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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第6節 米国東海岸の海洋博物館を巡る旅に出る


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     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に舞い戻る
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう




米国ボストンの海軍工廠埠頭に係留される「コンスティテューション号」
米国東海岸の海洋博物館に展示されるアメリカズ・カップ参加艇



  思いがけず、「海なし国パラグアイ」で2か所もの船舶博物館を発見したことが大きなきっかけとなり、是非ともそれらの希少な 博物館をウェブサイトの海洋辞典で紹介しようと思いついた。博物館の紹介は辞典のコンテンツを単にビジュアル化するばかりではない。 切り撮ったいろいろな画像を見出し語などの語彙に添えることによって、文字での語釈にプラスした形で、語彙に関する説明情報を 重層化するのに役立てることができる。

  辞典ではその用語を文字で説明するのが基本だが、一枚の画像は100文字以上の説明書きに優るものと期待してのことでもある。 辞典・辞書は一般的には文字の世界である。例えば、邦字見出し語に対し英仏西語などの対訳を記し、また必要に応じて語釈を付したり するわけで、「文字ばかりの世界」、「文字の大海」である。だが、文字ばかりだと、無味乾燥的であると敬遠されがちとなろう。 辞典に画像(写真)やイラストを貼付し、文字による語彙説明を補い、辞典全体をビジュアル的することで、コンテンツを豊かにできると、 船舶博物館見学をきっかけに思い付いた次第である。

  パラグアイ近隣諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海あり国」には幾つもの本格的な海洋博物館がありそうで、 海や港での風景などの被写体や、博物館などでの展示物画像を切り撮るために足を運びつつあった。そして、赴任して2年目にして、 3年の赴任期間に一度しかないビッグチャンスが巡って来た。つまり、長期間(30日間)の本邦への一時帰国休暇を取得できる 機会のことである。ところが、当時は家族全員でパラグアイ生活をしていたので、私は妻や娘ら家族に会うため日本へ一時帰国する 必要がなかった。そこで、突拍子もないことを思い付いたことは、米国への長期の休暇旅行に振り替えることであった。 その心は米国の東海岸沿いに、海洋博物館や水族館などの海の歴史・文化・科学関連施設を片っ端から訪ね歩いて、それらを海洋辞典 サイトで紹介しようというものであった。

  その前準備として、半年ほどかけて、インターネットを通じて米国東海岸沿いの主要都市にある海洋博物館などのリストを作成する ことにした。それと並行して、博物館巡りの順路、モーテルなどの宿泊先事情、レンタ・カーやグレーハウンドなどの交通・移動手段、 パソコンやデジタルカメラの装備など、あれこれ旅のプランを少しずつ思い巡らせ、プランを固めていった。 ネット検索は大いに役立った。現在のような「グーグル検索」はできなかったが、「ネットスケープ」などの検索エンジンを駆使しながら、 どういう経路を辿るか、ラフな計画から練り上げて行った。最も重宝した情報源としては、米国の主要な海洋・海事・艦船博物館などを 網羅したポータルサイトであった。それをゲートウェイにして、各州ごとに主要博物館サイトへ芋づる式にアクセスできた。 海洋博物館、潜水艦・艦船博物館、漁業・捕鯨博物館、水族館など、予想をはるかに超えた数にはびっくりであった。 博物館の規模は大小さまざまであるが、個性豊かな博物館が目白押しであり、どの博物館をどう巡覧すればよいものか、迷ってばかりいた。 辿り着いた巡覧策は、絶対逃す訳にはいかないという博物館を最優先リストに挙げ、その他は時間があれば立ち寄るという補助的リスト にした。ネットサーフィンしながら旅程をあれこれプラニングするだけでも、毎日楽しい夜なべ仕事であった。

  さて、巡覧の旅は米国での夏期休暇シーズンである7月を避けて、8~9月期とした。2002年8月18日にアスンシオンを出立し、 予備日を見込んで30日間の旅とした。当時まだまだ若かったので、レンタカーをボストンで借り上げ、25日間ほど総延長3,000km以上を ドライブした。毎日ほぼ3ヶ所の海洋博物館などの施設を訪ねる結果となった。気軽でのんびりとした散策の旅どころではなかった。 振り返れば、ノルマに追いかけられた半ば仕事のような「知的冒険の旅」といえた。 海洋・海事博物館、捕鯨・漁業博物館、船舶博物館、灯台博物館、水族館など70ヶ所近い(うち水族館10か所ほど)施設の他、わずかながらも 歴史的史跡をも訪ねた。施設近隣の浜辺、港、マリーナなどのウォーターフロントエリアをたくさん散策もできた。

  先ず旅のルートにざっくりと触れたい。マイアミに上陸した後数日のんびりと海辺をうろついた後、空路ボストンへ移動した。 ボストン市内の「ティー・パーティ(茶会)事件船」や「ニューイングランド水族館」の他、海洋歴史地区の「コンスティテューション号」 博物館を訪れた。日を改め、「メイフフラワー号」で清教徒一団が上陸したプリモス、ジョン万次郎ゆかりの捕鯨基地ニューベッドフォード、 有名な海洋博物館のあるミスティック、海洋学部を擁する大学の街ロードアイランド、海洋歴史文化施設が集積するリバー・フォール、 コッド半島先端のプロビンスタウンで折り返した後、捕鯨基地であり捕鯨博物館のあるナンタケット島にフェリーで訪れ、さらに海洋研究のメッカ・ ウッズホール海洋研究所にも立ち寄った。一端ボストンに帰投した後、北に向けて移動し、 メーン州、ニューハンプシャー州の海岸沿いの海洋博物館や灯台などを周遊したが、ポートランドで反転し、再びボストンに戻った。

  かくして、フロリダのはるか沖合に浮かぶキーウェストをめざし大西洋沿いに南下した。本土からロングアイランドにフェリーで 渡海し、同島の海洋博物館を訪れた。ニューヨークは迂回し、フィラデルフィアとその対岸のカムデン、さらに南方のボルティモアを目指した。 同地でも幾つかの海洋博物館・艦船博物館や水族館などを訪ねた。その後、首都ワシントンを迂回して、バージニア、ノース・カロライナ、 サウス・カロライナ、フロリダ諸州沿いにある数多くの博物館や灯台を訪ねながら南下し続け、フロリダ半島マイアミを素通りした後、 海上に架かるハイウェイを、潮風を一杯に浴びながらキーウェストまで疾走した。 米国本土最南端とされるキーウェストで沈船からの金銀財宝などを展示する博物館、ヘミングウェイの旧邸宅などを訪ねた後、マイアミ に戻り、そこでも幾つかの海洋関連施設を訪ねた。最後は、旅の出発点としたマイアミ・ダウンタウンのすぐ近くのハーバーサイドの マーケットプレイスで、3,000㎞以上の長距離ドライブの旅の無事を心底感謝しながら、一人プチ贅沢な最後の食事を楽しんだ。

  当時デジタルカメラの普及が世に浸透し始めていて、スティールカメラと併存する状態にあった。パラグアイにいた頃には、 フィルム代やその現像費を全く気に掛けることなく、デジカメで無制限に画像を切り撮れたことは大変ラッキーであった。画像記憶用 メモリーの容量は小さく、何十枚も持ち歩いた。毎日ほぼ100%それらの記憶媒体を使い切るくらい撮影したので、必ずその日のうちに パソコンへ全画像を取り込んでおく必要があった。当時スマホなどという文明の利器はなく、またパソコンをネットに接続することも できず、ドライブしながら行き当たりばったりでモーテルを探す毎日であった。

  毎日の目標としては、モーテルへのチェックインを午後5~6時頃にして、一時間以内に夕食を近場で済ませるようにしていた。 というのは、画像データのメモリーカードからのノートパソコンへの取り込みスピードは随分のろまであった。データの取り込み作業と デジカメ用バッテリーの充電にはほぼ毎日深夜まで3~4時間も費やするという、夜なべ仕事を余儀なくされていた。そして、 移動しながら何処でもネット検索ができる時代ではなかったし、カーナビという利器も装備されていなかったので、毎晩道路地図帳を広げて、明日訪問予定の博物館などの位置やルート、 次の投宿先の在り処について粗方の目星を付けたりする必要があった。

  翌朝は買い込んでおいたパンやジュースなどをかき込んで、8~9時の間にはモーテルを後にするようにしていた。それを25日ほど 繰り返した。毎日平均して400枚、800MBの画像を撮影した。撮影した全画像はおよそ10,000枚で、その総計メモリーは12GBほどに達した。 訪ねた海洋・海事博物館、一般公開の水上艦船・潜水艦・帆船、灯台などは、平均して毎日2~3か所、総計70ヶ所ほどで、 水族館は8ヶ所ほどであった。港町のウォーターフロントでは、潮風にあたりながら海辺の街並みやマリーナなどの美しい港景を眺めたり、 マリーングッズ・ショップなどを散策することも多かった。時には、風光明媚な海岸に立つ灯台周辺をたむろしたり、海浜公園などの 白砂を踏みしめながらのんびりと時間を過ごした。朝からすぐに100~200kmドライブして次の目途の博物館を目指すか、朝一番に博物館 などへの訪問を終えた後次の都市に向けて移動するかであった。

  アメリカのモーテルはさすがに清潔かつ快適であり、料金も手頃であった。モーテルは大きな都市に入る手前の郊外の国道沿いに多く 所在していた。同質性を期待できるフランチャイズ・スタイルのモーテルもあるので、現代のスマホ時代であれば、即座に最寄り のフランチャイズ加入のモーテルを見つけられよう。当時は全くの行き当たりばったりだったので、時に夜8時を過ぎても見つからなくて 焦る時もあったが、ほとんどの場合何とか陽のある夕刻には見つけられた。モーテルの自室の玄関ドアの前に、車を後ろ向きにパー キングさせ、後部トランクからバッグなどをベッドに投げ入れたり、運び込んだ。その便利さは申し分なかった。 35歳の頃であったので体力も気力も十分有り余り、連日博物館を巡りつつ東海岸のリアルな自然風景や歴史史跡なども楽しんだ。 ほとんど疲れを知らなかったが、さすがに肩が凝ってだんだんと首が回らなくなったのは苦痛であったが、一晩寝ればそれも解消した。

  休題閑話。2002年8月19日、アスンシオンから空路、長年の「憧れ」の地マイアミへ向かった。マイアミには南米やカリブ海諸国 への出張時に度々トランジットしたものの、いつも通過点に過ぎなかった。空港外に足を伸ばしダウンタウンやマイアミビーチなどを ゆっくりと散策したことはなかった。だから、一度はビーチなどに出て存分に海と戯れたかった。20年ほどの想いがやっと叶って、 そのチャンスにありつけた。さて、翌日ダウンタウンをうろついた後、すぐ近くの、ビスケーン湾に臨むウォーターフロントへ向かった。 ベイサイド・マーケットプレイスでランチを取ながら、先ずは優雅にゆったりとした時間を過ごした。眼前のマリーナにはさんさんと 陽光が降り注ぎ、海面はキラキラ星で埋め尽くされていた。パラグアイとは丸で違う異空間で開放感に浸るような夢心地の世界がそこに あった。

  マイアミのダウンタウンの沖合には幾つもの、砂州が形成されたフラットな島が浮かび、コーズウェイにて結ばれている。 マイアミビーチはその島の一つにあった。8月末のシーズンオフのこと、夏場の喧騒とは程遠く、人はまばらで閑散としていた。 白砂のビーチは意外と幅広であった。ビーチの背後には高級そうな高層コンドミニアムが連なり、それに並行して厚板張りの 遊歩道が続く。そんなトロピカル・パラダイスのようなビーチ界隈を心行くまでたむろした。その後、マーケットプレイスから バーバークルージング船に乗り込み、まさにお上りさんになって、有名俳優や大富豪の別荘をはじめ、ダウンタウンの摩天楼や ガントリークレーンが林立する外貿コンテナ埠頭などを船上から眺め、心の滋養にした。21日には空路ボストンへ向かった。 ボストンから大西洋岸沿いにマイアミまで南下してくる計画であった。

  余談だが、ダウンタウンのカメラショップに立ちより用足しをした。私がパラグアイ在住であることから、ボリビア出身という店員と スペイン語で会話した。身の上話になり、ボリビア人である彼は、何とJICAの水産養殖プロジェクトで勤務していたことを知った。 マイアミでJICAつながりの青年に出会ったのにはびっくり仰天であった。一瞬、プロジェクトでのカウンターパートの定着率が悪い 事の方が気になった。結局彼は養殖関係の仕事を継続することなく、マイアミに出稼ぎにきたのであろう。彼の人生の選択にとやかく 言うことではないと思い、ボリビアとプロジェクトを離れた理由を敢えて尋ねることはしなかった。

  ボストン到着後、下見のつもりですぐにウォーターフロントを目指した。ボストンは米国の数ある近代的大都市の中でも米国の歴史・文化を色濃く漂わせる。 翌日、歴史的に有名な「ボストン茶会事件船」を再現した博物館に立ち寄ったが、残念ながら閉館状態にあった。だが、川中に設置された 浮き桟橋に繋がれた復元船や茶箱保管倉庫などを橋上から眺望できた。 当時本国である英国による課税政策を不当とする人々が、1773年12月16日に港に係留されていた英国船を襲い、342個の茶箱を海に 投げ込んだ。この事件が、植民地であった米国の人々を独立革命へと向かわせたという。いわば「導火線の発火点」のようなきっかけ を生んだ。博物館には茶箱を積んでいた3隻のうち1隻である「ビーバー号」のレプリカが係留されている。その後、ウォーターフロント へ再び足を運び、インナーハーバー・クルーズ船に乗船し、ボストンの心地よい潮風に吹かれた。バンカーヒル記念塔が立つ丘の麓近く にある有名な「チャールズタウン海軍工廠ヤード」で下船し、歴史を刻む海軍造船所へタイムスリップした。 同工廠は1800年に米国海軍の最初の造船施設としてオープンしたものである。

  工廠敷地内には、現在なおも現役戦艦として米海軍に登録される戦列艦「USSコンスティテューション号」が係留され一般公開される。 204フィート(約62m)長の木造の堂々たる浮かぶ「要塞」である。同艦に乗り込みじっくり見学した。近くには古い倉庫らしき建物を利用した 「USSコンスティテューション号博物館」があり足を踏み入れた。 敷地内にはその他、第二次大戦と朝鮮戦争に就役した「駆逐艦カッシン・ヤング号」も公開される。第二次大戦中この工廠は、320隻の 艦船を建造したという。2,000隻がドック入りし、11,000隻の艦船を艤装し、3,000隻のオーバーホールや修理をしたとされる。 工廠内のドライドックNo.1には「USSコンスティテューション号」が1833年に最初に入渠したことでも有名である。たまたまデンマークの 航海訓練帆船「デンマーク号」が親善訪問中で、一般公開されていたので乗船見学することできた。翌日には、再びクインシーマーケットプレイス を含むウォーターフロント界隈をたむろし、のんびりと過ごした。「ニューイングランド水族館」も訪ねた。

    さて、8月24日からレンターカーで、ボストンからプリモスの町とその近郊の史跡「ピルグリム・プランテーション」へ向かった。 27日までの4日間に、ボストン近郊都市のプリモスをはじめ、昔捕鯨基地として有名なニューベッドフォード、「ミスティック・ シーポート」という有名な海洋博物館があるミスティック、コネティカット州でも特に風光明媚なナラガンセッツ海岸地区、 海洋学部を擁するロードアイランド大学、その昔造船と船舶交易で繁栄し現在では海洋・艦船博物館が集積するプロビデンス(ロード アイランド州都)とその近接都市のフォール・リバーなどを周遊した。

  「ピルグリム・ファーザー」と称される清教徒一団を含む、英国からの最初の移民を乗せた「メイフラワー号」が1620年に英国 プリモスを出帆し、2か月ほどの航海を経て、新大陸の地に上陸し入植を開始した。今はその上陸地はプリモスと呼ばれ、その上陸を 記念して建てられた記念ゲートには「1620」と刻まれた「上陸の岩」が設置される。上陸の第一歩を印した岩とされるが、真偽のほどは 不明である。彼らの上陸後に築いた入植地をリアルに再現したのが「プリモス・プランテーション」である。17世紀のプリモス周辺 の様子を可能な限り忠実に再現した歴史保存村といえる。建物だけでなく、村民スタッフによって当時のままの生活が再現されており、 当時にタイムスリップすることができる。プリモス・ハーバーには復元された「メイフラワーII号」が係留される。

  同プランテーションには「ピルグリム・ホール博物館」があり、メイフラワー号の乗船者たち所縁の品々が収蔵される。 清教徒は、聖書を権威の唯一の源として受け入れ、聖職者による階級制度を廃止し、教会に集う会衆が教会を司ることを主張する。 このように、メイフラワー号に乗船した清教徒は、英国国教会から分離し、自らの教会を作ろうとした人々であった。オランダに 身を寄せていたことから「ピルグリム・巡礼者」と呼ばれている。1620年フラワー号が最初に上陸を試みたのはコッド半島先端(現 プロビンスタウン)であったが、定住に適さないとの判断から、半島が取り囲む湾の奥地の現在のプリモスの地に上陸した。

  プリモスからニューベッドフォードへ向かった。米国捕鯨史に関する世界最大級の美術品と遺物を所蔵する「ニューベッド フォード捕鯨博物館」を見学し、港地区界隈をそぞろ歩いた。港の埠頭には、1841年に建造された、米国最後の生き残りの木造捕鯨船 314トン(最古の浮かんでいる米国商船でもある)が係留される。同博物館で一枚の歴史的な写真に遭遇した。1800年代中期の ベッドフォードの港内を写した写真である。数え切れないほどの捕鯨帆船で埋め尽くされる様子を見て取れ、圧巻という他ない。 1857年には329隻の捕鯨船(米国の593隻の全捕鯨船の半分以上がニューベッドフォードに登録されていた。館内には多くの捕鯨帆船 模型、捕鯨のための用具、捕鯨船・シーンの絵画、鯨骨格標本、航海用具、海獣の牙などの彫り物(スクリムショー、水夫の慰み細工) などが展示される。近くの埠頭には3本マストの捕鯨船が一般公開される。

  四国・土佐出身の漂流民・中濱万次郎、別称ジョン万次郎らを救助した米国捕鯨船はこのベッドフォードを基地としていた。 万次郎は土佐中ノ浜の生まれである。貧しい漁師の倅であった、当時14歳の彼は、1841年仲間とともに出漁中に高知沖で遭難・漂流し、 無人島 (鳥島) に漂着するにいたった。半年後、米国捕鯨船のホイットフィールド船長に偶然救出され、ハワイへ。 万次郎自身は、同船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘブンへ、そこで「文明教育」を受けた。フェアヘブンはニューベッドフォード の入り江をはさんだ対面の町である。異国の学校に通い、英語、数学などを学び、最新の航海学、捕鯨術、造船技術などを修めた。また、捕鯨船に 乗り込み世界の海へ船出し、航海・捕鯨の数多くの経験を積んだ。正に偶然の数奇な運命に導かれてのことであった。

  だがしかし、万次郎の望郷の思いは断ちがたく、遭難以来約10年後の苦難の末1851年に帰国を果たした。その後は、土佐藩に次いで幕府にも仕える にいたった。1860年、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府使節の通訳官として、 「USSポーハタン号」の随行船「咸臨丸」にて、艦長・勝海舟、福沢諭吉らと太平洋を渡った。 幕府・明治政府の下で、開成学校 (東大の前身) 教授などの要職に次々と任じられた。誠に稀有にして偶然の成り行きに導かれ、 時に他者に求められ人生の選択となすことを受け入れながら、万次郎は日本の黎明期にあった江戸末期から明治初期の世を駆け抜けた。 彼の歩んだ人生をひも解けばひも解くほどに、深く魅せられるところ大変多いところである。 享年72歳にしてこの世を去り、東京・豊島区の都立雑司ヶ谷霊園に眠っている。

  さてその後、ニューポートの「ボーウェンズ埠頭(Bowen's Wharf)」などや、「ヘレショフ海洋博物館」を訪ねた。同博物館には、 1992年のアメリカズカップに参加した競争艇「デファイアント号(Defiant)」が展示される。ニューポートはかつてアメリカズカップの 舞台でもあった。すぐ傍の桟橋には、風筒を回転させることで推進する、希少なロータリー船が係留されていた。奇遇の出合いに大いに興奮 した。その後、今回の旅で是非とも訪れたかった施設の筆頭格であったコネチカット州の海洋テーマパーク「ミスティック・シーポート」 へ向かった。その日夜遅くにやっと見つけ駆け込んだモーテルは「クリスタル・ペンギン・モーテル(Krystal Penguin Motel)」という、 ペンギン大好きの女将が経営するモーテルであった。ライトアップされていたモーテルの電色看板がペンギンをあしらっていた他、 室内外がペンギンマスコットで埋め尽くされていた。

  翌日わくわくしながら今回の旅の目玉の一つである「ミスティック・シーポート」海洋博物館に直行した。 シーポート博物館では、自然の静穏な入り江に、大型帆船2隻の他、漁船・ヨットなど何十隻もの大小の古そうな船が係留されている。 入り江を取り囲む広々とした陸上敷地内には多種多様な展示館が集積する。ある展示館では、船首像、各種精巧な帆船模型、船絵画、 ハーフモデル、手用測鉛などを展示する。鰻の筌などの漁撈具の展示館、木造ボート製造工程を展示する工作室、奴隷貿易 の史料などを展示する展示館などといった具合である。大型帆船「チャールズ・モーガン号」では、展帆の実作業も披露される。 ロープワークや滑車動作を体験するコーナーもある。なお、敷地内には「ミスティック水族館」が併設される。その後、ニューポートへ 向かったが、「海軍戦争大学博物館」や「港歴史博物館」には立ち寄る時間がなかった

  翌日、ロードアイランド州の中でも最も美しい海岸に数えられる有名なナラガンセッツ海岸へ向かった。同海岸の自然美をゆっくり と味わった。そして、周囲の海辺風景と調和する「ジュディース・ポイント灯台」を格好の「一枚の特選フォト」の被写体にした。 同州では、海洋学の学術研究で有名な「ロードアイランド大学海洋学部」に立ち寄り、暫しキャンパスを散策歩きをした。その後 フォール・リバーを目指して移動した。トーントン川に架かる巨大な橋の袂には、「フォール・リバー海洋博物館」の他、幾隻もの艦船が係留され公開されている。 例えば、「戦艦コーブ&海洋博物館」、戦艦「USSマサチューセッツ号 BB59」、駆逐艦「USS Joseph P. Kennedy Jr. DD850」、潜水艦298 、その他揚陸艦などが入り江の一角に展示される。因みにフォール・リバー海洋博物館には、河川や海洋航行の旅客船・外輪船・軍艦などの数多の 船模型、捕鯨関連の各種模型・用具、帆船模型、1849年建造の「ジュピター号」の模型、1900年代初期に建造された5本マストの スクーナー「マリー W. ボーウェン号(Mary W. Bowen)」、船絵画、航海計器、ロープワークなど盛りだくさんの陳列品で埋め尽くされている。 その他、「タイタニック号」の大型模型と多数の沈没関連資料、「フォール・リバー・ライン(Fall River Line)」社所属船舶の 数々の船模型 (蒸気船「ピューリタン号(Puritan)」、「シティ・オブ・ターントン号(City of Taunton)」など)が展示される。

  さて、8月28日からいよいよコッド半島周遊ドライブに出かけた。それにしても、ボストンからコッド半島にかけてのマサチューセッツ州の 自然の豊かさ美しさは言葉では語り尽くせないものがある。半島先端の漁業・観光の町プロビンスタウンへ向かう途中のどの風景を見ても 自然保全が行き届いている様相で、半島全体が大自然公園とリゾートゾーンそのものの様相であった。 「ピルグリム記念塔・プロビンスタウン博物館」を訪ね、ウォーターフロントをたむろした。港の桟橋にある「海賊博物館」にも立ち寄った。 コッド半島沿いの海や船風景を眺めたり、船やシーフードをあしらったユニークなデザインの看板を観るだけでも楽しかった。

  翌日にはコッド半島の中程の南岸にある港町ハニスから、その沖合いに浮かぶ旧捕鯨の島「ナンタケット島」へフェリーで渡海した。 同島はかつて捕鯨基地として栄えことで知られ、是非とも訪れたかった。緑に包まれた市街や波止場界隈を歩き疲れるまで散策した。 もちろん目当ての「捕鯨博物館」も見学した。捕鯨帆船模型、小型ボートで鯨を追いかけ仕留めようとする鯨捕りらの実物大ジオラマ、 スクリムショー、数多くの捕鯨用具、鯨骨格標本、船画や捕鯨シーンの絵画、捕鯨船舶図面、航海計器、船舶修理工房、灯台光源レンズや装置 などを展示する。ミニであるが「ナンタケット水族館」も訪ねた。

  その後、ファルマスという町を経て、その先にあるウッズホールへ向かった。そこには世界的に有名な「ウッズホール海洋研究所(WHOI)」 を訪ねた。猛烈な雨が止みそうになかったので致し方なく、広いキャンパスと周辺をドライブし、「海洋生物学研究所」、「ウッズホール科学水族館」、 その他ウッズホール歴史コレクションの一つとして埠頭に係留される全装帆船などを車窓から眺めるだけであった。国家海洋漁業 サービス(NMFS)所管の「水族館]は何故か休館中であった。わずかに「ウッズホール歴史博物館」だけには、館前に駐車できたので 立ちることができた。その後一路ボストン方面を目指した。

  8月30日ボストン近郊のノースクインシー地区にある「米国海軍造船工廠博物館」として係留される戦艦「USSサーレム号  USS Salem CA-139」を訪ねた。その後、ボストンから北25㎞ほどにあるセーラムという、18世紀東洋貿易で大いに栄えた港町に立ち 寄った。サーレムは、その東洋交易の繁栄の証である東洋の美術品、船の艤装品、精巧な船模型コレクションなどをあちこちの博物館 などで見ることができる港町である。先ずは、「セーラム海洋国立歴史地区」にある「ピーボディ・エセックス博物館」を訪ね、またサーレムの港などのウォー ターフロント界隈を散策した。埠頭には大型帆船「フレンドシップ号」が係留され、また「ニューイングランド 海賊博物館」があったが、5時閉館となってしまい見学が叶わなかった。P・エセックス博物館には、帆船などの精巧な模型、海洋画、 船首像、航海計器などが美的環境の中で展示される。

  セーラムからニュー・ハンプシャーを経て更にメーン州ポートランドまで北上した。岩石海岸の突端に建つ「ポートランド・ヘッド 灯台(エリザベス岬)&博物館」に立ち寄った。被写体の灯台とその附属施設は絵葉書になるような美しさであった。博物館には主に ポートランド・ヘッドの灯台の建設史や仕組みに関する資料が展示される。ポートランドのダウンタウンやウォーターフロントをそぞろ 歩きし、船具の骨董屋 「ザ・チャート・ルーム」で掘り出し物を物色したり、「ポートランド・ハーバー博物館&灯台」で艦船模型、 海図、古い帆船写真、船舶設計図面、船大工用具、灯台資料、米国最後のクリッパー船の資料などを巡覧した。港では生まれて初めて4脚 ポンツーン着底型の巨大な石油掘削リグを間近に見上げ、その巨大さに圧倒された。その後、ブランズウィックを経てメーン州バース (Bath)へ向かった。

  バースでは「メーン海洋博物館」を巡覧した。同博物館の5,6棟の展示館はケンベック川沿いに点在し、川岸には大小8隻 ほどの帆船などが係留される。数多くの古帆船・近代艦船の模型、海洋画・帆船画、船首像、ハーフモデル、1824年建造のバース船籍のブリグ の船首像、船乗りの生活を醸し出す衣装箱、木造帆船の木材加工・組立工房、船大工用具などの展示が充実しており必見であった。 ポートランド市街とハーバーを散策した後、バースで折り返しニューハンプシャー州ウェルズへと向かった。

  ウェルズでは灯台関連ギフトばかりを専門に扱う「灯台デポ(Lighthouse Depot)」というショップに立ち寄り、灯台の置物・小物 などのデコレーショングッズを物色した。日本ではめったにお目にかからない、びっくりの灯台グッズオンリーの専門店であった。その後、「灯台ギャラリー 博物館」にも立ち寄った。更に南下を続け、マサチューセッツ州のエセックス・リバー・ベースン・ハーバーにある「エセックス造船 博物館」に立ち寄った。同館周辺域では、1650-1982年に4,000隻の木造船が建造されたといわれる。再度「セーラム海洋国立歴史サイト」 を経てボストンに戻った。

  翌日ボストンを後にして、シャーロンという少し内陸部の町にあるはずの「ケンダール捕鯨博物館」に向かったが、方角を見失い 長時間探し回った。ついに辿り着いたが、野外に残されたわずかな陳列品のみが、博物館の存在を示していた。同館はニューベッドフォードの 「捕鯨博物館」に移転したようであった。その後、コネチカット州のグロトンにある「サブマリーン・フォース図書館・博物館」を訪ねた。そこには、 最初の大陸間弾道ミサイル潜水艦の「ジョージ・ワシントン号(SSBN 598)、1959-85(Groton, CT)」の艦橋部分が展示されている。 さらに原子力潜水艦「USSノーチラス号博物館」を訪ね、その艦内をじっくりと巡覧した。 また、デイビッド・ブッシュネルが1776年に建造した、手足でペダルを漕いで人力推進をする潜水艇「ザ・タートル」が展示される。 これで敵船に機雷をセットしたというもので、一見する価値がある。

  翌日、コネチカット州ニューロンドンの「沿岸警備隊アカデミー博物館」を訪れ、近代艦船の数多くの模型、海難救助活動に関連する 用具など巡覧した。その後、ニューヘブンを経てノーウォークへ向かった。いずれも対岸にはロングアイランドが横たわる。 ノーウォークでは「海洋水族館&博物館」に立ち寄った。同じ建物内に海の生き物を展示する水族館と船舶・海洋博物館とが併存している。 小型ボートの製作工房、特殊ヨットや小型汽艇な数多くの実物の小型ボートも展示される。水族館では魚類説明パネルをたくさん切り撮った。 そして港などのウォーターフロントをぶらついた。その後、少し引き返してブリッジポートへ。そこからフェリーで対岸のロングアイ ランドのポート・ジェファーソンへ渡海した。

  ロングアイランドでの目的地は、ウェスト・セイビーユの町にある「ロングアイランド海洋博物館」であった。規模は小さいが、 外見的には「ミスティック・シーポート」にどこか似ていて海と漁業のテーマパークのようであった。入り江にはカキ採取船をはじめ、 各種の小型船が係留され、また屋内にも多くの小型船が収蔵展示される。その他、カキの採取や加工用具の展示施設、小型船の建造工房 などが点在する。その他、米国商船アカデミーの「米国商船博物館」にも立ち寄ることができた。アカデミーの桟橋にはカッター 揚げ降ろし訓練用のダビッド、操練用カッターなどが整備されている。ロングアイランドから本土フィラデルフィアへとドライブしたが、 途中の大都市ニューヨークははなっから敬遠し迂回して先を急いだ。

  デラウェア川岸のフィラデルフィアの対岸に位置するカムデンに先ず足を踏み入れた。カムデンでは「ニュージャージー州立水族館」 をじっくり観て回った。また、カムデン側の川岸に係留される「戦艦ニュージャージー号」に乗艦し内部をじっくり巡覧した。 その後、対岸のフィラデルフィア側へフェリーで渡り、「インデペンデンス・シーポート博物館」を訪れた。 フィラデルフィア側の川岸ピアには、大型帆船、潜水艦、戦艦「オリンピア号」などが同館の一部として展示される。 翌日ボルティモアに向かったが、途中メリーランド州のハブル・ドゥ・グレース(Havre de Grace)という、チェサピーク湾の一角にある 海辺の美しい田舎町に立ち寄った。そこで、絵に書いたような美的マリーナをのんびり散策し、小さな「アーブル・デ・グレース海洋 博物館」を訪れた。近くには1827年にサスケハナ川河口に立てられた米国最古参のコンコード・ポイント灯台がそびえる。

  ボルティモアのダウンタウンに足を踏み入れ、真っ先にウォーターフロントを目指した。ダウンタウンのインナーハーバーに面する 桟橋の一角には「ボルティモア国立水族館」と「ボルティモア海洋博物館」が陣取っていた。埠頭には博物館重要な構成要素として、「灯台船チェサピーク号」、 「潜水艦トルスク号」、コーストガードのカッター「タニー号」の他に、米国戦列艦の一翼を占める帆船「コンステレーション号」が、 係留され一般公開される。ウォーターフロントは再開発され、市民と観光客で賑わう近代的な海洋歴史文化エリアとなっていた。 その後、首都ワシントンを迂回し、ニューポートニュースにある、海洋博物館として知名度の高い「ザ・マリナーズ博物館」を束の間だけ立ち寄りノーフォークへ向かった。

  さて、バージニア州ノーフォークでの目当ては、ウォーターフロントに係留される戦艦「USSウィスコンシン号」の他に、そのすぐ傍にある 有名な「ハンプトンロード海事博物館」であった。博物館の愛称は「ノーチカス(Nauticus)」と呼ばれる。館内には数多くの帆船、 蒸気船、艦船などの模型、航海用具などが展示される。傍には実物のタグボートを係留しての「タグボート博物館」がある。 その足でお隣の海軍港湾都市のポーツマスへ向かい、「ポーツマス海軍工廠博物館・灯台船」を訪ね、数多くの帆船や近代艦船の模型など を巡覧した。また「国立海洋センター」を訪ねた後、ニューポートニュースへ舞い戻ることにした。

  一昨日は時間不足のために館内巡覧ができずにいた「ザ・マリナーズ博物館」に舞い戻り、じっくりと巡覧した。一度は訪ねて見たかった 海洋博物館である。その最大の見ものは、1940年代建造の実物の「USSモニトル艦」から引き揚げられたエンジン部分が水槽に入れた まま保存されていた。19世紀末の砲艦であったモニトル艦は、喫水の浅い沿岸航行用の低い乾舷をもつ戦艦で、巨大な旋回砲塔を備えていた。 南北戦争中の1862年南部の「メリマック号」と戦った北部の「モニトル号」がその最初のモデルであった。同博物館には、 オーギュスト・ピカール(ジャック・ピカールの父)が設計した精巧な潜水艇「USSトリエステ号」の模型。近代船や帆船の数多くの巨大模型 や船首像、「タイタニック号」の古い写真・歴史資料、航海計器、古地図、船構造模型などが展示されている。 その後、ヴァージニア・ビーチにある「ヴァージニア海洋科学博物館」に立ち寄った。海洋科学に関する展示の他、水族館が併設されていて 海洋生物の展示がある。

  翌日、ノースカロライナ州ウィルミントンへ移動し、「戦艦ノースカロライナ号」の艦内をくまなく見学した。 艦載の水上飛行艇も展示される。その後、サウスポートへ移動し「ノースカロライナ海洋博物館」を訪れた。同市には2つの有名な水族館 があるが、旅程の都合で素通りとなった。その後、「オーク・アイランド灯台」へ向かった。骨休めのつもりで灯台近傍にある公営の 海浜を散歩したが、その砂浜で金属探知機をもって真剣にビーチコーミングをしている男性に出会った。同州からサウスカロライナ州、 フロリダ州にかけての沿岸海域で、16世紀から18世紀にかけて金銀財宝を積んだスペインなどのガレオン船などの帆船が数え切れないほど 座礁沈没したことは、よく知られている。そんな沈船の金銀財宝の欠片でも探しているのか、邪魔しないように暫し眺めていた。 オークアイランドのカスウェル・ビーチには長大の木製の桟橋が沖へ伸びていた。その背丈は7、8メートルあり、周りの水深は浅い。 どんな船が何用でいつに接岸するものなのか不思議に思いつつ、心地よい潮風にあたって疲れを癒した。海岸の背後にはかなり砂が吹き 寄せられ、ドューンという盛り上がりが続いていた。一方で、この辺りは海岸浸食が相当深刻なものであるとの印象を抱いた。 かくして、サウスカロライナ州のチャールストンへ向かった。

  チャールストンでの目途は「パトリオット・ポイント海軍博物館」であった。最大の展示は、第二次大戦の「戦う貴婦人」と称された 空母「ヨークタウン号(CV-10)」である。第二次大戦時の艦載戦闘機「ワイルドキャット」などから現代の軍用機まで25機以上を展示する。 その他第二次大戦、朝鮮、ベトナム戦争に参加したという潜水艦「クラマゴア号」、駆逐艦「ラフィー号」をはじめ、コースト ガード・カッター「インガム号」などを展示する。その後、「チャールストン海軍ヤード博物館」や「サウスカロライナ水族館」を経て、 ジョージア州サバンナ、バランズウィックへ。そしてフロリダ州ジャクソンビルへ向かった。

  9月12日、ジャクソンビルでついにフロリダ州の土を踏んだ。「セント・メリー潜水艦博物館」に立ち寄った。潜水艦の操艦システム、 潜望鏡やハッチシステムの他、多数の潜水艦模型、歴史的史料などを巡覧した。次いで、様々な船舶模型、船大工用具などを展示する 「ジャクソンビル海洋博物館」を訪れた。更に南下しセントオーガスティンへ。そこで「セントオーガスティン灯台&博物館」にも立ち寄った。灯台の外観は特徴的で、 灯塔には黒い帯を螺旋状に巻いたようなデザインが施されている。螺旋階段を伝って光源装置のある塔頂まで登り、360度大西洋と大地の絶景を 遠望した。旅行中、髙い灯台から海を眺められたのは、これが最初であった。デイトナビーチへ移動した。

  デイトナでは「ポンス・ド・レオン入り江灯台および海洋博物館」に立ち寄った。灯塔は高く、その全体がレッドカラーに染め抜か れるのが特徴であった。灯台の概要紹介資料の他に、各種の船模型、昔の航海計器、船首像、帆船を描いた大型絵皿などが展示される。 その後、「海洋科学センター」では魚類水槽展示の他、数多くの貝類標本や海洋哺乳類骨格標本を陳列する。その後、無事にフロリダに 辿り着いた喜びを噛みしめながら、デイトナビーチの海浜をそぞろ歩きした。その後のドライブ途上で、名前だけは記憶にあった 「ハーバーブランチ海洋研究所」の傍を通りかかり、折角の機会と広々とした研究所内のウォーターフロントを散策、幾つかの調査潜水艇を 観て回った。マイアミは目と鼻の先であった。

  翌日、フォート・ピアース・ハーバーに立ち寄った。マイアミまで跡100㎞ほどであった。フォート・ピアースとその近辺には幾つもの 海事関連歴史文化施設が散在していた。先ず、海軍博物館の一つ「海軍UDT-SEAL博物館」を見学した。 ここは海軍潜水士の生誕の地とされる。海軍のいわば水中作戦実行部隊が所在し、その関連武器や装備品が多く展示される。 「フォート・ピアース海軍水陸訓練基地」、「セント・ルーシー郡歴史博物館」では、帆船の模型や艤装品、ガレオン 沈船から引き揚げられた遺物などが展示される。「海洋科学センター」では多くの水槽に海洋魚類を展示する。 その後、ハッチンソン・アイランドでは「難破船博物館」を訪ねた。その後、フォート・ローダーデールを経て、マイアミからの出立 起点となったベイサイド・マーケットプレイスに再び立ち寄り、長距離ドライブの束の間の休息を取った。

  9月15日、いよいよ最後の行程であるキーウェストへ向けて出立した。マイアミから本土のフリーウェイを走り、その後は数多くの海上 陸橋路を次々とホッピングした。圧巻は「セブン・マイル・ブリッジ」と称される、11㎞に及ぶ海上陸橋路であった。映画のシーンで よく登場するあのオーシャンブリッジである。目の覚めるようなブルースカイの下、右も左もエメラルドブルーの海が広がる中を 快適にドライブした。ついに米国最南端のカリブ海に浮かぶ都市キーウェストに着。「アーネスト・ヘミングウェイ邸宅」をはじめ、 「難破船歴史博物館」、「メルフィッシャー海洋博物館」、さらに「キーウェスト灯台・灯台守居住地博物館」、「タートル博物館」、 「キーウェスト水族館」などを訪ね歩き、最後はキーウェスト・ヒストリック・シーポートで暫しのんびりと過ごした。

  その後、最後のドライブになる中、再度気を引き締めながら、紺碧の空と海との境の見分けがつけられない空間を疾走し、 20日間振りにマイアミに戻り、ベイサイド・マーケットプレイスで自省するとともに、全ての肩の荷を降ろし骨休めし、無事の帰還を 改めて感謝した。予備日にあてていた17日には、マイアミ大学キャンパスを散策し、「マイアミ大学ローゼンタイル海洋学部」、 と水族館「シークアリアム」をじっくり散策した。ローゼンタイルのメインビルディングは入り江のすぐ傍の緑豊かな森に包まれていた。 桟橋には大学の調査船が停泊し、海洋研究には最高の環境を擁していた。

  18日ついに最終日、アスンシオンへ帰還する日がやってきた。最後の最後に路線バスで再度マイアミビーチにでかけぶらついた。 夏休みは完全に終わりを告げ、海岸は人もまばらであった。その後マーケットプレイスに戻り、一人ランチを取りながら長い旅を振り返った。 マリーナを前にして、オープンスタイルのレストランで潮風にあたりながら、「海のある華やいだ世界」から去るに当たって、最後の 旅の疲れを癒し、一人ビールを傾け、そして何よりも旅の無事に再度感謝した。車の運転からも解放されていたので、ビールの味も 格別に楽しめた。その後、マイアミを後にして空路アスンシオンへ。翌19日ニカラグアに帰着した。

  米国東海岸の旅は海洋辞典に多くの画像をもたらしてくれた。辞典のビジュアル化を進める上で重要な第一歩となった。 そして、その後の博物館を巡る旅の楽しみを倍加させてくれた。また、辞典づくりの楽しさをさらに大きくさせ、持続させてくれた。 米国に海洋・漁業・捕鯨・艦船などの博物館がこんなに数多くあるとは驚きであった。日本のそれとはかなり膨大な数ではないかと、 衝撃を受けた。感銘を受けたのは、規模はまちまちだが、それぞれの博物館などの展示内容が充実し、個性豊かであったことである。 さまざまな海洋・漁業・艦船などの歴史、文化、科学の知的学習をするうえで、ポジティブかつ大きな刺激を与えてくれた。

  辞典の見出し語やその他の語彙に貼り付けるに相応しい画像については、今後画像処理しながら検討することになるが、 それ以外の海や港の風景、リアルな戦艦・駆逐艦・潜水艦、数え切れない陳列品の画像をいかなる形で辞典にアップすべきか、 いろいろ模索する必要があった。その模索の結果、後のことになるが、「一枚の特選フォト・海と船」と銘打ってのフォト・ ギャラリーを創成し、もって辞典をさらにビジュアル化するというアイデアに結びつくことになった。言葉で表現しても語り尽くせないことが多くある。画像は1,000文字の 文章よりも、何十倍もの表現力をもつ。画像はまた人に感動を与えたり、歴史や文化に深く思いを寄せたり、思索やインスピレー ション、イマジネーションに直結することも多い。「一枚の特選フォト」コーナーの創成は、辞典づくりそのものをより楽しいものに することに繋がると確信した。

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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第6節 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く


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     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に舞い戻る
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう