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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ

    第8節 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて


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     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう



  大学4年生になる直前の頃、ニューヨークの国連本部事務局への奉職を目指すことを閃いた。それからは人生に何の 迷いもなくなった。当時はそう確信した。その閃きは普段の生活環境下ではなく、雪山の世界の中で閃いた。 それ故に、閃いた時のことが脳裏に鋭く刻まれたようで、今に至るまで、その時のことをよく憶えている。3年生だった12月のこと、 兵庫と鳥取の県境にまたがる氷ノ山近くの冬山山中で仲間と雪上訓練をしていた。ある夜、雪上テントの寝袋で眠りに就いたが、下山後の 就職活動のことが気になりなかなか寝入ることができず、悶々としていた。そんな中、何故か最近読んだ岩波新書の「国際連合」 (明石国連事務次長著作)のことを思い出していた。その時、突如として国連本部への奉職のアイデアが脳天に突き刺さった。 卒後の進路についての迷いから完全に吹っ切れた。国際社会の平和・秩序の維持や貧困撲滅などの課題解決への何がしかの貢献 に身を投じたいという志に覚醒した。

  その実現のための第一歩として、法学部から大学院修士課程法学研究科(国際法専攻)へと進学した。そして、幾つかの偶然の 知遇を得るという天佑をもって、米国ワシントン大学ロースクール大学院の「海洋総合プログラム」へと運よく留学を果たした。 留学中は英語に苦労しながら必死に勉学に邁進し、何とか1975年10月に修了した。最初の学期でのこと、ある履修教科の酷い成績に 打ちひしがれ、早期帰国することすら思い悩んだこともあった。年齢はすでに26歳になっていた。とは言え、アメリカやカナダの ロースクール大学院での履修者たちのほとんどはそんな年齢であった。2学期末には成績は持ち直し、他方国連奉職への志は熱く 燃え盛り、その実現可能性を信じて希望に満ち溢れていた。

  国連海洋法担当法務官を目指して米国留学を果たし修士号を得た私は、帰国後早い段階で国連人事部へ アプリケーション・フォーム(履歴書などの出願書)を郵送した。最低限の応募資格要件を満たしていたはずである。欠けていたのは 専門的実務上のキャリアであった。学業を終えたばかりで何の実務経験もなかった。さて、帰国後に半ば無理やりお世話になった 職場は、東京都内・西新橋の個人事務所であった。その規模は甚だ小さかったが、国際海洋法制や日本の海洋政策などの最近の動向、海洋を巡る 諸課題の調査研究に携わる事務所であった。国連に志願する身であることからして、わずかでもキャリア形成の一助につながり、 それをアピールできることを期待してのことであった。アプリケーション・フォームにも自信をもってそのことを記載するようにした。

  さて、同事務所には一つの大きな不安材料があった。事務所や自身の財政事情に関するものであった。日本で開催された 海洋法制に関する国際シンポジウムの討議録やその他の資料の翻訳を請け負ったり、当時国会で批准の 是非が審議されていた「日韓大陸棚共同開発協定」などに関する提言を取りまとめた研究レポートの作成などを手伝ったりしていた。 さて、事務所の財政事情としては、月々の事務所の借り上げ費、我々の人件費、新聞・資料購入費、交通費などを賄うには厳しい 状況にあった。明るい将来展望を描きたかったが、悲観的な空気が所内を支配していた。事務所の将来に不安を抱きつつ、経営責任を 一手に担っていた所長の心苦しい立場を慮って悶々とすることが多かった。他方、実績につながると思い、週末には、マンガン 団塊の開発と海洋環境保全、中国の領海法、国際海峡通航と非核三原則などに関する論文を学術誌に投稿したりして、 自身の実績作りにも励んだ。

  ところで、1976年の春先のこと、朝日新聞(朝刊)に掲載された「職員募集」という一つの広告記事が偶然目に留まった。それが 人生に「革命的な」転機をもたらすことになった。政府開発援助(ODA)の実施機関である「国際協力事業団(JICA)」が社会人 中途採用を行なうという広告記事であった。世界の発展途上国への日本による技術協力や無償資金協力などの実施を担う政府系 特殊法人であった。青年海外ボランティアを発展途上国に派遣する「青年海外協力隊(JOCV)」の活動をも所管していた。 迷うことなく応募し、都内にある協力隊訓練所で一次試験(筆記試験)を受けた。その後、二次試験(面接試験)を受けるに至り、 運よく合格した。

  当然のことながら、給与がきちんと支払われ、私的な懐事情は真に安定し、それがどれほど有り難いものであるか、身に沁みた。 生まれて初めて経験する正真正銘の給料袋なるものを受け取った。前事務所の財政基盤を振り返れば、個人の生活は薄氷の上に 成り立っていたようなものであった。JICAへの就職によってそのような状況から脱却することができた。毎日しっかり働き、月々の給料を頂けるのは誠に 有り難かった。何よりも、東京での一人暮らしの生活基盤が想像以上に盤石となり、心に明るい灯がともり心身共に温かくなった。 それに、何百人もの仲間と仕事を共にしに、孤独感から一挙に解放された。

  日本政府の発展途上国へのODAの実施部隊としてその実務を担い、それを通じて国際社会へ何がしかの貢献ができる 立ち位置を得たものの、今後その仕事を通じてどの程度海と関わって行けるのか、私的には大いに関心を寄せていた。 内心多少の期待を抱いていたが、その内容や程度についての具体的イメージングはなしがたく、未知数であった。確かなことは、 国連海洋法務官としての専門職員を目指して実務的なキャリアを積み上げ、他方でポストの空きを長期に待機するという観点から すれば、プラスの実績をもたらすものであり、ポジティブな働き場所に違いないということであった。そして、入団して数年後には、 「水産技術協力室」で勤務(3年余)し、さらにその後「国立漁業学校プロジェクト」の調整員としてアルゼンチンへ赴任(3年)する ことになり、JICAという職場の中ではこれ以上望みうる配属先はないという立ち位置に就けることになった。

  とは言え、JICA勤務の初期の頃は、海との関わりが見通せない状況に置かれていたので、海の研究テーマを真剣に模索し、 自主的な研究を続ける他なかった。即ち仕事上海とのつながりはほとんど期待薄だったので、自主研究という形で二足のわらじ を履く以外に、海洋法制や政策に関するキャリア形成を積み上げられる方途はなかった。当時第三次国連海洋法会議は佳境に 入りかけていた。先ず、日本の海洋政策や海洋開発の動向などについての自主研究の結果を「ニュースレター」に取り纏め、 その発行に取り組み始めた。さらに、非営利の任意研究団体として「海洋法研究所」の創始に着手し、前事務所顧問の浅野先生 (東京水産大学海洋法講師)に相談し協力をお願いし、その活動を始めた。かくして、正に二足のわらじを履きマルティワークを 少しずつ軌道に乗せべく歩み始めた。

  何時のことか思い出せないが、国連に出願して1,2年経た時のこと、国連本部の海洋法担当事務局のアナン局長から突然にエアメールを頂いた。 「残念ながら、現在海洋法担当法務官ポストの空席はない」との趣旨が記されていた。わざわざポスト状況を直接連絡 して頂いたのは、ワシントン大学でW.T.バーク指導教授の下で修士号(LL.M)を修めた故のこと であろうと想像した。バーク教授は国際海洋法の分野では世界的にその名が知られていた。エアメール受信の正確な年月日の 記憶はないが、1976~7年の頃だったと記憶する。

  1970年代初めから始まった第三次国連海洋法会議は1975年当時まさに佳境に入りつつあったが、国連海洋法事務局では林司宣(のりたか)氏が日本人の海洋法 担当法務官として同会議に深く携わっておられたことは分かっていた。会議が佳境にあるなか、同氏が法務官ポストを 離任され空席となるのはいつのことか、予測することは難しかった。海洋法条約が実際に採択されたのは、その5年後 の1982年であった。少なくともそれが採択され、署名に開放され諸々の付帯業務が完了するまでは、そのポストが空席になる 可能性はほとんど期待できないと推測していた。それもあって、ポストの空席見通しなどを、アナン局長に執拗に照会する ことは甚だはばかれるところであった。アナン局長からそれ以来連絡を頂くことはなかった。少なくとも条約が採択されるまでは とても空席はないものと頭から思い込んでいた。国連へのアプローチがいかにも消極的で受動的であったに違いなかったと、今では深く 反省している。条約採択後は海洋法事務局の法務官ポストは削減されることになると勝手に思い込んでいたのも事実である。

  さて、JICA入団後の最初の配属先は研修事業部であった。発展途上国から来日する多くの技術研修員と日常的に関わった。担当した 技術研修には、「沿岸資源探査集団研修コース」の運営管理、UNIDOからの要請により「深海底資源探査開発技術に関するチェコスロ バキア研修員向けの個別研修コース」の設営なども手掛け、海との関わり合いをそれなりにもつことができた。国内の政府系海洋研究 機関、公団、大学などとの協議や、研修員に同行しての訪問など、そのつながりは大いに刺激となり、業務に遣り甲斐をもって取り組めた。

  後から考えれば、アナン局長に先ずはJICAへの就職のこと、海洋関連研修を含むODA技術研修プログラム・オフィサーとしての 勤務の他、日本の海洋法制や政策に関する自主的な海洋研究と「ニュースレター」の発行など、 最近における海との関わりを手短に報告しておくべきであった。さらに、履歴書などをアップデートしておくべきであった。 余りに消極的過ぎたことが今更ながら悔やまれた。それが当時の第1の失敗であった。

  国連でのポスト空席状況が変わらなくとも、履歴書などをアップデートすることで人事局や海洋法事務局とのパイプを保つべきであった。 空席状況の如何にかかわらず近況の一報を入れるだけでも、更新された履歴書や付帯物としての通信文は、人事局のロースター内の しかるべきフォルダー内に間違いなくファイリングされたはずである。それをしなかったのは私の怠慢以外何ものでもなかった。ポストの 空きの直接的な照会でなくとも、1~2年に1回でも、また林氏が在職中 であるか否かにかかわらず、例え一方的にせよ定期的に近況などを通信するか、または履歴書をアップデートするだけでも、国連との 間でパイプをつないでおくことができたはずである。だが、そんな気は回らず、体も動かなかった。

  その後、1979年から1983年までの3年余り、「水産業技術協力室」に配属された。世界中の途上国において展開された数多くの漁業関連プロジェクト を密に運営管理した。例えば、漁撈技術向上のための座学・実技訓練、水産高校などでの漁業教育、 実海域での水産資源調査、魚介類の増養殖などに関するプロジェクトの他、水産養殖施設の設計や建設に対する施行監理業務などに 従事した。プロジェクトを実施するための環境整備促進のための直接折衝、専門家への運営指導やプロジェクト評価などのために、 現地サイトへ数知れず出張した。「海洋総合プログラム」で学んだノウハウを活かしながら、最高にやり甲斐をもって真正面から 水産協力業務に向き合った。

  さて、水産室での「独り言」が思わぬ方向へ私の運命を導いた。そのことは後で気付かされた。「独り言」がもたらした運命のイタズラの余りの 大きさに仰天するばかりであった。同室に配属された前半期は、担当地域としてはイスラム圏諸国が多かった。 そこで、半ば冗談に「担当プロジェクトが余りにイスラム諸国に偏っているので、たまには中南米のプロジェクトを担当したい」と 仲間の職員に聞こえるように個別的なバーター取引を提案するかのように独り言を発した。

  結果、先輩職員との間でアルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」と交換することになった。そして、それを成立させるための 交渉にベストを尽くした。1983年には3度も日本・アルゼンチン間を往復し、「国立漁業学校プロジェクト」の技術協力と無償資金協力 に関する協議に深く関わり、その成立に全身全霊取り組んだ。国連海洋法会議では丁度その頃、条約が採択され各国の批准 に付されていた。他方、「漁業学校プロジェクト」の樹立に目途をつけた私は、プロジェクトへのJICA調整員としての赴任を人事部に 認めてもらおうと、上司に働きかけるとともに、スペイン語能力向上に情熱を燃やし続けていた。

  かくして、プロジェクト調整員としてアルゼンチンへの赴任が認められることになった。水産分野での技術協力に3年余のキャリア を既に積んでいたことから、また、国連では1982年に条約が採択されことから、履歴書をアップデートし、人事局とアナン 局長に送付し、もってロースターにその通信文をファイリングしてもらっておく好機であった。その頃連絡を取っていれば何がしかの 空席情報やその他の人事的動向についてのサイド情報を得られていたかもしれない。だが、履歴書をアップデートする機会も、また 空席の情報を得るきっかけをも再び逃してしまい、アルゼンチンへと旅立ってしまった。当時アルゼンチン赴任に前のめりになり、少なくとも3年は国連 のことを忘れプロジェクトに全力投球する必要があった。

  アップデートや問い合わせをしていれば、「履歴書を受領しフォルダーにファイリングした」旨の返信を得ると同時に、何らかの ポスト情報が書き添えられていたかもしれないと悔やまれる。そうしなかったのは怠慢以外何ものでもなかった。当時林司宣 氏は在職中と分かってはいたが、そんなことに頓着せず、少なくともアップデートし、近況を知らせる短信を同封しておくだけ でもよかった。水産部門での対途上国ODA援助に従事していること、国連奉職になおも情熱を燃やしていることを知ってもらえたはずである。 また、「漁業学校プロジェクト」に勤務中であっても、ポストに空席が出れば知らせてほしい旨をレターに添え書きできたはずである。 しかし、それもしなかった。全く思い付かなかった。アルゼンチン赴任に浮かれていたのか、それとも赴任中にポスト空席がオファー されても迅速に転職に応じることができないので気後れしてしまったのか。というのは、赴任途中で転職することになれば、 アルゼンチン赴任を強力に支えてくれた上司や、懇願してプロジェクト・リーダーに赴任してもらった大先輩や、ハードな交渉を してきた漁業学校長などへの恩義や特別の期待を裏切るようで、それは到底できないとの忸怩たる思いがあった。 アルゼンチンでの勤務を途中で放棄して転職するなど、いくらなんでも過去数年の経緯からしてありえないことであった。

  だが、そういう事情があったとしても、今から考えれば、赴任前においても、また赴任中であっても、ましてや帰国後において、 少なくとも1~2年に一度は、履歴書のアップデートと、数行の近況報告くらいをしたため、それらを国連人事局などにファイリングして もらうべきであった。それをしなかったのは、余りにも消極的で受動的であり、悔やまれることであった。これも忸怩たる思いで 一杯であった。雪上テントの中で国連奉職を閃き、固く決意し、歩んできた人生を慮って、もっと真剣に自身を正し行動すべきであった。

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    第8節 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて


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      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう