一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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江戸城大修築の石材運搬船絵図

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東京都内の地下鉄「市ヶ谷」駅の地下通路に江戸城の石垣を復元し展示するコーナーがある。江戸時代初期に行われた江戸城の大修築 のための石材の切り出しから運搬までの様子を描いた絵図の「石曳図(いしひきず)」(下田愛子氏蔵) も展示されている。 絵図には次のような解説が付されている。
    小田原藩大久保家が幕府へ献上する石材の切り出しから運搬までの手順を描いた図。石山での石曳きのための道づくり、採石、切石の沢落とし、 修羅(木のソリ)を使った巨石の浜出し、ろくろ(巻車)を使った巨船への積み込みなど、当時の様子を知ることができる。
展示コーナー (画像4参照) には、次のような趣旨の解説がなされている。
    展示コーナーに造営されている江戸城の石垣は、雉子橋 (きじばし)(千代田区九段南)から出土した石材を使って、江戸時代初期 (17世紀 初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法を再現したものである。 石材には、切り出しや石積みを行なった藩や石工などの刻印と共に、石割りの際の「矢穴 (やあな)」が残されている。 矢穴とは石を割りやすいように石の目に沿って石切ノミで掘られた穴のことである。これに「矢」と呼ばれる 楔 (くさび) や薄い鉄板を刺し込み、玄翁 (げんのう) という槌で矢を叩いて割った。

ところで、平成22年 (2010年) 2月5日付け読売新聞に「江戸城に伊豆石 大名の腐心 「天下普請」採石場の争奪戦」 と題する記事が掲載されている。その一節をここに紹介する。

    太田道灌が15世紀に築いた江戸城は、徳川家康の入城に伴い、1604年(慶長9年)の動員発令以降、断続的に大修築が行われた。 06年には約20の大名が動員され、約3000の船が毎月1万2000個の大石を伊豆から江戸へ運んだと、当時の記録は伝えている。
同紙によれば、江戸城の石垣は、ほとんどが伊豆半島から運ばれた石材で築かれているという。 採石場(石丁場・いしちょうば)で切り出す時にうかつ矢穴と呼ばれる穴があけられ、石割りされる。また石材には、採石した大名の 名前や家紋などが刻印される。展示の石材にもそれらの穴や刻印が残されている。

[画像撮影: 2017.6.27 地下鉄市ヶ谷駅の石垣展示コーナーにて]
1. [拡大画像: x28299.jpg]
2. [拡大画像: x28300.jpg]

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3. 「石曳図」全体。
4.  江戸城石垣を復元展示するコーナー全体。


東京・中央区リバーシティ21地区の隅田川岸に立つ石川島灯台の基礎石の由来(江戸城石垣の一部)


画像の石材は、東京・中央区リバーシティ21地区の隅田川岸にある石川島灯台の基礎とその背後に配されている。 区立の石材案内板には次のように記されている。

    石の由来
    ここに使用してある石は、昭和60年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際雉子 (きじ) 橋付近から発生した石垣の一部です。
    徳川幕府は慶長10年(西暦1605年)第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の31大名に命じ ました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は 困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。 また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
                             平成元年4月 中央区土木部公園緑地課
[画像撮影: 2018年6月27日 石川島灯台訪問にて][拡大画像: x28276.jpg][拡大画像: x28277.jpg: 案内板]


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