一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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長崎海軍伝習所と出島 [墨田区 勝海舟生誕之地]

墨田区の「勝海舟生誕之地」碑には「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生 文政6年 (1823年)」 と題する絵巻調パネルが添えられている。そこに「長崎海軍伝習所絵図」(公益財団法人鍋島報効会所蔵)が記されている。 絵図には江戸幕府が1855年に長崎に創建した海軍伝習所、そのそばには出島が描写されている。図絵には次のような説明が 添えられる。

    「幕府海軍の礎となる長崎海軍伝習所 安政2年7月29日 (1855年) 海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立した 教育機関。海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱」(かいぐんでんしゅうじゅうたつとりあつかい)として、伝習所へ派遣された。 この時小十人組となり、ようやく無役の小普請組から脱する。ここで海舟はオランダ語とともに、近代西洋技術、実践的な 操船技術も修得した。」

ウイキペディアを参考に略史を綴る。
・ 出島は、1634年に、江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された扇形をした人工島である。 1636年から1639年までの数年間ポルトガルとの貿易が、そして1641年から1859年までの20年弱にわたり オランダとの貿易が行われた。

・ 幕府は、1638年春に、島原半島と天草諸島のキリシタン百姓が起こした、いわゆる島原の乱を鎮圧した。 以降、幕府はキリシタンの摘発をさらに強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を 断絶しようとした。

・ 1639年、幕府はポルトガル人を出島から退去させる。

・ 1641年、オランダ東インド会社の商館を平戸(ひらど、現在の平戸市)から出島へ移すように幕府から求められた オランダ(商館長カロン)はこれを受け入れる。オランダ東インド会社社員等のオランダ人は、それ以降約200年間にわたり、 武装や宗教活動の規制下、幕府の監視に置かれながら出島に居住した。

・ 1854日の米和親条約締結によって日本は開国する。翌1855年(安政2年)における日蘭和親条約の締結によって、オランダ人の 長崎市街への出入りが許可された。

・ 1856年の出島開放令と共に、出島の日本人役人が廃止される。3年後の1859年に出島にあったオランダ商館も閉鎖される。 これによって事実上「出島」としての機能と存在意義は失われた。

[2017.6.20 東京都墨田区・勝海舟生誕地之碑にて][拡大画像: x27848.jpg][拡大画像: x27847.jpg]


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