東京都墨田区の「勝海舟生誕之地」碑のそばには「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生
文政6年 (1823年)」と題する絵巻調パネルが立てられている。パネルには木村家所蔵で、横浜開港資料館に保管されるこの
咸臨丸難航図(鈴藤勇次郎画)が添えられている。図絵には次のような説明が記される。
万延元年(1860年)、幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団を米国に派遣しました。
海舟は随行艦咸臨丸 (かんりんまる) に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、
同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船としてはじめて
太平洋横断に成功しました。
安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を
出航、安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日で航海したとされています。
海舟は米国の軍事技術のみならず、政治体制や社会構成などについて日本との違いを確認しました。
咸臨丸
幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m、重量380トン、約100馬力の蒸気機関を
搭載した木造、3本マスト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。
安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争にも
参加した。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船となりました。
明治4年(1871年)に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。
[参考]
発注: 1855年(江戸幕府)
起工: 1855年
進水: 1856年
就役: 1857年
退役: 1871年 沈没
排水量: 620 t
全長: 48.8 m
全幅: 8.74 m
機関: 3本マストの帆
100馬力の蒸気機関
燃料: 石炭
最大速: 6 ノット (10 km/h)
兵装: 砲 12門
・ 江戸幕府は安政2年 (1855年) に長崎海軍伝習所を作り、オランダ人教官を招き入れ海員養成に努める。他方、幕府は艦船の
手当てにも努め、オランダにて建造された咸臨丸を1857年(安政4年)3月長崎海軍伝習所の練習艦とした。咸臨丸は
江戸幕府所有の洋式軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であったが、スクリューを装備する船として
は最初の軍艦であった。
・ 安政5 (1858) 年6月19日に品川沖に停泊した米国軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約が調印されたが、
同条約の批准書を交換するため1860年(万延元年)遣米使節団が派遣された。
同団の正使・新見正興一行がポーハタン号にて太平洋を横断する一方、副使一行を乗せる咸臨丸が別に仕立てられ
太平洋を横断した。
・ 咸臨丸は万延元年 (1860年) 1月13日に品川を出航し、安政7 (1860) 年2月26日(西暦3月17日)にサンフランシスコに入港した。
咸臨丸の艦長は海軍伝習所の教監・勝安芳(勝海舟)、木村は咸臨丸の司令官として遣米副使を命じられた
(正確には、勝は当時「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」に任じられていた)。咸臨丸にはジョン万次郎、
福沢諭吉も乗船していた。
その後、木村副使らは、同年3月19日に咸臨丸でサンフランシスコを発ち、ホノルル経由で5月5日に浦賀へ帰還した。
・ 咸臨丸は太平洋上で凄まじい暴風雨に遭遇したが、技術アドバイザーとして乗り込んでいた海軍大尉ジョン・ブルック
を始めとする米国乗員の助力があって横断航海を成功させることができた。
・ 咸臨丸のその後: 1871年(明治4年)9月19日 (旧暦)、旧幕臣400名余を北海道に移住させるために北海道小樽へ向けて
出航したが、途中北海道の木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で沈没した。
[2017.6.20 東京都墨田区の勝海舟生誕之地碑にて]