東京都内墨田区に設置される「勝海舟生誕之地」の碑には、「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生 文政6年(1823年)」と題する絵巻調解説パネルが添えられている。そのパネル中に「米国黒船艦隊ペリー提督・横浜上陸の図」
があり、「嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ」と記される。
さらに、絵図には次のような説明が添えられている。
「ペリー提督・横浜上陸の図: 横浜開港資料館所蔵
黒船来航 嘉永6年6月3日 (1853年)、ペリーが率いる米国海軍東インド艦隊の艦船が浦賀に来航した。
米国の軍事力を前に対応に苦慮した老中阿部正弘は幕閣のみならず広く意見を求めた」
ウイキペディアを参考にペリー提督の上陸にいたる略史を綴る。
・ 1853年(嘉永6年)に、マシュー・ペリー司令官が率いる米国海軍東インド艦隊の4隻の艦船 (いわゆる黒船) が来航する。
蒸気船2隻を含む艦船4隻。当初久里浜沖に来航した。だが、当時久里浜は砂浜があるだけで黒船が接岸できなかったことから、
幕府は数km北の浦賀に誘導した。
・ 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
浦賀沖に投錨した艦隊は、旗艦サスケハナ(蒸気外輪式のフリゲート)、ミシシッピ(左同)、サラトガ(スループ型帆船)、
プリマス(USS Plymouth 左同)の4隻からなっていた。
・ 当時の第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていたため、国の重大事を判断し決定できる状態ではなかった。老中首座の阿部正弘は、
その3日後の7月11日(嘉永6年6月6日)、国書受領ぐらいは致し方なしと結論する。7月14日(嘉永6年6月9日)
にペリー一行の上陸を許し、浦賀奉行がペリーと会見した。
・ ペリーは奉行らに対し開国を求めるフィルモア大統領の親書などを手渡した。
幕府は返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返答をえるため一年後に再来航すると申し入れた。
何らの外交上の交渉はここでは行われなかった。
艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸湾を離れ、琉球に残していた艦隊と合流して当時英国植民地であった香港へ戻った。
・ ペリーの退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)、将軍家慶が死去する。将軍後継者の家定
(嘉永6年11月23日に第13代将軍に就任した)は病弱で国政を担うには困難であった。
開国要求に頭を悩ませていた阿部正弘は、7月1日、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、
外交についての意見を求めた。これは開幕以来初めてのことであった。
・ 1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。約一か月にわたる協議の末、幕府は
米国の開国要求を受け入れる旨の返答をした。
3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や乗組員と共に、武蔵国神奈川近くの横浜村に上陸し、
交渉を開始し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
もって、第3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれるに至った。
・ その後、1854年5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のためペリーらは箱館港に入港する。箱館から戻った後、ペリーらは
伊豆国下田の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。
・ ペリー艦隊同年6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去った。ペリーは、同条約締結のわずか4年後の1858年に64歳で死去した。
その後米国は南北戦争へと突入する。
[2017.6.20 東京都内墨田区/勝海舟生誕之地の碑にて][拡大画像: x27846.jpg]