一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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「くらわんか舟」(大坂・枚方宿の煮売茶船)
[復元ジオラマ/枚方市立枚方宿鍵屋資料館]


大阪と京都の中ほどにある「枚方市立枚方宿鍵屋資料館(ひらかたしゅく かぎや しりょうかん)」では、枚方宿と鍵屋に関する資料を 中心に展示する。「くらわんか舟」は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で高槻城から兵糧米2万石を運ぶなどの功績により、江戸幕府から 公認された煮売舟 (にうりふね) である。江戸時代、枚方からは、小舟を使って餅、酒、ごんぼ汁などの軽食を、大坂と京都・伏見を往来する 三十石船の船客向けに商いを行なう煮売茶船が出されおり、売り子の威勢のよい売り声から「くらわんか舟」と愛称され、淀川の風物詩として 親しまれた。明治時代には和船に代わって蒸気船が就航したが、明治43年の京阪電車の開通によって、その運輸は次第に水運から鉄道へと 移って行った。

「鍵屋」と題して、鍵屋の敷地内に立てられた、市教育委員会の案内立札によれば、  「鍵屋は、江戸時代には大坂と伏見を結ぶ三十石船(さんじっこくぶね)に乗降する人のための船宿として賑わい、「淀川三十石船唄」に 「鍵屋浦(かぎやうら)には碇が要らぬ三味(しゃみ)や太鼓で船止める」と歌われるほど、淀川筋ではよく知られた名所でした。 大正・昭和期には料亭鍵屋として名を馳せました。主屋 (しゅおく) は、文化8年 (1811) の建築で枚方宿を代表する町屋です。 表玄関は京街道に、裏口は淀川に面しており、船への乗降に最適な構造となっていました」と記される。


江戸時代の「三十石船とくらわんか舟」のやりとりについて
「三十石船」は長さ17m、幅2.5mの旅客専門の乗合船。1日2回、伏見と大坂の間を定期的に上下していた。上りは両岸を利用して 引き綱で引きずり上げるので、下り船の倍の丸一日掛りであった。その旅客に「飯くらわんか、酒くらわんか」などと呼びながら 近づき、酒や餅、魚、果物などを売っていた茶船を「くらわんか船」という。 権力者の武士に対しても強引に売りつける無作法な商法が人気を呼び、淀川の名物とされていた。


時代を豊臣秀吉の天下統治の頃に遡ると、秀吉は文禄年間に諸大名に命じて淀川左岸沿いに「文禄堤」を築造した。 文禄堤は淀川やその水系の氾濫から大阪平野を氾濫から防御する治水のための堤防であるとともに、堤上を人が往来する街道の役割をも 果たした。大坂城と伏見城をつなぐ幹線道路であり、「京街道」の基礎となしたものである。 秀吉はまた淀川舟運の整備にも勢力を注いだ。京都盆地の南域に広がっていた巨大な遊水地の「巨椋池」に注ぎ込んでいた宇治川を 堤防で区切って、淀川に繋ぐとともに、伏見城の堀割に港を築いた。これによって伏見から大阪湾にいたるまでの水の大動脈が開通することになった。

1600年徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し天下覇権をおさめ、1615年の大坂夏の陣において大坂城を掌中におさめ、東海道の整備に乗り出した。 文禄堤をその東海道の延長部に組み入れ、守口、枚方、淀、伏見の4か所を宿場に指定した。枚方宿は江戸・品川から数えて56番目の宿場となった。 通常京都・大阪間は京街道(大坂街道)とも呼ばれた。

江戸時代において、枚方には、浜問屋と過書船・伏見船の船番所が置かれた。そして、大坂と伏見間を往来する三十石船と称される 旅客の乗合船の船着き場も設置された。船の発着駅としての役割を兼ね備えた旅籠は「船宿」といわれるが、天保8年当時伏見と大坂の港には 各25軒もの船宿が営業していたといわれる。現在の「枚方宿鍵屋資料館」の前身である旅籠「鍵屋」は、幕末の頃には、屋敷の裏手に 船着き場が設けられ、三十石船の船待ち宿として繁盛していた。

[撮影年月日:2019.6.17/撮影場所:大阪府枚方市立枚方宿鍵屋資料館にて][拡大画像: x28521.jpg]


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