一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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勝海舟 (肖像写真) とその生誕之地碑


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東京・墨田区の「勝海舟生誕之地碑」のすぐそばには 「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生  文政6年1823年」(画像1に写る碑の背後)と題する絵巻調展示パネルが立てられている。 因みに、当該幕末絵巻パネルに記される海舟生誕略史の書き出しは次のように始まる。
    ・ 勝海舟、通称「麟太郎(りんたろう)」、本名「義邦(よしくに)」のち「安芳(やすよし)」、 文政6年1月30日~明治32年1月19日 (1823年~1899年)。
    ・ 海舟、父の実家である男谷(おたに)家の屋敷 (現在の両国公園) で生まれる。屋敷は本所亀沢町にあった。
    ・ 海舟の曽祖父検校(けんぎょう)は、元々は地方の出で、江戸に出て成功を収め富を得て旗本の男谷家の株を 買い入れた。そして彼は男谷家を自分の息子(海舟の祖父)の平蔵に継がせた。
    ・ 海舟の父惟寅(これとら)は、後継ぎのいない勝家の婿養子になり、勝小吉(こき)と称した。勝家は三河以来の 古参の幕臣であったが、小普請組(こぶしんぐみ)に属する無役で、いわゆる旗本貧乏であった。
    ・ 若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術・蘭学・参禅などの修行に励んだ。
そして、時は変わり、嘉永6年6月3日 (1853年)、ペリー提督が率いる米国海軍東インド艦隊の艦船が浦賀に来航した。 米国の軍事力を前に、対応に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めた。 海舟はこの時幕府へ意見書を提出したが、それは幕府内で注目された。その後、海舟は大阪湾の防備体制を検討するための現地調査団 の一員にも任じられた。

勝海舟幕末絵巻パネルは、この他黒船来航、幕府海軍の礎となる長崎伝習所、勝海舟アメリカへ・咸臨丸の渡航、福沢諭吉、 ジョン万次郎、坂本龍馬との出会い、わずか一年の夢の跡・神戸海軍操練所、戊辰戦争などのサブテーマの下に、史実が記されている。

画像 2: 勝海舟肖像写真/勝康氏所蔵。

    [参考] 江戸時代末期の海防について [参考: 電子版ウイキペディア]
    老中阿部正弘は、アメリカとの武力紛争状態になった場合に備えて、江戸湾の警護を強化するために嘉永6年7月 (和暦) に江川太郎左衛門など に命じて砲撃用台場を造営させた。江川は、富津・観音崎線、本牧・木更津線、および羽田と品川沖での防御ラインを提案していた。 だが、予算・工期の関係から、まずは品川沖に11か所の台場が造営されることになった。 嘉永6年11月には造営途上にあった1~3番台場の守備について、川越藩・会津藩・忍藩が任ぜられた。また、大船建造の禁も解除され、 各藩に軍艦の建造が奨励された。幕府自身も、嘉永6年9月に洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。 オランダへの艦船発注も、ペリー提督が日本から離れてからわずか一週間後の嘉永6年6月に決定された。 嘉永6年11月には、2年前にアメリカから帰国し土佐藩の藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカ事情 などを述べさせもした。
[画像撮影: 2017.06.20 墨田区の勝海舟生誕之地碑にて][拡大画像: x27850.jpg][拡大画像: x27844.jpg][拡大画像: x27845.jpg]


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