* 萬次郎 (ここでは「万次郎」とする) は、文政10年(1827年)、あるいは文政11年に、四国は土佐国の中浜村 (現在の高知県
土佐清水市に属する漁村・中浜) の貧しい漁師の家に生まれた。生年月日がはっきりとしない。5人の兄弟姉妹で、家はもともと貧し
かった上に、8歳の時に父親が他界したこともあり、9歳の頃から奉公に出た。
* 天保12年(1841年)1月3日、14歳の万次郎は、漁撈仲間とともに5人で小さなカツオ舟に乗って土佐の宇佐浦から漁に出た。1月7日に
足摺岬沖60kmほどの漁場で急に雲行きが怪しくなり、時化に巻き込まれそのまま漂流した。1月14日に、かろうじて無人島の鳥島に漂着した。
[注] 鳥島は、東京から南方へ580km、伊豆諸島八丈島と小笠原諸島父島との中ほどに位置する、直径2km、周囲7㎞ほどの島である。
* 島では、アホウドリやその卵、鳥が運んで来る魚介などで食いつなぎながらかろうじて生き延びた。漂着から約半年後、
1841年6月27日偶然近くを通りかかった米国捕鯨船「ジョン・ハウランド号」のホイットフィールド船長に発見・救出された。
捕鯨船は、島を通りかかった時に、ボートを降ろしウミガメ探しのために上陸し、そこで漂流者を発見したものであった。
* ハウランド号は、救助後5か月間ほどそのまま捕鯨を続け、同年11月20日ハワイ・ホノルルに入港した。2週間後、
5人のうち万次郎一人だけ再びハウランド号に乗船し、1年半近く南太平洋で捕鯨に従事した。万次郎は、船長にすこぶる気に入られ、
ジョンと名付けられ、やがて米国本土に連れて行かれた。
ハウランド号の母港マサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード(New Bedford)港に帰港したのは、1843年5月のことであった。
* 船長ホイットフィールドの故郷は、ニュー・ベッドフォードの対岸にあるアクシュネット川河口のフェアヘブンにあった。
そこで約3年間過ごし、「文明教育」を受けることになる。地元のオックスフォード小学校で、英語の読み書き、算数などを学ぶ。
覚えの良かった万次郎は、10か月後には、専門学校のバートレット・アカデミーに入学を許され、数学、航海学、測量学などを学んだ。
* その後、1846年5月、ニューベッドフォードを船籍港にする273トンの捕鯨船「フランクリン号」に乗り込み、再び航海に出た。
大西洋を横切りアフリカ西岸を南下し、喜望峰を回航した後さらにインド洋を抜け、太平洋へと出た。万次郎は、船が琉球の
海岸近くで投錨した折、上陸を強行したが、島役人に追い返された(琉球から九州・薩摩へと渡り、帰郷できる可能性があること
を学んだようだ)。
* フランクリン号は、翌年(1847年)5~9月頃まで日本近海で鯨を追いかけた。他方、同号の船長は病気で気がふれ危険な行動
をするため、マニラで下船させられた。万次郎はまだ22歳であったが、航海・捕鯨技術があり信頼もされたので、
皆から一等航海士兼副船長に抜擢された。
1849年9月、3年4か月ぶりに母港ニュー・ベッドフォードに帰港した。このように、万次郎は航海・捕鯨ともに経験を積み、
知と技に磨きをかけた。
* 万次郎は、その2か月後には単身船に乗り込み、カリフォルニアへと向かった。カリフォルニアはゴールドラッシュで沸き返っていた。
帰国の思い断ちがたく、帰国のための旅費を稼ぐためであった。3か月金鉱で働いた後、ハワイに渡航し、漂流仲間らと再会を果たした。
* 1850年12月17日、「サラボイド号」(342トン)に、捕鯨ボート1隻を積載してもらって漂流仲間3人でハワイを出港した。
同号はいろいろ経由した後、琉球に接近し、万次郎はその捕鯨ボートで現在の沖縄県糸満市の大渡浜に上陸を果たしたとされる。
上陸できたものの、島役人に見つかりすべて没収され、その後は、鹿児島、長崎、土佐にて、計1年半におよぶ取り調べを受ける
ことになった。
* 先ず、琉球にて、薩摩藩の琉球使者、在琉球の幕府奉行の詮議を受ける。
上陸から7か月後の嘉永4年(1851年)8月には、鹿児島に送還され、薩摩藩の取り調べを受けた。さらに長崎に送られ、長崎奉行にて
10か月間におよぶ取り調べを受けた。
土佐に送還されたのは嘉永5年(1952年)8月で、土佐藩の取り調べを受けた。その後中浜に帰郷し、母親と対面できたのは10月であった。
故郷を離れてからはや11年、万次郎25歳であった。ペリー提督が艦隊4隻にて浦賀に来航する1年前のことである。
* 万次郎は、その後英語やアメリカ事情についての知識が買われて、土佐藩に召し抱えられ、藩校で英語、航海術などの教育に携わる。
土佐藩に次いで幕府に、さらには明治政府において、数々の要職に任じられた。例えば、1853年にペリー提督が率いる米国艦隊
4隻が浦賀沖に来航した時に幕府から勘定奉行吟味役に任命された江川坦庵(たんあん)が、万次郎を幕府の役人として彼の配下においた。
万次郎は彼の下で米国側の英文書簡翻訳などに取り組んだ。
* 1854年ペリー提督は再度来航した。江川坦庵は、万次郎を「日米和親条約」の締結交渉時の通訳とすることを、
老中阿部正弘に提言したものの実現はしなかった。だが、坦庵の下で裏方として英語文書の翻訳に大いに働いたという。
* 1860年1月、「日米通商条約」批准書交換のための幕府使節の通訳官として、木村摂津守が乗り込む随行船「咸臨丸」にて、福沢諭吉、
勝海舟らとともに太平洋を渡る。万次郎34歳、諭吉27歳であった。
* 1870年、普仏戦争視察団の一員として渡欧するが、道中体調を崩して帰国する。1898年、万次郎享年72歳にしてこの世を去る。
[注] 1937年に井伏鱒二が「ジョン万次郎漂流記」を著したが、その彼が生れた年が1898年(明治31年)である。万次郎はその年にこの
世を去っている。