一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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大阪市港区・天保山台場跡


台場跡案内パネルには、出典として「「大阪実測図」(明治19年)より」と記されている。

現在、大阪市港区の築港・天保山(Chikko Tempozan or Mt. Tempo)への最寄駅は、地下鉄中央線の「大阪港駅」である。 駅からすぐのところに「天保山公園(Tempozan Park)」がある。同公園の片隅に「天保山渡船乗り場」がある。渡し船が定期的に安治川を 渡している。対岸の桜島にはテーマパークの「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」がある。 画像の天保山台場跡の図絵、並びに下記三つの説明書きは、その渡船乗り場の待合室に掲示されているものである。いずれも原文のまま紹介する。


「天保山台場跡(港区築港3丁目)」
    嘉永6(1853)年のペリーの浦賀来航以後、幕府は天保山台場を中心とした大阪湾岸の防備が大坂市中や京都御所 を守衛する上からも重要と考え、安政3(1856)年7月に、この地の砲台建造に着手した。大阪市教育委員会


「天保山台場跡(港区築港3丁目) 大阪市顕彰史跡第215号」
      天保山はその名の通り、天保2(1831)年から始まった安治川河口の浚渫で出た土砂を盛り上げてできた人工の山で、 造山直後から行楽地として賑わっていた。嘉永6(1853)年7月にペリーが浦賀沖に来航するや、同年9月に、幕府は品川沖や 大阪湾などに砲台(台場)を建設する方針を決定した。嘉永7(安政元・1854)年には天保山沖にロシア船ディアナ 号が出現するという事件が起こり、安政3(1856)年7月、幕府は大坂城代・土屋寅直に命じて天保山に台場を築造することになった。 この建設に際しては、品川沖の台場建造の経験をもつ川路聖謨(としあきら)・岩瀬忠震(ただなり)らが参画した。
      台場には大砲が据え付けられ、艦船も配備された。現在、大阪城小天守台にある「お城のドン」と呼ばれる青銅製大砲(大阪市指定 文化財)はこの時のものとされる。
      天保山台場はそれまでの天保山の外形を大きく改変し、いびつな星形の輪郭を呈していたが、現在はその 北東の突出部周辺に痕跡をとどめるのみとなっている。


天保山渡船場(てんぽうざんとせんじょう)
      江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の航行に支障が生じるようになったので、幕府により、天保2年から 2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚(おおすくいおおざらえ)」と 呼ばれる大工事がおこなわれた。   そのときの川底の土砂が積み上げられてできた山を、幕府は「目標山(めじるしやま)」 と命名したが、天保年間にできたことから、人々はやがて「天保山」と呼ぶようになり、現在は標高4.53mの「日本一低い山」として しられています。   その天保山(港区築港3丁目)と此花区桜島3丁目を結ぶ(岸壁間400m)位置に天保山渡船場があります。   明治38年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企画した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和51年までは 市の港湾部が所管していました。   その後の管理は、土木部(現建設局)に移され現在にいたっています。


[撮影年月日:2020.10./撮影場所: 天保山公園片隅の天保山渡船乗り場、大阪市港区・築港・天保山/地下鉄中央線「大阪港駅」 徒歩5分][拡大画像: x28783.jpg][拡大画像: x28784.jpg: 説明書き(天保山台場跡)] [拡大画像: x28795.jpg & x28796.jpg: 説明書き(天保山渡船場)]


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