略 年 表
(江戸時代初めの石川島・佃島埋立、石川島造船所創建から石川島播磨重工業・IHIの佃工場閉鎖まで)
1603年 (慶長8年) 江戸幕府が開幕される。
1612年 (慶長17年) 摂津国 (現在の大阪市) の佃村の庄屋・森孫右衛門と佃村・大和田村の漁師ら32名が、徳川家康の招きに応じて、
江戸に移住する。
1626年 (寛永3年) 江戸幕府の船手頭であった石川八左衛門が、隅田川河口の無人島を拝領し、造成を行ない、屋敷地とした。その後
同島は石川島と称されるようになる。
1639年 (寛永16年) 鎖国が完成する。
1644年 (正保元年) 佃村・大和田村から移住した漁師たちが幕府から拝領した干潟百間四方を造成し、故郷の村名を取って佃島と命名し、
以後ここを居住地とした。
(注)江戸時代よりも以前から、現在の佃島辺りには、鎧島・森島などと呼ばれる無人島や干潟が点在していた。
江戸幕府の開幕以後、石川島・佃島がそれらの無人島や干潟を埋め立てて造成された。(下記地図参照)
1646年 (正保3年) 故郷摂津国での守り神を祀る「住吉神社」から分祀を受けて佃島に住吉神社を造営する。
1790年 (寛政2年) 火付盗賊改メ方長谷川平蔵の献策によって、石川島と佃島の間にあった浅瀬を埋め立て、人足寄場が造営される。
後に両島の間に石川島人足寄場が建設された。両島は独立した島であり、橋は架けられていなかった。なお、
1792年 (寛政4年)、石川島を屋敷地としていた石川氏が転居すると、島全体が人足寄場の敷地となった。
1853年 (寛永6年) 石川島に造船所が設立される。米国ペリー艦隊来航に触発された江戸幕府は、欧米列強への対抗に資するため、
水戸藩の徳川斉昭に造船所を創建させ、大船建造を命じた。もって、この地が日本の近代造船業の起点となる。同年、日本初の洋式帆走
軍艦「旭日丸」の建造が着手された。→ 同造船所は1945年に石川島重工業(株)に改称された。
1858年 (安政5年) 日米修好通商条約の調印。
1866年 (慶応2年) 幕府は、日本で初めて軍艦用蒸気機関 (60馬力) を製造、それを搭載し、スクリュー推進を採用した「千代田形」砲艦
(蒸気軍艦) の試作艦を石川島で建造し完成にいたる。
1867年 (慶応3年) 大政奉還 翌年に明治と改元される。
1872年 (明治5年) 新橋-横浜間に鉄道が開通する。
1876年 (明治9年) 平野富二が設立する。
1876年 (明治9年) 10月 平野富二は政府から石川島ドックの貸与を受け、日本で初めての民間洋式造船所である「石川島平野造船所」
を設立した。同年11月には、一番船として外輪式蒸気船「通運丸」を起工し、翌明治10年2月に完工、試運転を行った。民間の手による蒸気船の
建造は初めてであった。
* 「通運丸」について: 民間初の蒸気船が石川島平野造船所での一番船として建造された。同資料館ではその建造中のドックの情景を、
働く職工らとともに再現した模型を見ることができる。
1877年 (明治22年) 渋沢栄一らの出資により、石川島平野造船所は会社組織となる(有限責任石川島造船所の設立)。
1894~95年 (明治27~28年) 日清戦争。
1904年~05 (明治37~38年) 日露戦争。
1907年 兵庫県相生村(現在の相生市)村長唐端清太郎が「播磨船渠(株)」を設立する。→ 1929年に「(株)播磨造船所」に改称される。
1941~45年 (昭和16~20年) 太平洋戦争。
1945年 (昭和20年) 1853年に設立された石川島造船所は「石川島重工業(株)」に改称される。
1960年 「石川島重工業」と「播磨造船所」が合併し、「石川島播磨重工業(株)」が誕生する。
1964年 (昭和39年) 東海道新幹線 (東京-新大阪間) 開業する。
1964年 (昭和39年) 東京オリンピック開催を目前にした8月27日に、江戸時代に始まり320年の歴史をもっていた佃の渡しが廃止される。
その後は佃大橋が佃島への足となる。
1964年 (昭和39年) 東京オリンピックが開催される。
1970年 (昭和45年) 大阪で万国博覧会が開催される。
1975年 (昭和50年) 石川島播磨重工業、48.4万重量トンタンカー「日精丸」を建造する。
1979年 (昭和54年) 佃工場が閉鎖され、ここに石川島造船所の126年の歴史に幕が閉じられる。
2007年 (平成19年) 石川島播磨重工業(株)は「(株)IHI」と社名を変更する。
[参考]通運丸について
民間の造船所で建造された日本初の蒸気船(総トン数34トン)。その後ほぼ同型・同名の船が40隻ほど建造され、関東周辺での河川で旅客、
貨物の輸送に使用された。石川島平野造船所では、このうち8隻が建造された。通運丸は13馬力の主機1基をもって、時速6ノットほどで航行
できたとされる。同船は当時の内国通運会社、後の「日本通運」が購入し、都内の両国と武州妻沼(埼玉県大里郡妻沼町)間の旅客輸送に
従事した。北関東地域においても鉄道未発達時代にあっては大量高速輸送機関として重用された。他方、同地域の河川を行き来した帆舟や漕ぎ舟
は駆逐される運命をなった。
[主要参考資料] 石川島資料館発行 (2017年11月) の同館紹介用パンフレット「石川島からIHIへ」など。
IHIホームページ: http://www.ihi.co.jp