トラファルガーの海戦 (The Battle of Trafalgar) とは、スペインのトラファルガー岬の沖において、英国艦隊とフランス・スペイン
連合艦隊との間で、1805年10月21日になされた海戦である。18世紀末から19世紀初めにかけて約20年間にわたり展開された
いわゆるナポレオン戦争における最大規模の海戦であった。
画像の貼り紙は、トラファルガーの海戦での勝利を最上級の表現をもって称えている。
歴史は少し遡るが、1789年フランス・パリで革命が起こった。即ちパリの民衆によるバスチーユ牢獄の襲撃である。
その後フランス・ルイ16世の絶対王朝が崩壊した。他の欧州諸国は、その革命の波及を恐れ、フランスに干渉し戦った。そして、
時は1800年代初め、フランスにおいてボナパルト・ナポレオンが実権を握る時代となった。
トラファルガーの海戦がなされた1805年当時、欧州大陸はフランスの皇帝ボナパルト・ナポレオンの勢力・支配下に置かれていたが、
海上の支配権については英国下にあった。
英国は海上封鎖を行いフランス軍による英国本土への侵攻を防御していた。ナポレオンは、当時その支配下においていたスペインと
の間で連合艦隊を組織し、英国の海上封鎖を突破して、ブローニュの港に終結させた35万人のフランス軍を英国本土に上陸させる
という計画であった。英国はそれを阻止すべくホレーショ・ネルソン提督(Admiral Lord Viscount Nelson) が率いる艦隊を差し
向け対峙させた。
英国艦隊は、「ヴィクトリー号 Victory」を旗艦とする戦列艦27隻、フリゲート4隻。他方、フランス・スペイン連合艦隊は
ピエール・ヴィルヌーヴ提督が率いる「ビューサントル号」を旗艦とする戦列艦33隻であった。ネルソン提督は、仏西連合艦隊の
隊列を分断するために、その隊列に2列縦隊で突っ込むという、いわゆる「ネルソン・タッチ」戦法を展開した。
激戦の結果、英国側の損害は、艦船の大破・拿捕0隻、死者449名、戦傷者1,214名。他方、連合艦隊側のそれは、死者4,480名、
戦傷者2,250名、捕虜7,000名、艦船の大破・拿捕22隻。ヴィルヌーヴ提督自身も捕虜となった。
他方、ネルソン提督自身はフランス狙撃兵の銃弾を受け、その生涯を閉じた。
「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して息を引き取ったという。
トラファルガーの海戦によってナポレオン戦争が終焉を見た訳ではない。その
海戦の2か月後 (1805年12月)、フランスはアウステルリッツの戦いに勝利し、戦争の主導権を奪還した。その約10年後の1815年の
ワーテルローの戦いでナポレオンは敗北した。ナポレオン戦争の終結は、そのワーテルローの戦いまで待たねばならなかった。
トラファルガーの海戦によってフランス海軍は弱体化し、英国に対する経済封鎖を貫徹できなかったことが、フランス敗北の
重要な要因の一つへと繋がっていくのである。
[2013.5.29 画像撮影:英国プリモス/DUTTONS Cafe Continental][拡大画像: x25461.jpg]
* 画像のポスターには両艦隊の戦列艦名、砲数、兵員数などが記されている。英国艦隊:砲2,178門、兵員17,076名、
フランス・スペイン艦隊:砲2,652門、兵員25,200名と記されている。 [拡大画像: x25462.jpg]
[拡大画像: x25463.jpg:英国艦隊陣容][拡大画像: x25464.jpg:連合艦隊陣容]
* 英国ロンドンのトラファルガー広場はネルソン提督が率いた英国艦隊の戦勝を記念して築造されたものである。
* ナポレオン戦争略史は下記の通り (ボナパルト・ナポレオンの生誕から没落まで
/トラファルガーの海戦の位置づけのための略史)。
ナポレオン戦争略史
* 18世紀末から19世紀初めにかけてのナポレオン戦争におけるトラファルガーの海戦(1805年)の史的位置を見るために、
ナポレオンの生誕から没落に至るまでの略史をまとめた。
1769年、ボナパルト・ナポレオン、コルシカ島で生まれる。
1784年、ナポレオン、パリ士官学校に入学する。
1789年7月14日、フランス・パリの民衆がバスチーユ牢獄を襲撃する(フランス革命の始まり)。
同年8月、国民議会が「人権宣言」(正式名「人間及び市民の権利の宣言」)を決議する。
1792年、フランスがオーストリアに宣戦するが、敗北を重ねる。これ以降、フランスは、革命の波及を恐れるほぼほとんどの
欧州諸国と四半世紀にわたり戦争することになる。
1792年、プロシアがフランスに宣戦する。同年9月プロシアを破る。
1792年9月、フランスの国民公会が王政廃止を決議し、共和制の樹立を宣言する (第一共和制)。
1793年1月、ルイ16世 (在位1774‐1792年) がパリの革命広場 (コンコルド広場) で断頭台処刑される。
1793年、第1回対仏大同盟をもって、英国は他の欧州諸国とともに対仏・反革命の軍事同盟を形成する。
1793年、マリー・アントワネットが処刑される。
1795年、国民公会が解散され、総裁政府が樹立される。
1796年3月~翌年、ナポレオン、イタリアに遠征する。当時オーストリアの支配下にあったイタリアにて
オーストリア軍を破る。大同盟を崩壊させる。
1798年5月~翌年、ナポレオン、エジプトに遠征する。「ナイルの海戦」において、
ネルソンの率いる英国海軍に敗北する。エジプト遠征は英国とインドの連絡を遮断し、フランスがインド方面に進出することを目的とした。
仏海軍はネルソン艦隊に敗れたため、ナポレオンは孤立し苦戦に陥り、翌年数万人の兵士を置き去りにして、エジプト戦線から離脱して
帰国する。(なお、仏遠征軍の大尉がエジプト文字の解読につながるロゼッタ・ストーンを発見する。)
1798年12月、英国が第2回対仏大同盟を結成する。
1799年11月、エジプト戦線から独断で帰国したナポレオンはブリュメール18日クーデターを起こし、12月に
統領政府を樹立する(第一統領に就任する)。
1800年、フランスがオーストリア軍を破る。
1802年 英国と講和のための「アミアンの和約」を結び、対仏大同盟を崩壊させる。ナポレオンが終身統領に就任する。
1804年3月、ナポレオン、フランス民法典を制定する。
1804年5月、ナポレオンが皇帝に即位し「ナポレオン一世」と称する (在位:1804-1814年) (第一帝政始まる)。
ここにバスチーユ以来の革命は完全に終わりを告げる。
ナポレオンは国民に選ばれて皇帝となる。フランスは革命を経て絶対王政から帝政時代に行き着く。
1805年8月、英国が第3回対仏大同盟を結成する。
1805年10月、ナポレオンは、英国本土侵攻を企て、フランス・スペイン連合艦隊をもってスペインの
トラファルガー岬の沖にて、ネルソン提督の率いる英国艦隊と海戦する。
英国艦隊が大勝利を収めるが、ネルソンはこの海戦でフランス狙撃兵の銃弾に倒れ、その生涯を閉じる。亡骸の腐敗を防止する
ためにラム酒入りの樽に詰められて祖国へ帰還する。
1805年12月、海戦で大敗北をきしたナポレオンは、オーストリア・ロシア連合軍をアウステルリッツ
(現在のチェコ)の戦いで破り、戦争の主導権を奪う。
1806年7月、ライン同盟が成立し、同年8月ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体させ、次いでプロイセンを破る。
1806年11月、ナポレオンは大陸封鎖令 (ベルリン勅令) を発する。
ナポレオンは対英経済封鎖によって打撃を与えようとした。英国は米国・カナダなどと通商し危機をしのいだ。
ナポレオンは海軍力を弱体化させていたが故に、その対英封鎖の効果は上がらず、むしろ英国との貿易封鎖でロシアなどの
大陸欧州諸国が苦しめられ、それがナポレオンを窮地に追い込んで行くことになる。
1807年、ティルジット条約(対プロイセン、ロシア)。欧州諸国にナショナリズム高まる。
1812年6月~12月、ナポレオン、ロシアに遠征する。ロシア軍と民衆の抵抗にあい敗北する。
1813年10月、ナポレオンがライプツィヒの戦い(諸国民戦争)において連合軍に敗北する。
1814年4月、ナポレオンが退位する。エルバ島へ流刑される。
1814年5月、ブルボン家の王政復古 (ルイ18世) となる。
1814年9月~1815年6月、ウィーン会議。ナポレオン戦争後の国際秩序再建のため欧州諸国が協議した
ものの利害が対立する。ナポレオンがエルバ島を脱出したことにより妥協が成立する。
結果、産まれた新国際秩序がウィーン体制といわれるもの。その根底にあったものは、自由を求める諸民族に対する抑圧であった。
1815年6月、ナポレオンが英国・オランダ・プロイセン連合軍にワーテルローの戦いに敗れる。
ナポレオンが退位する。
1815年3月、ナポレオンがエルバ島を脱出する。百日天下 (~6月)。
1815年10月、ナポレオン、セントヘレナ島へ流刑される。ナポレオンの没落後、フランスに再び
ブルボン王朝が復活する。
1821年5月、ナポレオン、その生涯を閉じる。
ナポレオンはフランス革命の精神を掲げて遠征し、また欧州諸国と20年近く戦った。その本質は「侵略戦争」そのものといわれる。
* 参照: Wikipedia「トラファルガーの海戦」/読むだけですっきり分かる世界史・近代編・コロンブスから南北戦争まで、
後藤武士、宝島社、2011年/NHK通信高校講座・1978年度高校世界史/他。
辞典内関連サイト
・ 世界の海洋博物館
・ 英国の海洋博物館
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