一枚の特選フォト「海 & 船」
石川島播磨重工業/IHIの「石川島資料館」 [東京・中央区佃]
民間企業「IHI」の前身は石川島播磨重工業である。その東京・佃工場は石川島の地にあった。その住所としては現在の中央区佃である。
石川島はいわば日本の近代的造船業の発祥の地といえよう。歴史を遡れば(下記の略年表参照)、江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、
その地に水戸藩の徳川斉昭によって「石川島造船所」が創設された。その90年ほど後には、同造船所は「石川島重工業(株)」
に改称された。さらに、1960年には、その石川島重工業と「播磨造船所」が合併して、「石川島播磨重工業(株)」となった。
2007年には上述の「IHI」へと改称された。1853年の創業以来、その経営組織体は連綿として引き継がれてきた。造船をはじめとして、
日本の重工業の産業的発展に大きな貢献を果たしてきた。だがしかし、石川島においてその基幹的事業体となっていた佃工場は、1979年
(昭和54年)にその役割を閉じた。 佃に立地する石川島資料館では、江戸時代初期における石川島・佃島の埋立てによる島の誕生、石川島造船所の創業から現在にいたる までの組織と産業の歩み、石川島・佃島の歴史・文化などに関する貴重な史料が展示されている。同造船所創業時における「通運丸」の 建造場景のジオラマ模型、日本初の洋式帆走軍艦の「旭日丸」の模型などの展示もある。
資料館住所: 東京都中央区佃1-11-8 ピアウェストスクエア1F。 |
(江戸時代初めの石川島・佃島埋立、石川島造船所創建から石川島播磨重工業・IHIの佃工場閉鎖まで) 1603年 (慶長8年) 江戸幕府が開幕される。 1612年 (慶長17年) 摂津国 (現在の大阪市) の佃村の庄屋・森孫右衛門と佃村・大和田村の漁師ら32名が、徳川家康の招きに応じて、 江戸に移住する。 1626年 (寛永3年) 江戸幕府の船手頭であった石川八左衛門が、隅田川河口の無人島を拝領し、造成を行ない、屋敷地とした。その後 同島は石川島と称されるようになる。 1639年 (寛永16年) 鎖国が完成する。 1644年 (正保元年) 佃村・大和田村から移住した漁師たちが幕府から拝領した干潟百間四方を造成し、故郷の村名を取って佃島と命名し、 以後ここを居住地とした。 (注)江戸時代よりも以前から、現在の佃島辺りには、鎧島・森島などと呼ばれる無人島や干潟が点在していた。 江戸幕府の開幕以後、石川島・佃島がそれらの無人島や干潟を埋め立てて造成された。(下記地図参照) 1646年 (正保3年) 故郷摂津国での守り神を祀る「住吉神社」から分祀を受けて佃島に住吉神社を造営する。
1790年 (寛政2年) 火付盗賊改メ方長谷川平蔵の献策によって、石川島と佃島の間にあった浅瀬を埋め立て、人足寄場が造営される。
後に両島の間に石川島人足寄場が建設された。両島は独立した島であり、橋は架けられていなかった。なお、
1792年 (寛政4年)、石川島を屋敷地としていた石川氏が転居すると、島全体が人足寄場の敷地となった。
[参考]通運丸について
[主要参考資料] 石川島資料館発行 (2017年11月) の同館紹介用パンフレット「石川島からIHIへ」など。 |
画像の古地図には「明和8年」という年号の記載が読み取れることから、1770年代作成と推察される(元号・明和は1764年-1772年 までの期間の元号; 江戸幕府の徳川家治の時代に当たる)。 地図下方の川は江戸湾へ注ぐ大川(隅田川)。その最左が河口に当たる。江戸時代1644年に埋め立てられた佃島が赤い矢印で示される。 その右側にある小島は石川島。隅田川に架かる橋は、最左から永代橋、新大橋、両国橋。 両国橋のすぐ上流にて神田川が注ぎ出る。中央右端にある池は上野の不忍の池。神田川は江戸城東方にて2方向に分かれ、江戸城の外濠の 水源として利用されている。 [拡大画像: x28260.jpg] |