遣唐使、それは西暦630年から894年までの間、日本から中国の唐に派遣された公式の使節(朝貢使)である。619年に隋が滅んで 唐が建国されたので、それまで派遣していた「遣隋使」に替えてこの名称となった。
    左の画像:復原され屋外展示されている遣唐使船の全景。背後の館は「平城京歴史館」。  [拡大画像(x22762.jpg)][拡大画像(x22804.jpg)/小画像(z17193.jpg):トップページ用]

    遣唐使船の「復原にあたって」と題する展示パネルには次のように記されている。

    「遣唐使(けんとうし)の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関しては ほとんど資料がなく、どの位の大きさかを示す数字は残っていません。

    大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが 同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしようから、約100人が寝るために必要な面積を 考えると、船の長さは25m~30m、幅は長さの1/3~1/4程度として7~10mとなります。この大きさであれば、 150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしよう。

    遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」(きびだいじんにっとうえことば)という 絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程あとになって描かれた絵です。 その頃には宋(そう)の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。 しかし、実際に唐に派遣されていた時代の船の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは 避けて、「吉備大臣入唐絵詞」と同じに見えるような船を造ってあります。

    初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱(ほばしら)に網代帆(あじろほ)を上げていたのは間違いない でしよう。なお「続日本紀」(しょくにほんぎ)に百済船(くだらせん)の建造の記録がありますので、当時の百済船は 優秀だったのでしようが、それがどんな船だったのかも、残念ながらこれも資料が残っていないのです。」



    渡航回数
     西暦630年以来およそ10数年から20数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。第一次遣唐使の派遣は、630年の 犬上御田鍬(いぬがみのたすき)に始まり、894年の菅原道真(すがわらのみちざね) の建議により中止された。その約260年間に20回遣唐使が任命され、その派遣が計画されたとされる。しかし、 中止に至ったこともあり、実際に唐に渡ったのは15回とされる(ただし、実際の渡唐回数にも、送唐客使などの数え方に より諸説がある)。西暦907年には唐が滅亡し、遣唐使の派遣は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

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    1. [拡大画像(x22764.jpg)] 2.[拡大画像(x22765.jpg)]
     右側が船首、左側が船尾である。前檣と後檣の間にある屋形が「雑居部屋」で、後檣の後方に「賄い部屋」、さらに 「遣唐大使の部屋」と続く。

    遣唐使船の乗客・乗組員
     大使・副使とその随員以外にも、通訳・医師・留学生・留学僧、楽師、各種工人たち、また船を操る船師 (船長)、船匠(船大工)、その他の船員(漕ぎ手など)や射手たちなど、1隻に100~120人ほど乗っていたとされる。初期においては、 1隻か2隻の帆船で渡海したが、8世紀になると4隻編成となり、多い時には一行全員で500~600人にもなったと される。

     長年にわたり派遣され続けた遣唐使は、唐の政治制度、仏教、文化・技術などを学び、また書物・工芸品などの文物を 持ち帰り、日本の国造り、文化の発展に大きな影響をもたらした。

     遣唐使派遣史上著名な人物としては、例えば、最澄・空海、吉備真備(きびのまきび)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、 太安万侶(おおのやすまろ)、山上憶良(やまのうえおくら)、行基(ぎょうき)など多数である。中国人の鑑真和上 (がんじんわじょう)は遣唐使ら日本側からの長年の懇請に応えて来日が実現したとされる。

    「遣唐使船の航海」と題する展示パネルには次のように記されている。

    「初期の遣唐使船は朝鮮半島に沿って航海しましたが、奈良時代には九州から揚子江の北あたりに向けて直行しました。 磁石も海図もない時代ですから、星や太陽を見て走り、陸地が見えるとどのあたりかを判断し、目的地に向かうような 航海でした。

    天気の予測も経験が頼りですから、途中で天候が急変して予想もしなかった所へ到着することもありますが、順調に走れば ほぼ1週間で東シナ海を横断できました。奈良時代に九州を出航した18隻のうち14隻は帰国していますから、当時の 航海技術を考えると特に危険な航海であったとは言えないかもしれません。」



    渡航コース(唐への航路)
     航路には大きく分けて「北路」と「南路」があった。遣唐の前半期には北路が、後半期には南路が中心であった。
    具体的には、北路では、北九州から朝鮮半島西海岸沿いに航海し、遼東半島南海岸から山東半島へ至り、そこで上陸した後、 唐の都・長安に向かった。
    しかし、西暦663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での 足場をなくし、676年には新羅(しらぎ)が朝鮮半島から唐軍を追討し統一を成し得たため、北路での遣唐使派遣が不可能 となった。そのため新航路が必要とされ、南路や「南島路」が開拓された。
    朝鮮半島の新羅との関係が悪化した8世紀 以後における南路では、九州から東シナ海を横断して、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かうようになった。
    このように、 700年代前期では九州(薩摩)から南西諸島経由して東シナ海を横断する「南島路」、700年代後期から800年代前期 では、九州(五島列島)から東シナ海を横断する「南路」をもって唐をめざしたとされる。


    343&4. トランサム(船尾肋板)&舵板。  [拡大画像(x22763.jpg)][拡大画像(x22803.jpg)]

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    6 5&6. 船首の轆轤(ろくろ)[碇(いかり。または 錨)を揚げ下げするための巻上器(まきあげき)]という装置、および木石製の碇。 碇(錨)は、木製の錨幹に、同じく木製の錨爪がロープで固縛されている。また、錨幹には、錨爪と直角方向に石の棒が 括り付けられているのが見える。 [拡大画像(x22768.jpg)][拡大画像(x22769.jpg)]


    「碇」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「碇は船が風や海流などで流されないようにするために海底に沈めるものです。ただ重いだけでは海底を滑って しまいますから、又木(またぎ)などの海底に食い込むような形の木に石を結びつけて碇にしました。
    現在では錨は鉄製が常識ですが、鉄は非常に高価でしたから中国では宋(そう)の時代になって鉄錨(かないかり)を使い始めて おり、日本では室町時代の頃から普及し始めました。
    鉄の錨が普及し始めても木碇は近世まで使われ続け、元寇(げんこう)の際に台風で沈没した元(げん)の船の碇ではないかと 言われる細長い碇石が北九州で発見されています。
    重い碇は轆轤(ろくろ)(巻上器・まきあげき)を使って甲板に持ち上げていました。」


    遣唐使船の諸元など
    復原船の諸元については、「全長30m、全幅(ぜんぷく)9.6m、排水量300トン、積載荷重150トン」と 記されている(上記画像1)。
    遣唐使船は竜骨をもたないジャンク船に似た平底箱型構造で、帆柱2本で簡単な帆を用いていた。鉄釘はほとんど用いず、平板を つぎあわせて造られていた。波切りが悪く、不安定で、強風・波浪・横波に弱いという欠点があったとされる。また、 無風・逆風の時には帆を降ろし、櫓(ろ)を用いたとされる。このため多くの漕ぎ手を乗船させていた。また漂着地などでの 安全確保のため多くの射手をも乗船させていたとされる。


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    7. 竹の束、その上部に厚板で施された「艪棚」(ろだな)が見える(下記参照)。 [拡大画像(x22787.jpg)]
    8. 同上。 [拡大画像(x22788.jpg)]


    艪棚(ろだな)」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「遣唐使船は主に帆で走ったと思いますが、風が全く無くなった時や、陸地に近寄る時などには艪で漕いだはずです。 「吉備大臣入唐絵詞」には船体の外側に張り出した棚が描いてありますが、ここで艪を漕いだのです。この艪棚は国内の 船を扱った中世の絵巻物にも描かれています。 艪棚の下には竹の束が取り付けてありますが、「吉備大臣入唐絵詞」にそれらしい物が描いてあるので、同様に復原しました。 正確な用途は分かりません。艪棚は艪など長い物の置き場所にもなります。もしかしたら、ここがトイレを兼ねていた のかもしれません。」



    9. 碇の揚げ下げをするための、船首に施された轆轤(ろくろ)。ろくろを下から見上げた画像が5&6である。  [拡大画像(x22790.jpg)][拡大画像(x22789.jpg)]

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    10~13. マストと網代帆(あじろほ)(下記参照)。 10.[拡大画像(x22791.jpg)][拡大画像(x22792.jpg)] [拡大画像(x22793.jpg)] 11.[拡大画像(x22794.jpg)] 12.[拡大画像(x22795.jpg)] 13.[拡大画像(x22796.jpg)]


    「網代帆」(あじろほ)と題する展示パネルには次のように記されている。
    「「吉備大臣入唐絵詞」(きびだいじんにっとうえことば)には帆が描かれていませんが、他の絵巻物では 遣唐使船には網代帆を描いています。網代帆は竹や葦(あし)を薄く削った物を平らに編んで作った網代を竹で縛って継 (つな)ぎ合わせた帆です。

    網代帆は堅い帆ですから意外に性能が良いのですが、風が編目から抜けるのと重いのが欠点です。中国では19世紀頃まで 長い間使われ続けました。 布の帆は風を受けると袋のようになりますので、布製が普及しても中国では帆に竹を結びつけて帆が袋のようになるのを 防いでいました。

    日本では網代帆を使わず藁(わら)を編んだ筵(むしろ)を継ぎ合わせた帆を使いましたが、遣唐使船や江戸時代の朱印船 (しゅいんせん)などの絵画では網代帆で描かれています。」




    1313. 船首から 船尾方向を見る。右舷側甲板。 [拡大画像(x22797.jpg)]
    14. 同上。左舷側甲板。 [拡大画像(x22798.jpg)]

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    「遣唐使船の構造」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「奈良時代の日本国内で使用していたと考えられる、丸木舟に板を継ぎ足した「準構造船」(じゅんこうぞうせん)では、とても100人 を越える人を乗せて東シナ海を横断する数十日の航海ができるような大型の船は造れなかったと思います。
    また細長い丸木船では、大きな帆を上げて走ると転覆の危険があります。

    遣唐使船は、おそらく厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の外板をつなぐ梁(はり)を入れた「構造船」 (こうぞうせん)だったと考えています。

    百済船(くだらせん)を使用したような記録がありますから、遣唐使派遣のために百済船を建造したのでしよう。 百済船はそのような「構造船」だったのではないかと思います。」



    最上甲板には3つの屋形が設けられていた。船首から船尾方向に、「雑居部屋」、「賄い部屋」、および「遣唐大使の部屋」 が配置されている。(画像1&2参照)

    「雑居部屋」と題する展示パネルには次のように記されている。

    「現代の船旅では個室に寝泊りしていますが、18世紀頃には個室をもっていたのは船長くらいで、それ以外はお客さん でも大部屋で雑居でした。今でもフェリーには料金の安い大部屋でゴロ寝の客室があります。
    遣唐使船の時代には、もちろんほとんどの人は甲板の下の積荷の間などで寝ていたのでしよう。
    甲板の下に棚を吊って寝るようにしていたかもしれません。甲板の下には屋形の中に空けた穴からの光だけで薄暗かった でしよう。留学生や留学僧といった人達は航海中は何もする事がありません。昼間は屋形の床に空けた明り取りの穴の周りに 座り込み、木の実などをかじりながら議論していたのではないかと想像してしまいます。」
    右画像(15.)の左端に写っている、左舷側の艪棚(ろだな)には艪(ろ)が置かれているのが見える。  [拡大画像(x22802.jpg)]

    左画像(16.)では、船尾近くに2つの屋形が見える。右側の屋形が「賄い部屋」、左側がそれが「遣唐大使の部屋」である。  [拡大画像(x22801.jpg)]

    「賄い部屋」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「「吉備大臣入唐絵詞」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に三つの屋形があります。船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、 真ん中の少し小型の屋形は竈(かまど)を据えて火を扱っていたのではないかと想像しています。

    遣唐使船では航海中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯(ほしいい)(ご飯を乾かしたもの) 1升と水1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。 干飯に水をかけてもなかなか柔らかくなりません、多分お湯を沸かして皆に配ったのでしよう。
    航海中に火事を出した記録もあります。夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯位は沸かしたと思います。」



    また、「遣唐大使の部屋」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「帆船では船尾に近い所に位の高い人の部屋を設けていました。この遣唐使船でも、三つある屋形の一番 後ろの屋形が遣唐大使の居室だったのではないかと思います。大使は高位の貴族であったため、大使だけは一人で一つの 居室を使っていたでしよう。

    ただし、三つの屋形とも甲板の下に空気や光を入れるため甲板を大きく切り抜いていたはずですから、少なくとも 昼間は明り取りのために蓋を開けていたに違いありません。そう考えるとたいして広かったとは言えないかも知れません。
    絵巻物ではこの上に太鼓を描いている絵があります。艪(ろ)を漕ぐ時に太鼓を叩いて合図したのでしよう。 頭の上で太鼓を叩かれてはと少々気の毒になります。」



    「遣唐使船の積荷」と題する展示パネルには次のように記されている。
    「日本からは唐の皇帝に献上する品として、水銀や水晶、真珠、瑪瑙(めのう)などの宝石類、出火鉄(しゅっかてつ)(火打ち石で火を 起こすためのもの)、椿油(つばきあぶら)や漆(うるし)といった日本各地から税として都に集まった貴重な品物が運ばれました。
    持ち帰った品物としては、唐の皇帝から戴いた銅鏡(どうきょう)や銀器、瑠璃(るり)(ガラス)杯(はい)や唐三彩(とうさんさい)、 絹織物などのほかに、留学生や留学僧の持ち帰る書物、仏像、経典、さらに使節などの人達、技術習得のために派遣された工人などが 購入した品々があります。そのうち幾つかは「正倉院宝物」(しょうそういんほうもつ)として現在でも見ることができます。
    こうした物だけではなく、唐からは僧侶や彫刻師などの技術者、遠くはペルシャの人も便乗して来日しました。」


    右画像(17.): 長い木棒が舵柄である。舵軸の頭下に四角い小さな孔が開いているが、そこに舵柄を差し込んで、数人 掛かりで舵を取る。 舵柄の後ろに轆轤(ろくろ)が見える。水深が浅い水域において舵が水底に接触しないよう舵板を巻き上げたりするのに 用いられる。 [拡大画像(x22800.jpg)]

    「主舵」(しゅだ)と題する説明パネルには次のように記されている。
    「船尾の中央には舵があります。甲板上の通行の邪魔になるので舵柄(かじつか)を取り外して置いてありますが、 本来は舵柄を舵の頭に差し込んで数人掛りで舵を取りました。
    この船では水面から下は作ってありませんが、舵は舵効(かじき)きを良くするために船体よりも下に突き出ていますから、 浅い所では舵が海底に当たらないように少し巻き上げる必要がありました。
    風が強くなって船が傾くと、船尾が持ち上がって舵が浅くなって舵効きが悪くなりますから、両舷に小型の舵を取り付けて 使うことがあります。現在でも東南アジアの船などは両舷の舵だけを使っています。船尾の中央に舵を取り付けたのは 中国の発明であるという説もあります。」


    [参考] フリー百科事典ウィキペディア「遣唐使」、その他公式 パンフレット「平城京歴史館/平城遷都1300年祭」など。
    [2010.09.18 平城京歴史館/遣唐使船(復原展示)にて; 2010年4~11月に奈良・平城京跡会場にて「平城遷都1300年祭」実行]


    平城宮の風景
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    1. 遣唐使船(復原)から平城宮跡会場に復元された「朱雀門」(すざくもん)を遠望する。 [拡大画像(x22799.jpg)]
    2. 「朱雀門」は平城宮の正門である。「朱雀」とは南を守る中国の伝説上の鳥をいう。 [拡大画像(x22775.jpg)]
    3. 復元された第一次大極殿。 [拡大画像(x22776.jpg)]


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