一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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新河岸川(しんがしがわ)舟運の福岡河岸」
(新河岸川・荒川の河岸場(かしば)の概略地図含む)

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新河岸川(しんがしがわ)は、その上流域では荒川とほぼ並流し、中流域では荒川に 合流した。そして、新河岸川最上流部に舟運によってかつて栄えた福岡河岸があった。明治時代中頃の回漕問屋(船問屋)の一つであった 「福田屋」はその河岸にあって、10数棟の建物が築かれていた。

福田屋には往時の様子を伝える主屋(帳場が置かれた)と台所棟(明治初期の建築)、文庫蔵(明治30年代の建築)、三階建ての離れ(明治33年頃の建物) が残されていた。これらの建物は、昭和62年(1987年)に所有者から上福岡市(現・ふじみ野市)に寄贈された。そして、市は、明治期の船問屋の様子を伝える貴重な文化遺産 として、平成元年(1989年)に市指定文化財に指定し、平成8年(1996年)「上福岡(現・ふじみ野)市立福岡河岸記念館」として公開し、 現在にいたっている。


同記念館の「新河岸川舟運の福岡河岸」と題する案内パネルには、新河岸川舟運と福岡河岸の系譜について次のように触れられている。

    ・ 新河岸川舟運の始まりは、1638年(寛永15)に川越の大火で焼失した仙波(せんば)東照宮の再建資材を同川を利用して運んだこと からであるとされる。本格的な舟運が行われるのは川越藩主松平信綱の時代の1647年(正保4)頃と言われている。
    ・ 新河岸川沿いには地の利を得た河岸が開かれた。因みに、川越藩の御用荷物を中心に取り扱う川越五河岸や古市場(ふるいちば)河岸(川越市)、 引又(ひきまた)河岸(志木市)である。その後、武蔵野開発、1694年(元禄7)の三富(さんとめ)開拓による近隣農村の農業生産の発展に伴い、 多くの河岸場が設けられ、それらの近隣農村と江戸を結ぶ経済流通の中継地となって行った。
    ・ 福岡河岸の始まりは、対岸の古市場河岸の繁栄を背景に、1733年(享保18)頃から、福岡村の人々が農業の傍ら回漕業を営んだことからと される。それ以降、福岡河岸は明治時代中頃まで舟運によって繁栄して行った。

同パネルのなかの「新河岸川の荷船」と題する説明書きによれば、概略次のように記される。また江戸・東京と行き来した船便について下記のように 記される。

    「九十九(くじゅうく)曲がりゃ あだでは越せぬ 通い船路の 三十里 … 」と船頭がくちずさむ船唄にあるように、曲がりの多かった新河岸川は、 豊富な水量を保ち、舟運に適していた。新河岸川を航行した船は、全長15m前後、米にして250~300俵も積める大きさであった。 また水深の浅い新河岸川に合わせ、船底を平らにしてあるのが大きな特徴の一つに数えられる。

船便の種類

    ・ 並船(なみふね): 荷物だけを運ぶ不定期便。終着地・浅草花川戸(はなかわど)との間を往復するのに7~10日ほどかかった。
    ・ 早船(はやふね): 主として乗客を運ぶ屋形船の定期便。急を要する軽い荷物も扱われた。4~5日で一往復した。
    ・ 急船(きゅうぶね): 急ぎの荷物を運ぶ不定期便。往復3~4日かかった。
    ・ 飛切(とびきり)船: 今日下って明日上るという特急便。主として鮮魚・茶などの荷物を東京から運んでいた。
    ・ 雁(かり)船: 薩摩芋・野菜などの農作物を運ぶ船。雁が渡る秋から冬にかけて運航されることから名付けられた。

なお、画像1は「早船運賃広告」、画像2は「大正10年頃 養老橋と福岡河岸の荷船」と題されて、同案内パネル(画像3)に貼付される写真である。

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[撮影年月日:2020.8.9/撮影場所: ふじみ野(旧・上福岡)市立福岡河岸記念館(回漕問屋・旧福田屋)]
1. [拡大画像: x28896.jpg]
2. [拡大画像: x28897.jpg]
3. [拡大画像: x28895.jpg: 説明書き「新河岸川舟運の福岡河岸」]

略図 「新河岸川・荒川の河岸場」/福岡河岸の位置
(左図)拡大地図(z23841.jpg)
(下図)拡大地図(z23843.jpg)
拡大してご覧ください。

(左図) [拡大画像: z23845.jpg]
(下図) [拡大画像: z23847.jpg]
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4葉の地図の出典: ふじみ野市立福岡河岸記念館。


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