一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

Back to: Top Page | 特選フォト「海&船」目次 (Ocean and Ship Photos) | ご覧のページ


角倉了以(すみくらりょうい)(肖像画)と高瀬川流路図 (京都二条~伏見間)

1

京都の裕福な商家に生まれた角倉了以(すみくらりょうい)は、朱印状貿易によって さらに莫大な財を築いた。他方で、秀でた土木事業家でもあった。角倉父子は3年の月日をかけて、京都市内と伏見港を結ぶ水上輸送路の高瀬川 を開削し完成させた。因みに、高瀬川の開削土木事業だけでなく、保津川(ほづがわ)下流の大堰川(おおいがわ)の他、富士川、 天竜川などの河川工事をも手掛けた。


京都伏見の「三栖(みす)閘門資料館」の「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」と題する展示パネルのうちの 「1. 運河として誕生した高瀬川」 には、概略以下の説明が記されている。

    淀川下流の大坂から船によって運ばれて来た物資は、伏見港で荷揚げされた後、陸路を利用して京都へ送り届けられていた。これを一変させたのが、 角倉と息子の素庵によって、1614年(慶長19)に開設された運河としての高瀬川であった。

    開削工事は1611年(慶長16)から約3年の月日をかけて行われ、 京都二条から伏見港までを結んだ。運河の幅は約8m、全長は11.1kmであった。この運河の完成により、伏見港に集積された物資は 底の平らな十五石積みの高瀬舟が京の町への水上輸送路・手段として活躍した。

    高瀬川によって、大坂~伏見~京都が舟運で結ばれ、中継点となった伏見港は、さらに繁栄した。また伏見港は 西国大名が参勤交代する時の滞在地となり、中心である京橋付近には本陣が置かれ、宿場町としても賑わった。

同じく、同展示パネルのうちの 「2.「高瀬舟で運ばれた物資」には以下のように記されている。

    「淀川舟運で大坂から運ばれてきた物資は、伏見港でいったん降ろされ、10数隻の高瀬舟に積み替えられて夜明けとともに共綱(ともづな)に つながれて高瀬川を上っていきました。(… 中略 …) 高瀬舟の荷物を積み降ろししたりするために設けられたのが「舟入り」(ふないり)で、 二条~五条間には9ヵ所あったといわれています。」(原文のまま)
2







[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 京都伏見の「三栖閘門資料館」にて]
1. 同展示パネル「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」に掲示された角倉了以の像(嵐山大悲千光禅寺所蔵)。  [拡大画像: x28792.jpg]
2. 高瀬川流路図(京都二条~伏見間)。同展示パネルより。高瀬川は途中鴨川を横切り、さらに南流して宇治川へと注ぎ出る。  [拡大画像: x28817.jpg][拡大画像: x28818.jpg][拡大画像: x28819.jpg][拡大画像: x28820.jpg]

 「三栖閘門資料館」の展示パネル
 「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」
 [拡大画像: x28793.jpg]

 「角倉了以翁水利紀功碑」(伏見区三栖半町濠川出合橋付近)/出典:伏見市内観光案内板より
伏見は大阪、京都、奈良を結ぶ内陸河川港湾の町として賑わったが、角倉了以が高瀬川の開削を行ない3都市が舟運で結ばれると港町や 交易中継点としてさらに発展した。


Back to: Top Page | 特選フォト「海&船」目次 (Ocean and Ship Photos) | ご覧のページ