一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
米国艦隊 (黒船4隻)司令長官・ペリー提督の久里浜上陸 [久里浜・ペリー記念館]
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画像 (上段): 米国東インド艦隊司令長官ペリー提督の使節一行が1953年7月14日に久里浜に上陸する直前の様子を描いた「ハイネ原画 石板画
ペリー久里浜上陸図」(横須賀市自然・人文博物館蔵)である。出典: 久里浜・ペリー公園敷地内に建てられた
ペリー上陸記念碑 (1901年建立) に関する説明パネルより。 画像 (下段): ペリー一行が上陸して、会見場に臨む様子を描いたもの。画:尾形月山(ペリー記念館蔵)。 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米国マシュー・カーブレイス・ペリー提督(Commodore Matthew Calbraith. Perry, USN, Commander-in-Chief, the US Naval Forces East India, China and Japan Seas)が率いる4隻の艦隊が浦賀沖に来航し、投錨した。 ペリー提督ら使節団一行は、同年7月14日(嘉永6年6月9日)に、久里浜の野比海岸に上陸した。江戸幕府が建てた臨時の応接所において 接遇されたペリー提督は、米国フィルモア大統領(President Filmore)から幕府へ宛てた、開港と通商を求める親書を差し出した。 ペリー提督は、翌年1854年7隻の軍艦を率いて神奈川 (現在の横浜市神奈川区) 沖に再来航して、同年2月13日(嘉永7年・安政元年1月16日)、 神奈川において江戸幕府側と日米和親条約(神奈川条約)(U.S.-Japan Treaty of Peace and Amity)を締結した。 鎖国政策を続けていた日本は、215年間の時を経て、世界に向けて門戸を開放 (開港と通商) するという、その国是・国策の革命的転換を行なった。 親書の中で述べられている米国艦隊の派遣、および外交交渉の目指すところは、端的にいえば、「友好、貿易、石炭と必需品の供給、 遭難者の保護」である。 当時米国の多くの商船がカリフォルニアから中国へと航海していた、また、米国は捕鯨大国でもあった。鯨から採油するために日本近海で 盛んに捕鯨活動に従事しており、米国側からすれば、捕鯨船やその乗組員の安全・保護が急務の政治・経済・社会的な重要課題であった。 悪天候による海難者への救難・保護を日本側に求め、また米国船への石炭、食料、水などの供給を受けるため日本諸港への寄港を求めた。 1854年締結の神奈川条約では、下田と函館の2港が米国船の受け入れ港として開港すること、そして薪水 (しんすい)、食料、石炭、 その他の必要物資の供給を受けることができることを米国側に約束した。かくして、日本の近代の幕開けの歴史的第一歩がここに記された。
[2014.10.29. 久里浜・ペリー記念館にて] |
5. ペリー提督の銅像。いずれもペリー記念館内の展示。 [拡大画像: x26576.jpg] |