一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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カラフト探検で間宮海峡を実地視認した間宮林蔵の立像 [間宮林蔵記念館]

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画像1、カラフトの秘境を探検する間宮林蔵の雄姿を捉えた立像(間宮林蔵記念館敷地内)。
画像2、1809年(文化6年)に間宮海峡の発見を成し遂げた江戸時代の探検家・地理学者の間宮林蔵の生家(同記念館敷地内)。
画像3、「間宮林蔵の肖像」(同記念館入り口)カラフトを探検した30歳頃の雄姿を再現したもの。肖像画は松岡映丘によって描かれたもの。実物は1945年の東京空襲で焼失した、幸いにも 肖像写真の乾板が残されていた。
画像4、間宮林蔵の探検経路図(赤印:第一回探検調査時、青色:第二回探検調査時)(同記念館入り口に掲示された間宮探検案内のチラシ)。


間宮林蔵は、1780年(安永9年)に、記念館に併設されるこの和式古民家で生まれ、15~6歳頃までここで暮らしたといわれる。利根川支流の小貝川の 堰き止め工事の幕吏に認められ出仕し、江戸勤務になった後、蝦夷地の開発に従事することになった。その後、 時あたかも四海の風雲急を告げ、天下の耳目が北方辺境の地に集まっていた頃、林蔵は幕府の命を受け、国境の果て北蝦夷を探ることになり、 極寒に身を投げ入れた。カラフト探検の2年目にして、遂に間宮海峡を究め、シーボルトをしてその名を世界に轟かせることになった。 時に林蔵、齢30であった。かくして、彼の偉功を後世に伝えるために林蔵の銅像が建立されたと台座に刻まれている。




さて、記念館の案内パンフレット記載の「略年表」(つくばみらい市教育委員会)などから主要出来事を抜粋した。

・ 1780年、常陸国筑波郡上平柳村(伊奈町)に生まれる。
・ 1799年(寛政11年)、村上島之允の従者として初めて蝦夷地へ渡る。
翌年1800年(寛政12年)、函館で伊能忠敬と師弟の約を結ぶ。
・ 1803年(享和3年)、24歳。以降、東蝦夷地、南千島の測量に従事する。
・ 1805年(文化2年)、蝦夷地シツナイに勤務、1806年(文化3年)エトロフ島に渡り、沿岸実測、新道開発にあたる。ロシア軍艦がエトロフ島 シャナの会所を襲い(シャナ事件)、そこに居合わせた。会所を退去し、江戸に召喚される。
・ 1808(文化5年)、第一回カラフト探査を命じられ、松田伝十郎と共にラッカ岬まで行き、閏6月宗谷に帰る。
・ 再度の調査を願い出て、1808年7月に2回目の探査に出発する。
・ 1809年(文化6年)、30歳。海峡地帯を突破し、ナニヲーに至る。間宮海峡を発見する。土地の首長と共に大陸に渡り、満州仮府デレンで清国 役人と会見する。同年9月に宗谷に帰着する。
・ 1810年(文化7年)、「東韃地方紀行」「北夷分界餘話」を著わし、「北蝦夷島地図」を作成する。
・ 1811年(文化8年)、32歳にして、江戸に帰る。12月江戸を発ち蝦夷地に向かう。
・ 1822年(文政5年)、43歳にして、蝦夷地の測量を終え江戸に帰る。
・ 1828年(文政11年)、シーボルト事件が起こる。
・ 1832年(天保3年)、シーボルト著「日本」の第一回配本の中に「日本辺界略図」の翻訳図が収められ、間宮海峡(まみやのせと)の名が 初めて世界に紹介された。
・ 1844年(天保15年)、65歳にして、江戸の自宅で病死する。


[撮影年月日:2021.07.16/場所: 間宮林蔵記念館(Mamiya Rinzo Memorial Museum)・間宮林蔵生家/茨城県つくばみらい市上平柳64 /電話:0297-58-7701]
1. 林蔵立像。 [拡大画像: x29041.jpg]
3. 「林蔵の肖像」。 [拡大画像: x29042.jpg]
4. 探検ルート概図。 [拡大画像: x29043.jpg]

 記念館入場券


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