一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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江戸川の「関宿棒出し」

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1. 「近世の関宿棒出し模型」。左岸棒出し部にある白壁の大きな建物が関宿関所である。[拡大画像: x28992.jpg]

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2. 同上。 [拡大画像: x28674.jpg]

画像1・2は、千葉県立関宿城博物館に展示される、江戸川の「関宿棒出し(せきやどぼうだし)/Flood Control Embankment」の模型(縮尺1/200)である。 説明書きによれば、文政年間(1818年~1830年)に、江戸川の流頭部(利根川から江戸川への入り口付近)に、「棒出し」 と呼ばれる、両岸から突き出した一対の土の堤が造営され、1929年(昭和4年)まで使用された。棒出しの機能は、江戸川へ流れ込む 水量を抑制するもので、江戸川下流域の洪水を防ぐことなどが主要な目的であった(棒出しとは、要するに、江戸川の入り口付近の川幅を狭くする ことで大量の水が江戸川に流れ込まないようにするため、両岸から川の中央へ向けて突き出した土手のことである)。 江戸時代に造成されたこの棒出しは、下流域にあった江戸(現・東京)の町を洪水から防御していた。(下図参照)

因みに、画像1では、江戸川が右上端から下方へ流れ、棒出し(両岸が突き出したところ)を通って下辺方向へ流れる。 左上端からは、権現堂川(ごんげんどうがわ)が江戸川に合流している。画像右上端を上方(北方)へ辿ると、江戸川の流頭部 となり、利根川に合流する。

画像1・2の棒出しの左岸に建つお堂のような大きな建物が「関宿関所」である。関所(水番所)は関宿の向河岸(むこうがし)にあった。関所では役人が 通行する船の荷物や人を検査した。通行できる時間が指定され、午前6時から午後6時までであった。それ以外の時間に通行すれば関所破り として厳罰に処せられた。また、「入り鉄砲出女(いりでっぽうでおんな)」を厳しく取り締まった。 関宿城は、江戸時代に、右岸の棒出しと利根川・江戸川合流点との中ほどに建てられた。また、利根川の対岸には境河岸(さかいがし)があった。 境河岸や関宿向河岸も関宿藩領であった。二つの河岸は船問屋、倉庫蔵などが立ち並び大いに賑わっていた。

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図左下に権現堂川、関宿関所、関宿棒出し、向河岸・内河岸、江戸川の文字が見える。この図では、権現堂川、逆川、江戸川、利根川の4河川が 描かれる。関宿城は逆川(さかさがわ)の東岸に建つ。 [拡大画像: x29031.jpg]

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この図では、かつての利根川、逆川・江戸川、権現堂川が白線で記される。左上部に関宿水閘門、中央部に 関宿城跡、左下隅に関宿棒出しが記される。

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棒出し設置以前と以後での河川の流れの変化を示す。川の流れの変化から棒出しの機能を知ることができる。 棒出しの設置により権現堂川から江戸川に流入する水量は減少し、その分、逆川へ流入する水量が増加し、利根川へと転流 した。これによって、江戸川の中・下流域へ流れていく水量は多少緩和された。

[撮影年月日:2020.7.10/撮影場所: 千葉県立関宿城博物館]

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中央の大川が利根川、下辺の集落が関宿河岸、上方の集落が境河岸である。 図絵には「境河岸の賑わい 
大師典八十八箇所寺郷路 方角大穀図(部分)野田市 昌福寺蔵」と記される。 [拡大画像: x29032.jpg]

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江戸湾から北関東圏を鳥瞰する。図絵にはかなりの歪があるが、利根川と江戸川
の流路がよく分かる。関宿や関宿関所(中央付近) を見て取れる。 [拡大画像: x29033.jpg]


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