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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第8節 エピソード(その二)/笑えるウソのような話


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     第8章・目次
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する
      第5節: プロジェクトのその先を探り、明るい未来を拓く
      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
      第7節: エピソード(その一)/笑えない本当の話
      第8節: エピソード(その二)/笑えるウソのような話



  経済やその他の日常的なエピソードに触れたい。アルゼンチンでの経済インフレは日本で経験したこともない凄まじいものであった。 友人に言わせれば「ドイツの高級車ベンツ一台を買い損ねた」。短期出張者の時には気にもしなかったが、赴任して暮らし始めると先ず 経済インフレが長期に続いていることを肌で感じる様になった。超インフレによる波状攻撃にさらされている「ア」国民に同情を禁じ得なかった。 毎月の物価上昇率は20~30%にも跳ね上がった。年間インフレ率にすれば1,000%は下らないという。

  ある日ソファーを買おうと近くの家具屋さんに値段の下見に出向いた。翌日買うつもりで出直しみたら、昨日の値札は差し替え られ大幅に値上げされていた。さて、そのうち政府から薙刀が振り下ろされた。紙幣額面の下4桁を切り捨てる通貨デノミネーションが断行され、 さらにペソからアウストラルへと通貨名も変更された。1万ペソが1アウストラルに、100万ペソが10,000アウストラルになった。 印刷が間に合わず1万ペソに1アウストラルの赤印字が施されていた。政府はインフレ退治に必死であったが、インフレは 収まらなかった。何故そんなひどい超インフレになるのか分からないが、経済的には瀕死の状態の真っただ中で暮らしていた。 国民もやりくりが尋常ではなかった。

  そして、インフレに連動して現地通貨ペソはどんどん下落した。ペソの対ドルレートも連動して下落した。USドル生活者はドルをこまめに 現地通貨へ換金すればほとんど困らなかったが、ペソ通貨に頼って生活する一般国民は生活防衛に必死であった。給料をもらったら目減りを ヘッジするため、即ドルに換金する。あるいは、何か物に換えておくなどしてヘッジする他なかった。タンス預金にせよペソ通貨を寝かせて おくことことなど有りえなかった。当然ながら、完全な物価統制が考えられ、法令が発布され、ごくわずかの例外を除いて、一切の物と サービスの値段(給与も含めて)が凍結された。だが半年もするかしない うちに綻び始め、例外が圧倒的に多くなり、ついに再び下4桁を切り捨てるデノミ措置が執られる始末であった。

  ペソ建てで当初支給されていた海軍本部からの学校運営予算のやりくりは綱渡り状況であった。どんな経理操作をしているのか、会計担当に 尋ねてみても、その回答をよく理解できなかった。当座必要な最小限の資金のみが、科目ごとのインフレ上昇率に則して学校に支給される。 とにかく学校にプールされる資金を極力少なくしたようだ。それでも当座未使用の余剰資金はドルに換金しておいたり、何かの必需物品を早目に 購入してヘッジしていたという。だが、実際の処、一般国民が日常的にどうやりくりをしていたのか不思議であったし、学校の経理のやりくり の秘訣もそうであった。物価凍結違反が徐々に横行し始め、政府発表の月々の主要物価インフレ指数も国民の現実の生活感覚と段々とずれが 生じるのが常であった。そして、一般国民からの政府への抗議が頻発する一方、各業界からは完全凍結から例外的に一部解除するよう 要求の火の手があちこちで上がるのであった。

  1985年9月に先進主要5か国でいわゆる「プラザ合意」がなされた。プロジェクト開始から1年半ほど後のことである。為替相場は急カーブを 描いて円高となって行った。一気に円ドルレートは円高基調となり、同年同月1ドル250円であったレートは、2年後の1987年初めには1ドル150円 レベルとなった。在外手当てはニューヨーク東京銀行にドル建てで振り込まれていた。それを何とか日本へ逆送金し円建てにして預金にして おければ、1ドル当たり100円もの損失を被らなかったはずである。私としては、経済の動きに無頓着であったというよりは、全くマネー音痴 であった。対応していれば何百万円かの為替利益を得て、ベンツとは言わないがセダン1台を買うことができた。車一台をまさに買い損ねたと、 帰国してようやく、友人の一言の意味を噛みしめた。友人にとってはまさに高級車ベンツ1台を買えるくらいのドル預金をそのまま銀行に 塩漬けにしたに違いない。

  ところで、笑えるエピソード一つ。私もコーディネーターとして、プロジェクト運営のためにJICAブエノス事務所から振り込まれた公金を 銀行に預けていた。倒産のリスクが少ないと考え、ブエノス・アイレス州政府系の銀行と取引した。久しぶりに元金と利息の残高証明書を 取得したうえで、1年間の会計報告をしようとした。銀行窓口に行き、女子行員に利息計算を願い出た。彼女曰く、「利息はつきません」と 真面目な顔をして返答した。最初は冗談が過ぎると思って、訊きなおしたら、同じ返答であった。 唖然としてカウンター越しに押し問答となった。「貴方の上司に真偽のほどを確認したいので、上司と話をしたい」と前のめりになった。 上司曰く、「当行では、勿論利息はつきます」。ほっとした。

  上司に計算を促された行員は、渋々、少し離れたところに鎮座する大きな回転式の顧客データ管理台帳を回転させ、 私のデータファイルを引き抜き、やおら計算を始めた。そして、30分ほどしてからメモ書きを渡してくれた。利息は「だいたい、これくらい の金額になります」という。また、唖然として、大よその金額ではなく正確な額を計算してくれるよう改めて依頼した。彼女は渋々ながら、 計算をし直してくれた。1時間ほど待つ破目になったが、計算書を渡してくれた。インフレが激しい「ア」国では、利率がたびたび変更 されるうえに、預金を頻繁に出し入れしていると、変動要素の多い口座となる。そんな出し入れの多い通帳での利息計算となると、 電卓での手計算は大変に違いなかった。1985年当時、州立銀行ではまだパソコンは導入されておらず、顧客の現金出し入れ記録は回転式の アナログ台帳に収納され、利息は手計算であった。彼女に感謝して計算書を手に学校に戻り、念のため元金と利息を足し算をしてみた。 何と間違っていた。銀行での少しも笑えなかった話でもある。民間銀行では州営銀行よりは少しだけ先行してパソコンが導入され、 顧客金銭出納管理が電子化されていた。

  もう一つ笑い話。深夜ブエノス・アイレスからマル・デル・プラタへの帰途のこと、国道走行中に、ある村で赤信号を無視して通り過ぎて しまった。赤信号に気付いた時はもう遅かったので、そのままやり過ごしてしまった。違反は違反であった。たまたま警邏していた警官に 止められた。素直に違反を認めて罰金を払う申し出を早々に行った。だが、警官は私を派出所の中に招き入れ、私を椅子に座らせると、やおら 引き出しから交通規則集を取り出して、違反について第何条の規則云々と説明を始めた。

  家族が車内で待っていて、夜中のことでもあったので、早くマル・デル・プラタに帰り着きたかった。 罰金納付切符を切るのかと思いきや、領収書フォームを机の上に取り出した。警官が示した罰金を直接その場で支払った。手際がよく手間が省けると 思った。領収書もくれた。これで一件落着したと思い、帰途に就いた。

  ところが、忘れていた頃に裁判所から、罰金支払いの通知書が送られてきた。「しまった、罰金をネコババされた」と初めて 気付いた。当時発行された領収書はゴミ箱に捨ててしまって、もう手元になかった。どうしたものか悩み、友人の「ア」人に相談した。 何と、彼は笑いながら「通知書なんか無視しろ!」とアドバイスした。それを信じて、その通知書もゴミ箱へ捨てた。裁判所から出頭命令 でも来るのかなと思いきや、帰国する日まで何の音沙汰もなかった。不思議である。国家は大丈夫なのだろうか心配になる。

  最後にエピソード2話。一つは、これ以上の偶然はありえないのではないかという話。もう一つはマル・デル・プラタ漁港でよく見かけた 「風物詩」について記したい。プロジェクトの「航海術」専門家は、現役時代には日本水産の遠洋トロール漁船の航海士であった。 彼がブエノスに着任した時、歓迎のために、河合君を含め事務所員らと食事を共にした。その時、分厚いビフテキに舌鼓をうちワインを飲みながら、 河合君がある旅行譚を話し始めた。

  河合君は学生時代に北欧を旅していたが、物価が高くて金欠状態になり、物価の安いスペインへと流れ流れて南下したという。 スペイン南岸のカディスという有名な港で、日本船を探して日本食にありつこうと埠頭をたむろした。運よく日本漁船を見つけ、 当直士官に掛け合ったという。士官は初めは断ったが、余りにせがむので、優しき士官は乗船を許可し招き入れた。河合君は飯にありつき腹を満た すことができたという。そこまでは、何の珍しくもない普通の旅行譚である。

  ところでその時、目の前に座っていた航海専門家が、「その当直は私ではなかったか」、「カディスでそんな日本人青年を招き入れ、 飯を供したことがある」と口をはさんだ。みんな一瞬ナイフとフォークをもつ手が止まった。プレイバックして、その当時の状況を 河合君と専門家の二人でいろいろ照らし合わせた。すると、何とその当直士官は今同席し食事を共にする 専門家自身であることがはっきりとした。みんな余りの偶然にびっくり仰天した。

  何億分の1の確率の話なのか、余りに現実離れした奇跡の再会であった。全く信じられない。スペインとアルゼンチンでの二人の偶然の出会い、 何をどう理解すればいいのか、みんな言葉を失った。二人が再び出会う共通的な要素も動機も何一つ見当たらないにもかかわらず、 地球の裏側で偶然再会した。ありうるのか、こんな再会が!。カディスでの偶然の出会いが、地球の裏側のアルゼンチンでの偶然の再会 となった確率は、何十億分の1なのか、誰か計算して教えてほしい。この真実を知り得た我々は、皆してワインで祝杯をあげた。

  さて最後に「オタリアと犬との闘い」のエピソード。マル・デル・プラタの漁港では、漁船は遠洋、近海、沿岸という船種をもって 色分けされている。沿岸漁船は「ランチャー」と称され、全体がオレンジカラーに染められている。岸壁近くに串刺しにしたように 横列に、さらに縦列となってひしめき合っている。ところで、港内にはオタリアの自然発生的な繁殖地があり、保護されている。オタリアは それらの小型漁船から陸揚げされる魚を横取りしようと虎視眈々と狙っていて、岸壁のあちこちにたむろしたり、寝そべっている。 なかには漁船の舳先甲板でねそべっているオタリアもいる。

  他方で、3,4頭の犬が岸壁を行ったり来たり、時に、作戦的に、一頭のオタリアを取り囲んで、がんがん吠えて追い立てている。 オタリアとの大バトルである。オタリアはものともせず寝そべり続ける。だが、余りうるさく吠えるので、時には犬たちに向かって、噛み つくような大きなしぐさをしたり、「ウォー」と雄たけびを上げて、犬を威嚇する。舳先にねそべる数頭のオタリアが急な体重移動をして 海に飛び込んだりすると、小船はバランスを崩し、転覆することもある。 実はこのバトルは人為的に仕組まれたものである。イヌには飼い主がいて、オタリアを追い立て漁獲物を横取りするのを防いでいる。 人間と犬が協働して、オタリア相手の「追い立てビジネス」をしているのである。岸壁にいけば、犬とオタリアとの熱いバトルが毎日 のように繰り返されているのを楽しめる。オタリアはそんな魂胆を知っているかのように、いつも威風堂々と寝そべり、蚊を追い払うように いなしている。

  かくして、水産室勤務4年間、アルゼンチン赴任3年間、足掛け7年間も、水産分野のプロジェクト運営を最前線で経験をすることができた。 JICAでも、水産分野でこれ以上長期間の職務に就けるのは希有であろう。その幸運に喜び、JICAに深く感謝 である。海の語彙集は納得のいく仕上がりは望むべくもなかった。プロジェクトでの実務に役立つこともほとんどなかった。 ただ、私的には語彙集づくりのきっかけになった。語彙集づくりのいわば「フロントランナー」となり、まずはいわば「競技場のトラック を一周し終えた」というところであろうか。帰国後においては、語彙拾いを続けなければ、それに取り組んだ意義と努力は無に帰すだけである。 継続の覚悟と期待をもって、帰途に就いた。また、国連法務官への奉職を志願する間のポスト待ちの観点からは、 この7年間は少なくともセカンド・ベストの立ち位置であった。水産分野における多種多様のプロジェクト運営とスペイン語の語学能力 アップは、海洋法担当法務官を志願する上で少しは実務経験をレベルアップさせることに繋がったと思いたい。もっとも、海洋法の 専門的法務経験とはほど遠かったに違いない。そこは、「海洋白書/年報」づくりなどを再開し、リカバリーに繋げたかった。

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