一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
浦賀の渡船 [横須賀市]
浦賀港のある入り江を地形的に見ると、1.5kmも内陸部へ細長く湾入しており、その奥行きは深い。自然の成り行きとして、
街はその入り江の両岸に発展していった。
人々が両岸を行き来するのに、わざわざ湾奥まで周回することはとても不便であったに違いない。入り江の中程の両岸に渡し舟の
便を施すというのはごく自然であった。画像は現在の渡しの風景である。
桟橋に設置された呼び鈴ならぬ呼びベルを押すと、船頭さんに伝わり、対岸での準備が整い次第、渡船が迎えに来てくれる。
画像は東浦賀側の渡船場である。
大人片道料金は150円。東西浦賀の地元の人々にとっては大変ありがたく、実生活になくてはならない存在である。
1720年(享保5年)伊豆下田から奉行所が移され、奉行所が新たに浦賀に置かれると、江戸湾に出入りする全ての船の乗組員と
積み荷が検査され、所謂「船改め(ふなあらため)」を受けることが義務付けられた。奉行所の関係役人だけでは人手が足りず、
伊豆下田や浦賀の100軒余の廻船問屋の手を借りざるをえなかった。
そのため、浦賀の町は大いに繁栄した。以後、浦賀は黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸の建造地として、
更に浦賀船渠(株)の設立など、事あるごとに歴史の舞台に登場した。 渡船の歴史は古い。浦賀の渡船は、浦賀奉行所が置かれて間もない1725年(享保10年)頃に始まった。 江戸時代には船が一隻で、漕ぎ手の船頭は二人であった。1733年(享保18年)の「東浦賀明細帳」には、渡船を修復する際、周辺の村も 東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認される。その当時の船頭の生活は東西浦賀村の一軒当たり米6 合で支えられていたとされる。 また、1876年(明治9年)編纂の皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス…船二隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」 とあることから、民営の渡船であったとされる。 1917年(大正6年)には浦賀町営となり、1943年(昭和18)年4月浦賀町が横須賀市に合併されると渡船事業は市営 になった。1949(昭和24年)以降は渡船運航業務は民間に委託され、現在に至っている。1955年(昭和30年)代後半に渡船はエンジン船 で運航されるようになり、現在の渡船「愛宕丸」は1998年(平成10年)8月から就航している。なお、 1878年(明治11年)頃の運賃は一人1厘5毛で、夜間は倍額であった。 東西両岸の住民が往来するために利用される渡し航路は大変便利であり、生活路として欠かせない。現在、この航路は「浦賀海道」と名付けられ、 横須賀市道2073号となっている。僅か数分の渡しであるが、探訪の時には、浦賀のシンボルである「東西浦賀の舟旅」をお楽しみいただきたい。
* 参考資料: 久里浜の「ペリー記念館」内掲示ポスター、「浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」設置の「渡船場」と
題する案内パネル、横須賀市制施行70周年記念として設置された案内パネル「横須賀風物百選 浦賀港と渡船」など。 |
1 1. 浦賀港西岸の船番所跡辺りから港の湾奥を望む。 [拡大画像: x26467.jpg]
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