一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
カスティーリャ王国イサベル女王 & コロンブスの
インディアス航海事業計画の説明
[キューバ首都ハバナ・モーロ要塞海洋展示室]
クリストファー・コロンブスの3隻の船隊がインディアスをめざしてスペイン南西部の港町パロスを船出したのは1492年8月3日のことである。
コロンブスは、その航海事業を実現する少なくとも10年以上も前から、大西洋を西回りしてインディアス(現在のインドではなく、
インド、南アジア、東アジアを含む東方のアジア地域とほとんど同義である)、
特に大ハーン (大汗) の国や黄金の国ジパング(ジパンゴ)を目指すという事業計画を練り温めていた。 コロンブスは1483年末頃にポルトガル王室にその事業計画を売り込んだ。時のポルトガル国王ジョアン2世に謁見を許されたのはその翌年である。 ジョアン2世は諮問会議を招集し検討させた。結果は「却下」であった。コロンブスの過大な見返り要求を織り込んでの却下の決定であった。 その決定が彼に伝達されたのは1485年初め頃とされる。 コロンブスは、いったんはポルトガルに見切りをつけて、スペインのパロス(セビーリャの西方100kmほどにある)に移動し、 フランシスコ会ラ・ラビダ僧院に身を寄せた。当時スペイン王国はイサベル女王のカスティーリャ王国とフェルナンド王のアラゴン王国 とが1479年に連合したばかりの新興国であった。 コロンブスは修道院長ファン・ペレスを介して何人かの有力者に知遇をえて、両王に事業を打診することができた。 コロンブスは1486年初めの頃に、イサベル女王に謁見を許された。彼は、黄金、香料などインディアスの富、イスラム勢力に妨げられないこと、 東回りよりも早く大ハーンやジパングに到達できることなどを説いた。 イサベル女王は諮問会議に計画案を検討させた。その結論が下されたのは1487年から1490年の間と推定されている。 結果は事実上の却下であった。彼は、その間イギリス、フランスなどに事業計画を売り込んではいたが、いずれも成功はしなかった。 スペイン両王は1492年1月イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の砦であったグラナダ宮殿を陥落させ、イスラム勢力を半島から 一掃する手筈となった。 即ち、8世紀以来のレコンキスタ=国土回復運動 (718年~1492年) を成就させた。コロンブスにとってこれは好機であった。彼は再び事業 計画を王室に売り込んだ。だが、両王は却下するにいたる。理由は彼の過大な見返り条件にあったとされる。 コロンブスはグラナダから引き揚げ、コルドバ街道沿いのピノス・プエンテ近くにて、女王が遣わした使者と遭遇し、王宮に引き返すよう 求められた。コロンブスとイサベル女王との間を取りもったのは、コンベルソ(カトリック教へ改宗したユダヤ教徒)であり、豪商の アラゴン王国財務長官ルイス・デ・サンタンヘルであった。 1492年4月17日、グラナダ近郊のサンタ・フェにて、コロンブスは女王との間で航海事業に関する見返り条件などを盛り込んだ サンタフェ・フェ協約を取り交わした。そして、同年8月3日サンタ・マリア号を旗艦とする3隻が乗組員約90名とともにインディアス をめざして出立した。 画像は、コロンブスがイサベル女王らに事業計画を説いている想像図である。展示パネルには説明がなく、いずれの謁見時の想像図なのか、 詳細は不明である。 [画像撮影: 2015.2.7 キューバ首都ハバナのモーロ要塞内の海洋展示室にて][拡大画像: x26920.jpg] |