第三学期(1975年4-6月)を迎える頃には正気が戻り生き帰ったようであった。雲一つない晴天を仰ぎ見るような明るい気分で
あった。第一学期末時点では、学業成績が芳しくなく悲壮感が漂っていた。だが、第二学期末にはそれもすっかり払拭された。
二学期に履修したバーク教授の「国際海洋法」(パートII)のタームペーパーについて、めでたくスコア「A」をマークし、第一学期
での同科目(パートI)のスコア「C」をリカバリーすることができた。そのことが大きな精神的余裕を復活させてくれた。
何よりも嬉しかったのは、学業をそのまま続けようという希望や意欲を取り戻せたことであった。次学期からの学業に俄然に意欲を
燃やすとともに、国連海洋法担当法務官への志について改めて思い起こし、自らを奮い立たせることができた。
第三学期では教科選択の幅がぐんと広がった。以前よりまして、履修したい海洋関連教科が目につき、選択に迷うほどであった。
また、ルームメートと同じく俄然に注意を払うようになった期末試験に関して言えば、筆記試験ではなくタームペーパー
の提出で済ませられる教科が多くあった。実のところ、私にはそのことも安堵感をもたらし、学業に余裕をもたらせてくれた一つの大きな
要因であったことは間違いところである。
先ずは、「漁業資源管理(パートII)」の範疇にある幾つかの科目を選択し、これまで以上頻繁に海洋研究所(IMS)に出入した。
その具体的な目途にしたことは、当時開催中の国連海洋法会議での議論でもまだまだその法的枠組みが細部まで決まっていなかった
200海里EEZ法制に関して、日本にもたらされるであろうインパクトや、それに対する適応策などを模索するため、何らかの有益な
視座を学び取るためであった。特に、200EEZにおける漁業資源の余剰に関する規制とその適用について深掘りしたかった。
その学期末にはタームペーパーを提出することにした。
200EEZ法制の条約化と実際の適用がもたらすかもしれない漁業権益への深刻なマイナス・インパクトから、日本は一貫して
断固反対してきた。因みに、日本は1973年当時、世界中の遠洋水域での漁獲高は、その総漁獲量のうちの40%ほど、重量にして400万
トンほども占めていた。フェーズアウトされた場合その漁獲高のすべてを即座に失う訳ではないが、EEZ法制が条約化されれば、
ボディブローのようにじわりとマイナス影響を被ることになろう。諸国が海洋法条約の成立を待たずに早期の段階で、一方的にEEZの
国内法制を整備し執行するようにでもなれば、その直撃的な影響を被ることとなろう。
事実、大国によるそんな一方的措置の兆候は既に現われていた。日本の権益が最も絡んでいた北太平洋海域(ソ連、米国、カナダ
の近接水域)において、その有望漁場からフェーズアウトされる可能性があった。即ち、米国、ソ連、
カナダなどが、新条約の成立を待たずに、200海里幅員の何らかの漁業専管水域を設定する動きがあった。現実のものとなれば、
日本も早急に対抗措置を執らざるを得ない事態に追い込まれる。事実、米ソは、その数年後には、それを国内法化する措置をとり、
日本は大きな衝撃を受けることになった。
因みに、200EEZ法制を盛り込んだ海洋法条約は、1983年12月にジャマイカで署名された。日本はその後世界中の漁場から順次
フェーズアウトされるという歴史を歩み、甚大なマイナス影響を被ることになった。
先のことはさておき、当時の海洋法会議での関心は、資源の余剰原則とその適用に大きな関心が注がれていた。
一般論として、世界の沿岸諸国が自身の200EEZ内に賦存する漁業資源を最大持続生産量(Maximum SUstainable Yield)まで十分に
有効利用しないとすれば、世界的規模で漁業資源を無駄にすることになりかねない。それは食糧源を無駄にすること
でもある。200EEZ法制では、沿岸国に漁業資源の適正な保存と利用を義務付ける一方で、沿岸国はそのMSYに達しない未利用資源について
他の隣接諸国や遠洋漁業国にどのように利用させる義務を負うことになるのか。沿岸国の適正な
利用義務と他国の利用の権利について、どのようなバランスのよい規則を制定するかということであった。また、それら他国間での
利用上の優先順位も重要テーマであった。
「漁業資源管理(パートII)」の中から選択した一つの教科にあっては、200EEZ内の未利用資源に対する他国による有効利用の
有り様を有り方を巡って喧々諤々の議論がなされた。如何なる規則に従って、沿岸国は自身の200EEZへの他国漁船によるアクセス権を
認めるかである。200EEZ制度が条約化される限りにおいては、EEZ内の余剰資源に対する他国による有効利用の在り方や権利、いわゆる
余剰原則の扱いをどう規定化するか、避けて通ることのできない最重要テーマであった。
世界の沿岸諸国は、果たして、自身の管轄する広大なEEZで、主要魚種別に、漁業資源の科学的調査を十分行い、そのMSYを
はじき出し、自国漁船隊への割当や余剰資源の算定を適正に行なうことができるのであろうか。
沿岸国が全て自国漁船に割り当て、最早余剰資源なしと決定すれば、他国は漁獲枠を要求する余地はないことになる。
沿岸国が自身の200EEZからてっとり早く外貨収入を得ようとすれば、MSYなどの科学的ベースにこだわらず、他国漁船の操業を歓迎し
入漁料を収受するという選択肢もありうる。他国漁船は、漁業交渉において沿岸国から有形無形の見返りを求められたり、
沿岸国内外の政治経済情勢によっては、資源に余剰があっても現実に入漁交渉が成立しないかもしれないし、また余剰がなくとも
成立するかもしれない。
EEZ内の余剰資源を内陸国やその他の漁業国に漁獲させることのプラクティスは、将来どう積み重ねられて行くであろうか。
予測は困難であり、その行方は未知数であろうが、多様な状況が生まれることには違いない。
沿岸国は余剰資源に対して排他的管轄権が及び、故に他国のそれへのアクセスはタダではなく、その漁獲のために何らかの経済的
あるいは現物支払いなどが求められることであろう。内陸国は別にして、他国は余剰資源をタダで利用することは望みえないことに
なるものと推察した。そして、漁業権益確保のために、他国間での入漁競争の激化、入漁料などの条件をめぐる多様な交渉、
技術や資金協力の見返りなどを巡る取り引きに少なからず巻き込まれて行くことになろう。
断定することは到底できないが、余剰原則がどんな規定振りになっても、その適用はますます現実離れ的となり、究極的には有名無実化
して行く可能性がなきにしもあらずと推察した。
日本にとっては、入漁料の支払いはコスト増につながり、究極的には国民が支払うことになろう。場合によっては、漁業経営上
深刻なマイナスインパクトをもたらし、究極的には漁場からの撤退にいたるかもしれない。要するに、髙い入漁料を払ってまで
遠洋漁業を継続するか否かの分岐点は、操業の続行が経済的採算性に見合うものかどうかであろう。さらに、長期的に見れば、日本は遠洋漁業から相当程度フェーズアウトを迫られ、
その帰結として日本漁船隊による総漁獲量の大幅減少へと進む懸念が十分ある。日本にとっては、究極的には、自身の200EEZ内
における漁業資源の最適正利用と保全、そして遠洋海域における漁業権益のため最大限可能な方策を執る他ないように見受けられる。
究極的には、ほぼフェーズアウトになる懸念があるので、それに備えて別の有効な漁業戦略をもって生き延びて行くことにならざるを
得ない。
「200EEZと余剰原則」の法制化は不可分の一体であるが、かくして、当時条約化されつつあったその規定もさることながら、
条約成立後におけるその規定の実際の適用やプラクティスの有り様も、日本漁業の将来の行方を占う上で大きな影響をもたらそう。
今後も規定とプラクティスの双方をじっくり注視していこうと決意を新たにしつつ、充実した教科の受講を終えた。
最後に、200EEZと余剰原則について学ぶことができたさまざまな視座をもって、「200EEZに基づいた漁業資源の配分」と題する
タームペーパーをエドワード・マイルズ教授(当時IMSの所長)およびクリスティ教授に提出した。この教科は両教授の共催であった。
200EEZとの絡みで日本と深くかかわる事柄は、第一に余剰原則であったが、第二としてはEEZ境界線にお構いなく行き来する、
いわゆるストラドリング魚種であった。その代表的な魚種としては、サケ・マス類の遡河性魚種、マグロ・カツオの高度回遊性魚種、
ウナギ類の降河性魚種である。それらの規制・管理の行方、その影響や対応策についての視座を探ろうと、「漁業資源管理(パート
II)」の範疇にあるもう一つの科目を選択することにした。
日本にとっても大きな関心事の一つであったのは、200EEZとの絡みで魚種別のどんな規制が条約化されるかであった。ストラドリング
魚種は、海に引かれた人為的な境界線にかかわりなく、EEZ相互間、あるいはEEZと公海との間を自在に行き来する。一方の沿岸国が
自身のEEZ内で資源保護のために厳しく規制しても、他国が自身のEEZで乱獲すれば、あるいは隣接する公海で乱獲すれば、
前者の規制措置の実効性は削がれることになる。日本は、しかし、これらの魚種別規制についても、既得権益確保の観点から
消極的にならざるをえなかった。日本はその規制にどう関わるべきか、その影響はいかほどか、対応策はどうあるべきかの視座
をもって、それらを学べる教科を選択した。生態学的特性から少なくとも当該3魚種は、魚種別に規制することが合理的であると、
IMSでは盛んに教授や院生が議論した。
例えば、遡河性魚種であるが、日本は、米ソが1970年代後半に200海里排他的漁業水域を設定したことで、日本をフェーズアウトの
危機に陥れることになるまでは、漁業協定に基づきながらソ連系や北米系のサケ・マスを北太平洋海域で沖どりをしていた。
だが、米・加などは、自国の母川に遡上し産卵する当該資源の保護などのため、多大な投資をしていた。そして、特に米国は、
母川国として、陸上でのサケ・マス再生産のための投資やコスト負担などに配慮して、またその生物学特性に応じて、関係諸国は
適正な資源保護措置や母川国への優先的資源配分などを行なうべきであると強く主張してきた。その状況下、IMSは、
3魚種の魚種別規制について、自国政府に対して海洋法会議交渉において主導的役割を果たすようプッシュしているように見受けられた。
遡河性や降河性魚種および高度回遊性魚種に関し、沿岸国の200EEZとそれに隣接する公海において、全関係諸国の全面的協力をもって
適正に規制しないと、彼らの漁業はトレードオフの関係に陥る可能性が大きい。従って、基本的にいずれも魚種別に規制・管理する
ことが好ましく合理性があると思われた。関係諸国が一致協力して、遠方のEEZや公海から成育河川へと遡ってくる、ウナギの稚魚の
シラスウナギの漁獲規制もその一つであった。「公海自由の原則」の下での早い者勝ちの漁獲競争では乱獲にいたるリスクは明らかである。
では、どんな規制を条約化すべきか。3魚種の特性は異なり、それらの漁業の地理条件や歴史文化も異なるので、詳細なルールは
地域関係機関の創設によるルール作りに委ねられるのはやむを得ない。要は、ストラドリング魚種については、関係諸国の一致協力
によるきめ細かい実効性のあるルール作りと漁業管理が最も適正であろう。
結論を繰り返すことになるが、200海里時代が到来した場合、日本が生きる道の基本は2つのみである。自国の200EEZに
おける生物資源を乱獲することなく、適正な保護に万策を尽くし、持続可能にして適正な利用を図ることである。もう一つは、
公海においては、地域別漁業管理機関や委員会を中心に、国際協調をもって関係資源の適正な保護と有効利用・配分を図ることが
不可欠である。更には、さまざまな栽培漁業技術の向上も大いに期待されるところである。かくして、余剰原則と魚種別規制について、
法学のバックグランドしかもたない学徒にとっては、目からウロコの深掘りをこの第3学期において再び体験することができた喜びは
大きかった。
さて、第3学期で最も痛烈に目からウロコが落ちた教科は、「漁業資源管理(パートII)」のそれではなく、実は海洋学
であった。海洋総合プログラムの神髄を感じさせられた学びの一つであった。実際、その学びの面白さに嬉々とし、少年のように
目を輝かせながら、その講義に臨んだ感動を今も覚えている。人生で初めて、海洋に関する自然科学の中で最も代表的な学術領域といえる
海洋学を高等教育レベルで学んだ。海洋プログラムに属する他の4名のクラスメートと受講を共有したことは意外であった。
彼らもまた、海洋学の学びは初めてだったらしく、同じく興味津々で受講した。私が学んできた諸学のほとんどが法律にまつわる
社会科学系ばかりであったが、25歳にして米国の大学院で海洋学に触れ、海への回帰をことさらに実感させてくれた。
海洋学の教授は、カリフォルニア州サンディエゴにある世界的に有名なスクリップス海洋学研究所を退職した後に迎えら
れた海洋生物学者のフレミング博士であった。海洋学の基礎知識もないような我々に理解できるよう、毎回理論を噛み砕いて
分かりやすく講義してくれた。まるで小中高生に紐解くかのようであった。海洋における様々な自然現象である潮汐や海流とその大循環
のメカニズム、塩分濃度や水温などに関する物理、大陸漂移説やプレート・テクトニックス理論、海洋に存するエネルギー資源、
大陸棚や深海の海底地形、海洋生物の食物連鎖、深海底に賦存するいろいろな鉱物資源など、海洋物理・地質・化学・生物学などの
基礎中の基礎について教わった。日本では海洋学部などで学ぶ「海洋科学基礎編」といったところであろうか。
さらにまた、第3学期で、新鮮にして興味津々であり、目からウロコが落ちたもう一つの教科は「海運」であった。海洋プロ
グラムの神髄ともいえるもう一つの学びであった。大学には地理学部というのがあった。そこで科目の一つとして選択したのが、
この海運や港湾管理に関するものであった。学部校舎に出向き、学部生に混じって出席した。世界の海運事情やその一般的現況、
ドア・ツー・ドア輸送をもたらしたコンテナ化の発展の系譜やそれが海運業や陸上物流システムにもたらした革命的変革とその社会
経済的インパクト、荷物を車ごと積み込み・積み下ろすロールオン・ロールオフ方式の輸送システム、北米大陸両岸を結ぶランド
ブリッジ、海陸複合一貫輸送システム、コンテナ化と港湾施設の変革、港湾の後背圏とコンテナ集積理論、港湾都市間における貨物の
集積競争、コンテナ輸送のハブ港とフィーダー輸送理論や港間での国際競争、国家港湾行政、
海運への政府不介入や海運自由の原則など、日本では商船大学などで学ぶような専門的な内容であった。期末には、タームペーパーとして、
「タンカー、航行及び汚染」と題して、ダグラスK.フレミング教授に提出した。
さて、第3学期において関心をもって履修した3つ目のIMSでの教科は、海洋関連の国際機関とそこでの行政・統治(ガバナンス)、
であった。国際機関における国際政治力学的な要素が多分に含まれていて、これもまた海洋プログラムならではの教科の一つであった。
世界には海洋科学、水産・海運・船舶航行や海上安全などに関連した数多くの国際機関や専門委員会が存在し活動している。
国連下部の専門機関もあれば、分野ごとに多国間条約によって設立された世界的あるいは地域的な機関もある。例えば、国連専門機関の
ユネスコには政府間海洋学委員会(IOC)が組織されている。その他、国際海事機関(IMO)、水産委員会や水産局を擁する食糧農業機関
(FAO)や国際水路機関(IHC)など。また、地域的な国際漁業委員会として、北太平洋、北西大西洋、地中海などの海域別の国際漁業
委員会などがある。また魚種別の多くの漁業委員会として、国際捕鯨委員会(IWC)をはじめ、太平洋中西部熱帯マグロ委員会、
全米熱帯マグロ類委員会、大西洋マグロ類保存国際委員会など数多くある。
講義ではそれらの主要国際機関の設立系譜、任務や組織構成、機関長の選出法、意思決定法、財政論などの学びの他に、
ガバナンスにまつわる課題などに取り組んだ。例えば、機関長や組織全体のガバナンスの在り方、意思決定や規則作成上での主導権
争いや偏向性について、中立性や公平性の確保、加盟構成国間の政治力学、その他行政・財政・運営上の課題、組織改革の取り組み
などについて、セミナー方式による講義が展開された。国際機関や委員会では、その政策・ルールの決定における中立性、公平性が
担保される必要があるが、トップである事務局長の出身国、主要幹部職員ポストの地域・国別構成、拠出金の多寡などをベースに
しながら、その機関の意思決定、ルールづくり、行政・運営全般において、さまざまな主導権争いが繰り広げられる。
時に、特定国の権益や利益誘導、発言力・影響力の拡大化、特定国の意向の優先化、援護、政策の後押しとなる色んな力学が働き、利害が
せめぎ合う結果公平性を欠いたり中立性が損なわれたりすることもありうる。国連奉職を目指す私にとっては、海洋にまつわる国際機関・委員会
についてのまたとない学びの機会となった。
かくして、海洋学や海運・港湾管理、日本の漁業の将来を考えるための漁業資源管理(パートII)などの学びは、神戸商船大学の
受験取り止めや船乗りへの夢を諦めて以来、海の世界への回帰を力強く誘ってくれた。そして、名実ともに回帰を実現できたと
実感させてくれた。それが、海洋プログラムに在籍し学んだなかで、最も嬉しかったことである。
日本の普通の法学部ではめったに履修することのない海事を学びとすることができた。振り返れば、日本で特別研究生として浪人生活中に偶然にも
国際海洋法と出会ったことが、海への回帰の起点となったといえる。そして、留学したワシントン大学の海洋プログラムにおいて、
紛れもなく回帰を果たしえた。その回帰こそ最も喜びとするところであった。第三学期を終えて初めて、海洋プログラムに留学して
良かったと、心底から思えた。海への回帰をさらに一歩も二歩も前進させたのは、次学期で履修した深海底マンガン団塊にまつわる
学びであった。海洋法会議の第二の最大テーマであった、その鉱物資源開発と管理のことは次節に譲ることにしたい。
海への回帰が一過性に終わるのではなく、将来海洋法担当の国連法務官への道につながり、それが現実のものとなれば、
海とずっと長く関わり続けられる。それも国際海洋法を専門的な支柱にしながら、一生涯海と関わり続けられる可能性も開けてくるのでは
ないか。それを思うと、心に明るい希望の光りが差し込むようであった。これからは、二度と海から遠ざかるまい、離れるまい、
と心に誓った。振り返れば、第3学期末のこの頃、初めて留学の楽しさを日々心底から感じることができた。当時には、キャンパスを飛び
跳ねる様に行き来していたことを思い出す。まさに高揚感が体から溢れ出ていた。
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