少しばかり時間を遡る。夏学期に入って暫く経った頃である。海洋プログラムの学業修了後の身の振り方が気になり出して
いた。選択肢としては、もちろん国連への応募であったが、履歴のうちの最終学歴欄を空にしたままアプリケーションフォームを
提出すれば、全く相手にもしてもらえないことであろう。誰の目にも留まらずインパクトのない履歴書になってしまう。
修士号学位のLL.M.取得の見込みはまだまだ立たない状況であった。そもそも、その取得の証しである学位証を受領しない
段階で、フォームの教育歴欄にその学位を記入し応募するわけには当然できない。さらに、学業修了後に間髪入れずにすんなりと
国連に奉職できるとは、到底見込むことはできないことであった。それ故に、国連に奉職できるまでの間どこで職を得るのか、
そして生活の糧を確保しながら「待機」するのか、それが悩みの種となっていた。米国で何らかの職に就きながら、国連の面接試験など
を待ち続けるのか、それとも日本に帰国してそうするかであった。
海洋法担当法務官の空席やその他の公募関連情報がいつどのようにアナウンスされるか。ファックスもインターネットもない、いわば
アナログで紙媒体しかない時代であった。渡米後丸1年を迎えるまで、国連での空席情報などを収集するための具体的アクションを
起こさずに日々を送ってきた。思えば、積極性に欠けていたと気付き自省した。反省は簡単だが、肝心の精度の高い生情報を得て
こなかったので、先のことを見通すことができなかった。昨年10月に学期が始まって以来、学業に精一杯で、情報集めの余裕など
ほとんどなかった。そう言えば聞こえも良く、それまでのことである。何故それほどまでに積極的でなかったのか。実は、もう一つ大きな
事情があった。
国連主催の第三次海洋法会議が毎年1、2回の会期をもって開催され続けており、1974~5年当時まさに佳境にあった。
そして、日本人の林司宣氏が、海洋法担当法務官のポスト
にあり、同会議で活躍されていた。会議に出席したワシントン大学海洋研究所(IMS)の博士課程に在籍する知り合いの先輩からも、
そのことを聞き及んでいた。後で知ることになったが、同氏は早稲田大学大学院にて法学修士号を得た後、米国の大学のロースクール
法科大学院法学修士号取得などを経て国連に奉職されていた。教育履歴面からすれば、私と似通った教育歴をおもちの先輩と言えた。
いずれにせよ、海洋法会議で条約案が採択され、会議がその使命を終えて閉会されるまでは、その法務官ポストが空席となることは
ほとんど期待できないものと、頭から思い込んでいたところがある。
かくして、海洋プログラムを修了後、先ずはどこでどういう職に有りつき、生活の糧を確保しながら、しかも同時並行的に
キャリアをアップさせられるか、ということであった。米国でその職を得るか、帰国して職をえて国連奉職のチャンスを待つか、
その岐路に立たされようとしていた。米国での就活であれば、シアトルには多くの日本法人の出先機関もあった。
日本水産などの水産大手、商船三井や日本郵船などの海運大手の支店などが考えられた。その他、アメリカ船級協会もあった。
だが、行動を起こしてその可能性を探るということはなかった。
日本に帰国した場合には、海事関連民間会社は圧倒的に数多くあるし、その他日本船級協会や大日本水産会のような海洋関連の
公益団体なども多数あり、選択に迷うほどであった。だが、25歳にもなった院卒を果たして新卒と見なしてくれるのか、院卒の
受験枠があるのか、いろいろ気になった。学卒となってから既に5年も経ち、しかもこの歳になって初めて職探しの舞台に身を置くと
考えると、帰国時に備えて事前に情報を得ながら、具体的な業種や法人名をそれなりに描いておく必要があった。
だがしかし、弱気な心情に阻まれ二の足を踏むばかりで、何の結論も出せないまま時間だけが過ぎ去っていた。
最も理想的な「待機」場所は、国際海洋法や海洋政策について教鞭をとる大学であった。東京水産大学や東海大学などでの
海洋法・海洋政策講座を受け持つ講師への道も頭をよぎっていた。むしろ、それがベストの道と思われた。
米国のみならず日本の国際法学会に所属し、それなりの数の先生方らと面識はあったが、教鞭をとれる大学先を斡旋して頂けるような教授は
ほとんど見当たらなかった。過去のわずかな面識を改めて深く掘り起こしたり、あるいは相当厚い面識を再び呼び起こし、迷惑を全く
顧みず、帰国後における大学の就職先の斡旋を願い出るような厚顔さも、強引さも持ち合わせていなかった。
自己視するとすれば、いろいろ悩む割りには、生きる知恵が不足しているというか、生活力や生命力に欠けるということであった。
情けなく思うことは多々あった。
いずれにしても、国連への応募後その奉職が決まるまでの間の居場所として、キャリア・アップにつなげられないような仕事に就いて
「待機」することだけは避けたかった。大学講師はその点では魅力的であったが、タイミングよく募集に有りつけるのか全く未知数であった
し、コネがわずかでも、またたとえどんなに太くても厚顔無恥にはなれなかった。留学の志願時に推薦状などでご無理をお願いした
先生方に、国連への奉職を標榜していた私にとっては、帰国後大学講師への就職につき再び頼って願い出ることは、さすが厚顔無恥
のように思われて、随分と気が引けるところがあった。プライドが許さないところも多少はあった。
かくして、最後の夏学期の間中、明るい見通しもないまま、何かと弱気な心情の下で、学業後の身の振り方を悩み続けていた。
無職のままで「待機」すること、いわば就職浪人になることは論外であったが、就職の有り様によっては、国連への応募上も、また
待機上も、キャリアアップにほとんど繋がらず、むしろマイナスになることは避けたいと願っていた。
夏学期が始まり、研究テーマにする予定のマンガン団塊関連資料を集めるためにキャンパス内の総合図書館に何度か足を運んでいた。
三度目かに足を運んだ時のこと、世界中の主要な日刊新聞を閲覧できる東洋資料室に立ち寄った。そして、気休めにと、最近の邦字
新聞でも読むことにした。邦字紙専用のラックから、バインダーに綴じられた最近の朝日新聞の束を、斜路の付いた広い木机の上に
広げ拾い読みをした。
その時「論壇」と題するコラム記事のページで、めくりる手を止めた。「海洋」という二文字が目に飛び込んできたからである。
執筆者が自ら投稿したものか、朝日新聞が執筆を依頼したものか分からないが、海洋関連の記事であった。通読してみると、国連海洋法会議や
200海里EEZの法制などに触れながら、同会議での動向・論争点や日本の立場や課題、EEZ法制の審議の行方などについて、
自論が展開されていた。執筆者は「海洋環境コンサルタント」という肩書であり、そこには麓多麓氏の署名があった。
そこで初めて、個人事務所を主宰しながら、海洋法制や政策に関する調査研究を生業にする方が日本にもおられることを知ることになった。
そして、それを自らの生業にすることに、一条の光というか、何がしか希望のようなものを感じた。
個人経営の麓氏での事務所では、どのような事業を経営の柱にされているのか想像することもできなかった。しかし、
海洋環境コンサルタントという職業の存在と、また海洋法制や政策の調査研究に携わる事務所の存在に心を動かされた。研究室に
戻った後、興味の熱が冷めやらないうちにと早速に、朝日新聞社にレターをしたため本人に転送してもらえるよう書き送った。
先ず、自己紹介とロースクールでの学業状況を綴った。他方、麓氏の事務所の事業内容や経営事情などを教示していただくよう
お願いし、最後に事務所で働かせてもらえるかどうかを打診するものであった。
2カ月ほど返事がなく、すっかり忘れていた8月頃に、麓氏から突然連絡を受けた。東海岸のアナポリスにある海軍士官学校で所用を
済ませたので、日本への帰途にシアトルに立ち寄り面談したいとの内容であった。その後暫くして、ロースクールでお会いする
ことになった。これが麓氏との最初の出会いであり、その顛末である。
麓氏主宰の海洋環境コンサルタント事務所における調査研究の具体的内容や現況、経営事情などについて詳しく突っ込んで
話しすることは余りできなかったと記憶する。翻って、いろいろ意見交換する中で、海洋法制はもちろんのこと、海洋資源開発や管理
の動向や政策などについて幅広く調査研究できるものと、自分なりの理解をするに至った。
ただ、経営基盤の内情、事務所の将来展望や、その中において自身がどのような貢献をすることができるのかについて、ほとんど
認識できないままに終わってしまった。だが、帰国後事務所で就業することについて暗黙の了解が、阿吽の呼吸をもって得られたものと
理解し、東京での再会を約束して別れた。
欧米では、個人がもつ自身の専門的ノウハウや人脈を生かしながら、個人事務所を主宰し経営するコンサルタントは多い。
もちろん、その道の専門領域でそれなりの実力や人脈などがあればの話である。特に米国では、政権交代のために、前政権の中枢にいて
専門領域の政策を知り尽くし幅広い人脈を持つ政府高官が下野した後、個人事務所を主宰することも多い。また、
民間の独立系シンクタンクや調査研究機関で働くことは別に珍しくなく、よくある事業形態である。だから、麓氏の事務所も、その
規模は小さくてもそれに類するものと考えていた。そして、自立・独立型の個人コンサルタント事務所で働くのは、自分の性に
合うようで決して悪くはないと、軽い気持ちで自己納得していた。
事業や事務所の規模は第二次的なもので、最も重要視したのは、海洋法制や海洋政策にまつわる調査研究に携わることができるか
否かであった。海洋法制・政策関連の調査研究に従事する事務所で働くことは、国連海洋法法務官として奉職できるまで「待機」する
との観点からしても、決してマイナスではないと捉えていた。事務所が小規模であろうとも、そのような調査研究は、キャリア
アップにプラスになっても、マイナスにはならないと半ば独善的に思い込み、麓氏の事務所でお世話になることを決断した。
国連への応募時の職歴欄には、「1975年10月から現在まで、民間の調査研究事務所にて、
海洋法制、海洋政策、海洋開発の動向などを調査研究し、その成果を報告書などに取りまとめ公表したり、クライアントに調査研究の
成果を提供してきた」こと記載できることを期待した。
キャリアアップにつながらない「勤務先」や「職歴」では意味がなかった。麓氏の個人事務所は、その規模は極めて小さいが、
自身がこの数年向かい合ってきた海洋法制や政策にまつわる調査研究をそのまま引き続き実践することができそうであった。
22歳の大学新卒者と同じように会社を駆け回り、入社試験に臨めるならばまだしも、就活に半年や一年奔走しても、どんな結果に
転ぶか分からない。そんな就活になるのは気が進むはずもなかった。それよりは、個人主宰の極小さな事務所であっても、
海洋法制や海洋政策の調査研究を主体にする麓所長に願い出て、入所の承諾を得て、そこへ転がり込むことができるのであれば、
それが自身の選ぶ人生の「正解」と自己納得した。
ところで、学位取得のことについてすっかり忘れていた。最後にバーク教授に帰国の挨拶をした時、教授曰く、「LL.M.の学位授与には
平均スコアが少し不足している。学位審査委員会が近いうちに開催され、そこで諮られる。その結果次第で、学位証書が郵送される
ことになる」、とのことを教えられた。それは何を意味するのか。平均「B」以下、平均80点以下の状況にあることを、そこで初めて
教えられた。最早、自分ではどうすることもできず、学位授受は委員会でのバーク教授の骨折りが唯一の頼りであった。
バーク教授からすれば、私のような出来の悪い日本人留学生に失望したのではないかと慮った。バーク教授や曽野先生
らに申し訳ない気持であった。いずれにせよ、教授の言葉を信じて待つ他なかった。学業からのドロップアウトの危機もあったが、
振り返れば、留学には付き物の当然の試練であったであろう。総じて見れば、誠に有意義な留学体験となった。学位を携えて
シアトルを後にできないのは残念至極であるが、今は事を全て終え帰国できることが嬉しかった。
シアトルは第二の故郷になったと思えた。全てに感謝してシアトルを後にする。
最後にもう一つの感謝。円ドルの為替については、当時には、固定相場制が戦後以来敷かれていて、レートは1ドル360円の水準で
固定されていていた。また、1973年になってようやく完全変動制へ移行したが、1974年当時、日本出国時にあってはドル現金を帯同できた
限度額は数千ドル程度であったと記憶する。渡米後の生活費や授業料などは、家族に順次定期的に銀行送金してもらう必要があった。
銀行窓口での送金手続きにもいろいろ添付書類が多く、家族には多々面倒を掛けた。送金手続きもさることながら、
授業料と生活費の仕送りこそが最も重い経済負担であった。ロー・スクール入学後に奨学金をいただいたが、その額は言うのも
恥ずかしいほどのスズメの涙であった。しかし、大事に書籍などに使わせてもらった。青少年期の頃の父親の他界、急遽やむなく
現役復帰した祖父母と農業を殆ど未経験の母親の必死の働きなど、留学中もいつも脳裏に焼きついていた。当時兄はすでに公務員
として働き給与を得ていたが、私は、祖父母や母親、義姉らの資金のやりくりでの大変な苦労を思い、出来る限り浪費しないよう
ずっと心掛けていた。留学中での家族の苦労は、自身が社会人となって30年以上働き、その後定年退職した後の今でも、
忘れないよう肝に命じている。
さて、諸々の後片付けを行ない、荷造りして日本の船会社に引き取ってもらい、その数週間後にはシアトル・タコマ空港から
日本へと飛び立った。シアトルに降り立ってから1年4か月の短い留学であったが、この経験は何にも換え難かった。
留学中に得た人生の一つの貴重な財産は「海の世界への回帰」を果たせたことである。海を再び捨てて、海と無関係の自分に戻る
ことは、いわば自己否定そのものであると、それ以来ずっと心のどこかで思い続けてきた。
かくして、ようやく回帰した「海の世界」に踏み留まり続け、海洋法制・政策などの
何がしかの調査研究を行なえるものと、大きな希望を胸に意気揚々と、1975年10月暫くぶりに日本の土を踏んだ。
そして、帰国後すぐに大阪の実家の家族に帰国報告をした後、暫くして上京し、虎ノ門にある麓氏の事務所を訪れた。
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