一枚の特選フォト「海 & 船」
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京都の裕福な商家に生まれた 京都伏見の「三栖(みす)閘門資料館」の「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」と題する展示パネルのうちの 「1. 運河として誕生した高瀬川」 には、概略以下の説明が記されている。
開削工事は1611年(慶長16)から約3年の月日をかけて行われ、 京都二条から伏見港までを結んだ。運河の幅は約8m、全長は11.1kmであった。この運河の完成により、伏見港に集積された物資は 底の平らな十五石積みの高瀬舟が京の町への水上輸送路・手段として活躍した。 高瀬川によって、大坂~伏見~京都が舟運で結ばれ、中継点となった伏見港は、さらに繁栄した。また伏見港は 西国大名が参勤交代する時の滞在地となり、中心である京橋付近には本陣が置かれ、宿場町としても賑わった。 同じく、同展示パネルのうちの 「2.「高瀬舟で運ばれた物資」には以下のように記されている。
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[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 京都伏見の「三栖閘門資料館」にて] 1. 同展示パネル「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」に掲示された角倉了以の像(嵐山大悲千光禅寺所蔵)。 [拡大画像: x28792.jpg] 2. 高瀬川流路図(京都二条~伏見間)。同展示パネルより。高瀬川は途中鴨川を横切り、さらに南流して宇治川へと注ぎ出る。 [拡大画像: x28817.jpg][拡大画像: x28818.jpg][拡大画像: x28819.jpg][拡大画像: x28820.jpg] |
「三栖閘門資料館」の展示パネル 「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」 [拡大画像: x28793.jpg]
「角倉了以翁水利紀功碑」(伏見区三栖半町濠川出合橋付近)/出典:伏見市内観光案内板より |