一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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ロシア帝国遣日使節(第二次)ニコライ・レザノフの長崎への来航(1804年)

1804年(文化元年)9月、ロシア帝国の遣日使節ニコライ・レザノフ (Russian 2nd delegate Nikolai Rezanov) が、日本に通商を求めて長崎に 来航した。レザノフは、第一次遣日使節 (1792年) のアダム・ラクスマンに付与されていた信牌を携えていた。また、ロシア皇帝アレクサンドル 一世から将軍に宛てた親書を携えていた。因みに、レザノフ一行の来航は、ラクスマンに次ぐロシア帝国第二次遣日使節となったもの。

レザノフ来航に先立つ史実について若干触れて行きたい。
1792年(寛政4年)10月、ロシア帝国遣日使節ラクスマンが、神昌丸の漂流民である大黒屋光太夫、磯吉を連れてエカテリーナ号で根室に来航し 通商を求めた。翌年の1793年(寛政5年)6月ラクスマンらは函館に入港した。その後、ラクスマン一行は函館から陸路でもって松前に到着した。

幕府側は、長崎以外での国書の受け取りを拒否し、日ロ通商問題は長崎でのみ交渉しうるとして、ラクスマンに信牌 (しんぱい) (長崎入港許可証) を与えた後、長崎に回航するよう指示した。他方、大黒屋光太夫と磯吉2名は、松前で引き取られた。 同年の1793年7月、ラクスマン一行は函館を出港したが、長崎には向かわず、オホーツクに帰還した。

画像A(下方)のキャプションには下記のように記される。

    「ニコライ・レザノフの来航
    レザノフは、1804年(文化元年)ロシア皇帝の命を受け、日本に通商を求めるため、ラクスマンがもらった信牌を携えて長崎に来航した。 幕府は、およそ半年あまり長崎沖で待たせたうえ上、通商の申し出は拒否、信牌も取り上げた。失意のまま、レザノフは、長崎をあとにする。」
[画像撮影: 2017.10.13 高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館(淡路島洲本市)にて][拡大画像: x28088.jpg]

A
A. 「レザノフ来航から文化露寇 (ぶんかろこう) まで」 [拡大画像: x28103.jpg]


    ニコライ・レザノフについての若干の系譜
    Nikolai P. Rezanov; 1764-1807年; ロシア帝国の外交官

    ・ N.レザノフは、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンによる帝政ロシア初の世界一周航海(1803年に出航)の後押しを するとともに、自らその遠征艦隊の隊長となり、1804年(文化元年)長崎へ来航した。 1792年におけるアダム・ラクスマンのロシア帝国初の遣日使節に次ぐ第2次遣日使節となった。

    ・ レザノフは、日本人漂流民の津太夫(つだいゆう)(下記参照) 一行を送還するとの名目で、正式な国交樹立のために、 ロシア皇帝アレクサンドル 1 世の親書を携え、正式の遣日使節団を率いて来航したものである。先にラクスマンに付与されていた 信牌(通航許可証)を携えていた。
    クルーゼンシュテルンの世界一周航海の艦隊はペテルブルグから出航し、南米周りで太平洋を航海して、先ずはカムチャツカへ到着した。 クルーゼンシュテルンは艦隊の旗艦である「ナジェージダ号」の艦長を務めた。
    レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の仲間であった善六から日本語を学び辞書を作る。

    ・ 1804年(文化元年)9月、レザノフ一行は長崎の出島に来航する。レザノフらは半年間出島近くに留め置かれる。翌年、長崎奉行所は、 中国・朝鮮・琉球・オランダ (紅毛) 以外の国との通信・通商の関係を保持しないのが国法である、と通告し通商を拒絶した。 1805年4月レザノフは長崎を去り、カムチャツカへ向かった。

    ・ レザノフは、長崎での交渉の経験から、「日本に対しては武力をもって開国させる以外に手段はない」と上奏したが、後にそれを撤回した。 しかし、部下のニコライ・フォヴォストフが単独で、1806年にカラフトの松前藩番所、1807年に択捉港などの各所を襲撃した  (フォヴォストフ事件、文化露寇)。

    ・ レザノフは、カムチャツカからペテルブルグに向けてシベリアを横断中であった1807年にクラスノヤルスクで病死する。 日ロ関係は1806-1807年の「フォヴォストフ事件」により緊張する。そして、1811年にゴローニン事件が発生する。


    1806年(文化3年)9月、ロシアのフヴォストフらがカラフトに来襲する。
    1807年(文化4年)4月、ロシアのフヴォストフらがカラフト・エトロフ島に来襲する。

    電子事典ウイキペディア「ニコライ・レザノフ」から関連事項を拾う。



    江戸時代後期、若宮丸の津太夫らの漂流について

    ・ 1793年(寛政5年)11月、日本人16人が乗り込んだ「若宮丸」が石巻から江戸へ向かう途中暴風に遭い漂流する。 1794年5月アリューシャン列島東部のウナラスカ島に漂着した。

    ・ ロシア人に助けられた後、移動先のイルクーツクにて、1796年12月、大黒屋光太夫らと一緒に漂流した新蔵と出会う。
    その後、津太夫らの若宮丸漂流民14名は、イルクーツクで7年間暮らす。

    ・ 若宮丸漂流民は1803年にイルクーツクを発ち、モスクワを経てペテルブルグにうち10名がたどり着く。 アレクサンドル 1 世皇帝に謁見し、津太夫ら4名が帰国することを許可される。

    ・ 津太夫ら4名は、レザノフ一行と共に、ロシア帝国遣日使節船(世界一周航海船でもある)「ナジェシダ号」(船長: クルゼンシュテルン) にて、クロンシュタット港(本港で新蔵と別れる)からコペンハーゲン、カナリア諸島、ホーン岬、マルケサス諸島、ハワイ諸島を 経て、1804年7月ペテロパウロフスクに到着した。
    その後、同年9月に長崎に来航した。

    ・ 津太夫は漂流して以来12年目にして61歳で世界一周を成し遂げた。

    ・ 1805年(文化2年)3月、正式に身柄が引き渡される。江戸・仙台藩邸で「環海異聞」(かんかいいぶん)編集のために聴取を受けた後、 1806年(文化3年)2月津太夫4名は13年振りに帰郷を果たした。

    電子事典ウイキペディア「津太夫」から関連事項を拾う。



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