートル、幅:15.5メートル、船質:木造、砲:104門(3層)、 建造年:1765年、乗組員:850人」  [出典:説明パネルより][拡大画像(x23778.jpg)]

    クックの探検船 インデバー 1768年

    「18世紀西欧各国の勢力拡大は世界中に広まり、その先頭をになったのがいわゆる探検船でした。 軍事目的と同時に博物学の関心も高く、いろいろな学者が同乗するようになりました。イギリス王立協会の 命により、金星の太陽面通過をタヒチで観測するため覇権されたのが“インデバー”で、石炭船から志願し 士官となったジェームズ・クックが指揮をしました。船の選択にあたっては、なれていることと頑丈である 理由から石炭船が選ばれ、換気口を舷側にあけたり、船喰虫対策のため船腹に薄板が張られるなどの改装 が行われました。1768年プリモスを出港し、タヒチでの観測や南太平洋の調査を行い、1771年帰国しました。」   [出典:説明パネルより][拡大画像(x23752.jpg)][拡大 画像(x23753.jpg)][拡大画像(x23754.jpg): 説明書き]

    ブリガンチン型帆船 18~19世紀

    「世界各地で、その海の状態と入手できる材料を考えながら操作性と経済性を追求し、 さまざまな型の帆船が生まれました。18世紀末から19世紀にかけて活躍した代表的な帆船が ブリガンチン型帆船です。2本マストを持ち、前マストには追い風に強い横帆を、後マスト には操作しやすい縦帆を装備しています。」   [出典:説明パネルより][拡大画像(x23748.jpg)] [拡大画像(x23749.jpg): 説明書き]

    蒸気船 ジャパン 19世紀
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    「1840年代に設立されたパシフィック・メイル社は、ニューヨークといまだ未開の太平洋 岸を結ぶ航路開拓が目的でした。シーソーのように動きながら外輪を廻すビーム・エンジンは アメリカ船特有のものでパシフィック・メイル社は次々と新鋭船をこの航路に 投入しました。開国したばかりの日本にも航路をのばし、“グレート・リパブリック”、 “チャイナ”、“ジャパン”、“アメリカ”などがサンフランシスコ、横浜間を22日で 結びました。」   [出典:説明パネルより][拡大画像(x23755.jpg)] [拡大画像(x23781.jpg): 説明書き]

    クリッパー シー・ウィッチ clipper Seawitch  1846年

    「クリッパーの名を特定の船型にあてはめることはできません。しかし鋭く前に せり出した船首はクリッパー・バウとしてその特徴の一つです。イギリスとフランスが 戦っている間(1793年~1815年)、独立したばかりのアメリカは中立国として海運力を延ばし、 造船に大胆な設計を行いました。その代表がウエッグ、グリフィス、マッケイの3人で 特にドナルド・マッケイの設計した船は大きくその快速は有名でした。「シー・ウィッチ」は、 ジョン・グリフィスの代表作で中国の広州を目的地とする航海につきました。1848年金が発見されゴールド ・ラッシュに沸くサンフランシスコへの航海では1850年にニューヨークから97日で到着する新記録を たてました。
    トン数: 907トン、長さ: 51.82m、幅: 10.36m、深さ: 5.79m、帆装: 3本マスト・シップ型、建造年:  1846年」   [出典:説明パネルより][拡大画像(x23762.jpg)] [拡大画像(x23763.jpg)]

    客船 グレート・イースタン 1858年

    「17メートルの外輪と、7メートル30センチのスクリューを廻し、長さ200メートル、 重さ19,000トンの鉄船が13ノット(時速24キロ)で走る。1858年に進水したこの船は、 不世出の天才アイサンバード・K・ブルネルが橋や鉄道の建設の次に手がけた船の建造の 3隻目で、第1船“グレート・ウェスタン”(木造外輪)、第2船“グレート・ブリテン” (鉄造スクリュー)につづき、外輪、スクリュー、帆と3つの推進力をもつ19世紀 最大の船でした。」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23756.jpg)] [拡大画像(x23757.jpg): 説明書き]

    装甲艦 H.M.S.ウォーリア 1860年

    「1854~6年にかけてのクリミア戦争で、イギリス・フランスの連合艦隊はロシアの セバストボール砲台からの炸裂弾で帆装木造艦や外輪艦に被害を受け、新しい軍艦が求められました。 1858年フランスは装甲木造艦「グロワール」を世界最初の装甲艦として進水させました。スクリュー 推進の木造艦に鉄板を張った「グロワール」に対し、イギリスの答えが「ウォーリア」でした。 「ウォーリア」は、イギリスのポーツマス軍港で石油備蓄用になっていましたが現在復元の作業が 進められています。」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23786.jpg)]

    クリッパー カティ・サーク 1869年

    「カティ・サーク」は、中国から欧州へお茶を運ぶために1869年(明治2年)に骨組は鉄で、外板は 木で造られた木鉄交造船でした。就航後1877年(明治10年)まではティー・クリッパーとして 中国航路に就航し、その後ウール・クリッパーとして1897年(明治20年)までオーストラリアからイギリスへ 羊毛を運びました。蒸気船の進出に押されてクリッパーとして積み荷を得られなくなり、その後 何度か転売され船名も帆装も変わりました。1922年(大正11年)イギリスに買い戻され、かつての 姿に復元され保存されています。
    トン数:963トン、長さ:64.74m、幅:10.97m、深さ:6.40m、船質:木造、 帆装:3檣シップ型、建造年:1869年(明治2年)」     [出典:説明パネルより][拡大画像(x23761.jpg)][拡大画像: x23797.jpg] [拡大画像: x23759.jpg: 説明書き][拡大画像: x23760.jpg: 主要目]

    最初のタービン船 タービニア 1894年

    「蒸気タービンを、はじめて船にとり入れたのはイギリスのチャールズ・パーソンズ でした。パーソンズは1894年(明治27年)船舶用蒸気タービンの特許を取って 試験船「タービニア」を建造し、ヴィクトリア女王在位60周年記念の大観艦式が 行われた1897年(明治30年)、その式典に飛び入りで「タービニア」を走らせ注目をあびました。 蒸気タービン機関は従来の蒸気往復動機関に比べ、重量が軽く、高速力が出せ、構造が 単純で保守が容易であることなど多くの利点がありました。「タービニア」の成功に よって蒸気タービン機関は、軍艦や大型船に次々と採用されていきます。「タービニア」 は現在ニューカャスルで保存展示されています。
    トン数: 44.5排水量トン、長さ:30.5m、幅: 2.7m、吃水: 0.9m、 機関: 蒸気タービン3基3軸、出力合計2,400馬力、最高速力: 35ノット/時」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23783.jpg)]

    客船 モーレタニア 1906年

    「モーレタニア」は、世界初の3万総トン級高速客船「ルシタニア」の姉妹船として、 1907年(明治40年)11月に竣工しました。主機関に蒸気タービンを本格的に採用した 結果、北大西洋横断航路を平均25ノットの高速で4日間で横断することに成功し、 以後22年間にわたって最高速客船の栄誉を示すブルー・リボンを保有し続けました。 しかし、1929年(昭和4年)ドイツ客船「ブレーメン」の登場によりその記録は破られ、 1935年には解体されました。
    トン数:31,938総トン、、幅: 27m、長さ:232m、旅客: 2,165名、主機: タービン4基(78,000馬力)、航海速力 : 25ノット、乗組員:812名、建造所: スワン・ハンター社、所属: キュナード社、進水: 明治39年(1906年)9月 、竣工: 明治40年(1907年)11月」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23780.jpg)]

    最初の航洋ディーゼル船 セランディア 1912年

    「1893年(明治26年)ドイツのルドルフ・ディーゼル博士の発明によるディーゼル機関を 搭載したはじめての船は、1903年(明治36年)20馬力の機関を積んだ運河航行の小船 でしたが、ドイツやデンマーク、スイスで改良が加えられ1912年(大正元年)には、デンマークの 「セランディア」が合計2,480馬力の機関を搭載し東洋航路に就航し大成功を納めました。「セランディア」 の成功は関係者に多大の関心を集め、その後のディーゼル船全盛の基をつくりました。「セランディア」は、 後に「トルナトール」と名を改めて日本に来航中、太平洋船倉が始まり1942年(昭和17年)静岡県 御前崎沖で座礁、大破しました。」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23784.jpg)]

    客船 ブレーメン 1929年

    「19世紀中頃に蒸気船による大西洋定期航路が開かれると、次第にその速力を 競うようになり、無形のブルー・リボンという栄誉まで生まれました。 定期船はその国の技術と名誉をかけたものとなって、最初はイギリス、やがてフランスやドイツ、イタリア、 アメリカがこの競争に参加しました。第一次大戦で敗れたドイツが国の威信を かけて建造したのがこの船で、5万1千トンを超える豪華客船は、1929年(昭和4年)と 1933年(昭和8年)の航海でブルー・リボンを獲得しました。港近くになると水上機を飛ばし、 郵便物を先に到着させるのも新しい試みでした。」    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23785.jpg)]

    戦前の豪華客船「浅間丸」

    「日本郵船が太平洋航路の充実を図るため、17,000総トン、20ノット級客船を建造、就航させた3隻の豪華客船の第一船が "浅間丸"でした。船内の設備には豪華な装飾がこらされ、イギリスの古典様式を取り入れるなど、「太平洋航路の女王」の 名にふさわしい船でした。さらに"浅間丸"は、当時わが国最大の客船であったばかりでなく、大型ディーゼル客船としても 太平洋航路では最初の船でした。終戦も近い昭和19年(1944年)11月に米潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。」

    「トン数:16,947総トン、全長:178.00m、幅(型):21.95m、深さ(型):12.95m、主機:ディーゼル4基(16,000馬力)、最大速力: 20.71ノット、乗組員:329名、旅客:1等239名、2等96名、3等504名、建造所:三菱長崎造船所、所属:日本郵船株式会社、 浸水:昭和3年(1928年)10月、竣工:昭和4年(1929年)9月」。
    [出典:説明パネルより][拡大画像(x23766.jpg)][拡大 画像(x23767.jpg): 説明書き][拡大画像(x23768.jpg): 主要目]


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