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    第13-2章 究極の異文化の国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第2節 モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する


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      第1節: エジプト・ナイル川で戯れ、スエズ運河で昔の夢を想う
      第2節: モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する
      第3節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(1)/ストックホルム、オスロ
      第4節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第5節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する

      序章~第12章 | 第13章  第14章 | 第15章~最終章



  カイロからモロッコへと旅を続けた。エジプト・エア機は北アフリカの地中海沿岸の少し南寄りを飛んでいるはずであったが、 陽がすっかり落ち暗い夜空を飛び続けていた。モロッコには、私がかつて出向していた国際協力システム・JICSでの同僚である 上村さんがJICA長期専門家(水資源・水利分野)として赴任しており、先ず彼に再会したかった。その後は、ジブラルタル海峡の港町 タンジールを探訪し、できうればアフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てる「ジブラルタル海峡」を横切り、対岸のスペイン に渡ることを心中で描いていた。また、モロッコの大西洋岸に沿ってまだ見たことのない海や港を気ままに散策するつもりであった。

  まず、カイロから国際商業都市カサブランカへ一気に飛び、その足で列車にて専門家が滞在する首都ラバトへ向かった。 彼はラバトの水利省に赴任していた。同じイルラム教国でありながら、モロッコでは、サウジと違ってアルコール にありつけることを自慢げにしていた。彼が帰国する前に一度は訪ねて「逆慰問」を受けておきたかった。ビールや ウイスキーのグラスを傾けながら、積もりに積もった話しを肴にして心行くまで語り合うことを楽しみに、ラバトへと深夜一人列車 に揺られた。

  ラバトの駅で迎えのドライバーと落ち合い、市街地にある彼の自宅へと案内された。そして、夜遅くまで積りに思い付くままの 話題を持ち出し二人で華を咲かせた。翌日午前中は二人で、鬱蒼と樹木が生い茂る大きな公園をのんびりと散歩した。 午後になって、私一人ラバトの街をほっつき歩いた。ラバトはブーレグレグ川河口に発展した都市といえる。 河口両岸に旧市街地(メディナ)が広がる。硬い地層のために河口川岸に削り残されたと思われる高台にあって、12世紀に建てられた 周囲何kmにも及ぶ髙い城壁で大きく取り囲まれたメディナが広がっているのは、その河口川岸の南側であった。

  城壁内の旧市街地・メディナを何時間かそぞろ歩きをした。大西洋とブーレグレグ川河口に向かって大きく開け、海と川に向かって そそり立つ「ウダイヤのカスバ」の堡塁の肩面に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら、他の大勢のモロッコ人市民とともに、 雄大な海景を楽しんだ。河口対岸の低地に広がっているのは「サレ地区」のメディナで、ウダイヤの高台からその城塞内全景を眺望 することができた。河口部の少し上流部の浜には漁船が浜揚げされ、また船溜まりらしきものも視認できた。時折、眼下の河口部水面 をフルスピードで家路を急ぐ漁労用ボートが通過して行く。堡塁から見下ろすと米粒のように小さく見える。 その後カスバをそぞろ歩いた。河口から少し離れた岩場には高さ3,40メートルの、日本ではごく見慣れた円筒形の白亜の立派な灯台 がそびえる。過去に10か国ほどのイスラム教国に出張などしてきたが、今回初めてそのような普通の灯台に出会ったことに気付いた。

  メディナの中のカスバからは、大航海時代の黎明期にポルトガルやスペイン、その後英国、オランダなどの多くの探検船や交易船がこの沖合いを新大陸やアジア をめざして航行していたことを想い起こしながら、海を眺めた。その後、ムハンマド5世(モロッコ独立の指導者)、 その息子ハッサン2世の霊廟や「ハッサンの塔」など、めぼしい名所史跡などを散策したりした。海洋と河川に向けて広がるラバトの メディナ内外は活気に溢れていた。アラビア半島の巨大砂漠のほぼ真ん中に位置するオアシス都市リヤドとは全く異なる 世界がそこにあった。そんな別世界の時空に身を置いていることを心から楽しんだ。同じ首都・都会といっても、海に開かれているのと いないのでは、都市や文化形成にこうも違いが出るとは今更ながら驚きであった。

  さて、地方への本格的な旅に出立した。専門家の友人が紹介してくれたモロッコ人青年がガイド兼ドライバーであった。そして、 別途借り上げたレンタカーでもって、大西洋岸沿いに北上し、何はともあれタンジール(Tanger)へ向かった。今回の旅の目的地の一つは、 モロッコ北端の海峡に面する港町タンジールであった。道中幾つかの小さな漁村に寄り道して、漁民らの働く姿を眺め活写した。 特に時間を割いたのは、タンジールの数10km南にある小さな漁村アシラー(Asilah)であった。

  アシラーには城塞に取り囲まれたこじんまりとしたメディナと、掘り込み式の漁港があった。 漁師7、8人が斜路に丸太を並べ、漁船を陸へ引き揚げようと汗水を流していた。漁網を広げて木製の網針で黙々と修繕する漁師の姿も あった。港内でいろいろな作業を行なうための敷地(エプロン)には、キールを敷きその両側に太い肋骨用角材を数十本ほど立てた ままの船殻が鎮座していた。建造中の木造漁船であろう。まるで巨大なクジラの骨格標本を、腹部を上にひっくり返した様であった。 そんな「あばら骨」むき出しの骨格標本ならぬ、船殻だけの木造漁船を格好の被写体にしていろんなアングルから切り撮った。 日本ではそんな木造船建造風景は遠い過去のものであろう。さてその後、タンジールを目指し再びドライブを続けた。タンジールまで あとわずかの距離であった。

  いよいよ車はタンジールの市街地へと入って行った。間もなく海峡が見えてくると思うと心臓の鼓動が どんどん高まって行った。海峡横断のフェリー運航サービスを宣伝する大きな広告塔がいくつか目に留まった。興奮はピークに近づき つつあった。地中海と大西洋を隔て、イベリア半島側のジブラルタルとアフリカ大陸北西端に立つ「ヘラクレスの柱」と 呼ばれる地を一度は訪れたかった。かくして街全体を見渡した第一印象としてば、数百メートルほどの高さの岩山頂部からジブラルタル 海峡に向かってなだらかに下る斜面上に形成されているようであった。そして、斜面にへばりついた旧市街地のメディナは何㎞かに わたる城壁によって取り囲まれている。

  岩山斜面一杯に広がるメディナが海峡に向かって緩やかに下り行き、どの家からも港を見下ろすように建てられていそうだ。その斜面 頂部南西辺りにはかつてのカスバが陣取っている。カスバとは支配者の住居地であり、メディナの内外を監視するための城塞の ことである。そのメディナの最も高い場所にあるカスバから北側にひろがるタンジールの港町全体が一望でき、 その北端にあるわずかの平野部に港が築かれていた。その先には、あのジブラルタル海峡が東西に広がっている。 暫く坂道の多いメディナの中を散策しながら、時に眼下の彼方に東西に横たわる海峡を眺めつつ、どれだけの歴史を刻んできたかを 想像しながら感激に涙しそうであった。西に大西洋の大海原、東方を辿れば地中海である。旧市街地を下から上へ、東から西へと 足が棒になるほどにそぞろ歩いて、海峡とその街風景を十二分に堪能した。

  散策途上で、カスバの城壁のごく一部が壊れ、そこから城外へ通じているのを見つけ一歩外に出てみた。岩山斜面西側をざっくりと ナイフで切り落としたかのような断崖風景がそこにあった。眼前には大西洋の大海原が180度広がり、海風が心地よかった。 城壁に沿って北に目をやると、大型国際フェリーや貨物船が停泊する港と、その先に海峡が眺望できた。遥か遠くの海峡対岸には スペインの陸地がうっすらと視認できた。海峡の港町タンジールとジブラルタル海峡風景をこの目に焼き付けるこの日をずっと 待ち焦がれてきた。その日がようやく巡ってきた。

  見下ろす西方には大西洋が、東方には地中海が広がるが、残念ながら視界が今一つで、対岸のスペインは薄っすらとしか見えなかった。 古代海洋民族フェニキア人をはじめ、バイキング、カルタゴ人、海賊など数多の民族や人々が行き来した。北方からはバイキング がやってきて、海峡を通過し、地中海のみならず黒海沿岸地域へも植民した。8世紀からイベリア半島へ植民していたイスラム教徒 の最後の砦であった「グラナダ宮殿」が1492年に陥落し、「レコンキスタ運動」が成就して、イベリア半島からイスラム勢力が排斥 された。以来500年以上にわたり、海峡はキリスト教徒とイスラム教徒との境界線となり、かつ数多の様々な歴史を刻み続けてきた。

  メディナ内を散策しながら、斜面前方に横たわるジブラルタル海峡を何度も飽きずに眺めた。眺めるたびに感慨深いものが込み上げてきた。 何十年もこの海峡を眺めることを待ち焦がれてきた。船乗りに憧れていた青少年の頃のこと、日本・欧州航路の外航船に乗組んで いたとすれば、幾度となく行き来したのはマラッカ海峡とスエズ運河、そしてこのジブラルタル海峡であった。船乗りとして海峡や運河 を通過することの憧れと夢をずっと引きずっていた。そんな遥か昔の夢からようやく半世紀を経た今回の旅で 運河と海峡をこの目にしっかりと焼き付けることができた。

  海峡への入り口には「ヘラクレスの柱」がそびえているという。アフリカとヨーロッパ側の岬に付けられた古代の地名である。 タンジールの東方5、60kmに海峡に面する「ムーサ―山」がある。モロッコ最北端 にある高さ842mの山である。そのすぐ東方には、アフリカ大陸のスペイン領セウタがある。セウタの歴史さておき、その「ムー サ―山」がアフリカでの有力な「ヘラクレスの柱」の一つと見なされている。もう一つの柱は、対岸のヨーロッパ側にある「ジブラルタルの岩」である。今は英国領であるジブラルタル にそびえる。ジブラルタルは英国がその昔スペインから奪い取った領土である。タンジールからは地理的にみて「ヘラクレスの柱」 こそ視認できなかったが、スペインやフランスなどの対岸の欧州諸港を結ぶ国際フェリーターミルを眼下に眺望しながら、 ようやく海峡都市に立つことができ感激に涙した。

  さて、ジブラルタル海峡の存在が大きくクローズアップされ焦点となったのは、1970年代初期から始まり10年以上も続いた「第三次国連 海洋法会議」の時であった。マラッカ海峡、ホルムズ海峡、バブ・エル・マンデブ海峡など100以上の世界中の重要な「国際的に 利用される海峡」をめぐる通航制度が、その国際外交の舞台で大きな注目を浴びた。領海の幅が3海里(1海里は1,852メートル)から12海里へと拡張されること については、当時の先進海洋諸国も、また参加国の大多数を占め当時「グループ77」と称された発展途上国でも異論がなかった。 だがしかし、マラッカやホルムズ、ジブラルタルなどの幅24海里以下の狭い「国際海峡」には、公海部分が残されなくなり、 海峡国によって「領海化」されることになり、両グループが鋭く対立した。

  国際海峡は海上交通路のチョークポイントである。戦略上重要な国際海峡において、米ソをはじめ先進海洋諸国の軍用機は 上空飛行できなくなる。潜水艦は浮上してその姿をさらけ出し、国旗を掲揚して通過せざるをえなくなる。 シンガポール、マレーシア、インドネシアその他の多くの発展途上の海峡国はそれを主張した。紆余曲折を経て、200海里排他的経済 水域を認める代わりに、国際海峡に「通過通航制度」という、領海における無害通航権よりもはるかに自由な通航を認めるという 両グループの妥協が焦点となった。世界を巻き込み駆け引きが展開された結果、先進国と途上国間の政治的妥協が生まれて、今の国連 海洋法条約に規定される「通過通航制度」が成立した。そんな条約上の特別な法制を学んできたこともあって、ジブラルタル海峡を 瞼の奥のスクリーンに焼き付けておきたかった。マラッカ海峡やホルムズ海峡もそんな「国際海峡」の一つであった。

  日本では、同国連会議がなおも開催中の1970年代中頃に、領海を3海里から12海里へと拡張したが、対馬海峡、宗谷海峡、 津軽海峡、大隅海峡においては幅員を12海里へ拡張せず、もって自由通航が可能な「公海化」された特別の通航路を制定した。かくして、 米中ソなどの外国の核兵器搭載潜水艦も自由に潜航して通行し、軍用機も自由に飛行することができるという、世界でも稀有な制度 を導入してきた。「通過通航制度」が条約化され日本に適用された場合には、わが国の非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込 ませず)を堅持するので、領海を12海里へ拡張したままであれば、その原則に抵触することになる。そして、米国の核兵器搭載戦略 潜水艦による核抑止力を低下させかねない故である。

  さて、タンジール港と対岸のスペインの港町タリファとの間では近距離フェリーが運航されているようであった。その他バルセロナやマルセイユ の諸港とも定期船で結ばれているらしい。カスバから港をめざして迷路のような裏通りを下り、そのフェリーターミナルへと足を 踏み入れた。暫くターミナル待合室などをたむろしながら、海峡を渡ろうかどうしょうかと、この期に及んで迷いを生じさせて いた。ウロウロしながら、「この機会を逃すべきでない」と、思い切って海峡を横断することに意を決した。すぐその足で階下の旅行 代理店に駆け込み、いろいろ情報を得ながら、明日出航するフェリーのタンジール・タリファ往復切符を買い込んだ。 その夜は興奮して心穏やかにならず、待ち遠しくてかなかなか寝付けなかった。明日海峡を渡り切れば、自身の人生に何か一区切り でもつけられるかのうな気がした。

  翌日フェリーターミナルから大型フェリーに乗船し、海峡横断の旅人となった。対岸のスペイン最南端にある港町タリファに向かった。 タリファは「税率」を意味するスペイン語で、英語タリフの語源でもある。その日は生憎の雨模様で、しかも 風が強かった。大型フェリーは1万トン級であったので、強風を突いてぐんぐんと進んだ。一般客室から右舷側の甲板通路に出た。そして、 寒風が肌に突き刺さらぬようデッキの片隅に身を寄せ、雨混じりの強い寒風から身を護りながら海峡を眺め続けた。 風にあおられ波がぶつかり合い三角波となる。次の瞬間波の頂から白い飛沫が吹き飛ばされて行く。フェリーはそんな白波が立つ 海峡の海をものともせず突き進んだ。私は飽きもせずそんな海峡の荒々しい海をじっと見詰めていた。時折地中海から大西洋に出よう とする大型船とすれ違った。たったこれだけのことだが、船上人となってジブラルタル海峡横断というまたとない貴重な体験をする ことができた。これこそが胸中に永く秘めてきた海峡横断の旅であった。横断航海はわずか一時間ほどであったが、子どものように 船中でずっと感激を噛みしめていた。「これがジブラルタル海峡だ」と叫びたい衝動にかられる感激すらあった。

  フェリーは突き出た防波堤の隙間を通り抜け、急カーブを描きながらタリファに入港した。大勢のモロッコ人らの乗船客に混じって タリファに一端上陸し、入国の手続きを済ませ、小さな待合室に身を置いた。乗船客のほとんどはEU側での就労許可証をもつ モロッコ人であろうと想像した。EU諸国のどこかに居住し、その地へ戻るのであろうか。大勢が上陸して行った。 さて、陸(おか)に上がったのはせいぜい5分ほどであった。少しはタリファをゆっくり散策したかったが、日程上、すぐさま折り 返す他なかった。往復切符をもつ私は、パスポートコントロールで今度は入国審査を済ませた。そして、すぐさま乗船し直して、帰航の 途についた。15分もしないうちにフェリーは出港し、折り返し、再び海峡横断の人となった。

  そういえば、思い出したことがある。その折り返しのフェリーは確かにタンジールに直帰するのか、それともバルセローナや フランスのマルセイユ経由で戻るのか、一切確かめもせず再乗船してしまった。だが、幸いなことにフェリーは直帰航路を 進んでくれた。そうでなければ真っ青になるところであった。フェリー後部甲板に出て、タリファの港町が遠ざかる様を眺め 続けた。とにかく海峡を往復することができた。またとない良き経験となった。積年の夢が叶った記念すべき 日となった。「我、ジブラルタル海峡を見たり」。大袈裟であるが、一生のうち二度とこんな体験はできないという思いで感涙であった。

  さて、タンジールを後にして、ガイドに薦められるままに海岸沿いに移動し、「スパルテル岬」へ案内された。岬はタンジールの 西15㎞ほどの距離にあった。そこはアフリカの北西端にあたる。その岬にある高台から大西洋と地中海の境界域に当たる海峡水域を 別の角度から見下ろすことができた。海峡を隔てて、北方にイベリア半島が間近に眺望できる。米粒のように小さく見える船が、 現われてはすぐに消えゆく無数の白波が湧き立つ大西洋の荒れた海から海峡へと進み行く。海峡を通過して 今まさに大西洋の大海原へ突き進もうとする船もある。長い航海を終えようとしているのか、それを始めようというのか、多くの船乗り たちの思いを乗せて、海峡を通過して行く。その様を暫し眺めながら、再び感激に浸った。 高台の目と鼻の先には、モスクのミナレット(尖塔)のような美しい灯台が建っている。アフリカ大陸側の 海峡の入り口に立つこの灯台は1864年に初点灯されたという。

  岬を後にして、もう少しドライブしたところにある「ヘラクレスの洞穴(Grottes d'Hercules)」に案内された。巨大な洞窟内に入ると、 大きな岩の割れ目から光りが差し込み、大西洋の海水がわずかだが洞窟内に入り込んでいた。ガイドの言葉を信じて、「アフリカの地図」 を探し求めた。洞窟そのものも名勝らしいが、岩の裂け目がアフリカ大陸の形にそっくりだという。差し込むアングルによっては、 モロッコの位置に陽光が神々しく光り輝くという。

  洞窟からもう少し南下すると、海に臨む断崖のテラスに至った。崖っぷちを利用して幾層にもテラスが造作され、そこにカラフルな ビーチパラソル付きのテーブルが並べられたカフェテリアであった。その日は 穏やかな日和日で、テラスにはさんさんと陽光が差し込み、大西洋の大海原を眺めながら談笑し憩う大勢の人々で賑わっていた。我われも そこでモロッコ・カフェを味わいながら、暫し旅の疲れを癒した。

  さて、海峡地方を後にして一路内陸部の町マラケシュ(Marrakech)を目指した。ドライバーは上村専門家から指示されて いたのであろう、少し道をそれて私をアトラス山脈のはずれにある渓谷へと案内してくれた。 アトラス山脈の麓あたりの渓谷に分け入り、ごつごつとした岩肌むき出しの風景が続いた。渓谷内の道筋に沿って清い渓流が流れる。 専門家が設置したという洪水警報システムの対象地区へと足を踏み入れ、山中の美しい渓谷をしばし散策した。その後ハイウェイを一気に突っ 走って彼の有名なマラケシュへと急いだ。

  マラケシュと言えば、メディナ内にある「ジャマ・エル・フナ広場」が最大の観光地である。翌日、全国各地からやってくる 大道芸人で溢れるフナ広場に赴き、広場のあちこちで繰り広げられる大道芸人のいろいろな珍芸巧芸を横目に、露天商や屋台を ほっつき歩いた。歩き疲れては、広場の一角にあるカフェで一休みして寛いだ。カフェ2階にはオープンテラスがあり、広場を見下 ろしながら、モロッコ・カフェを味わった。広場では蟻が蜜に群がるように、数多の人々が集まり喧騒を繰り広げていた。 さて、一休みを終えた後気を取り直して、フナ広場の周囲にあるスークに踏み込むことにした。

  スーク内には迷路のような狭い路地が複雑怪奇に張り巡らされ、どこに辿り着くのか、迷子を覚悟の上でチャレンジした。 スーク内では数え切れないほどのいろいろな店がぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。そこを行き着く先も知らずにうろつき回り、 モロッコの異空間へのタイムスリップをたっぷり楽しんだ。その後は、マラケシュ市内や近郊にある霊廟やモスクなどの 名所史跡をお上りさんに徹して幾つか見て回った。彩り豊かに色付けされた女性の化粧用パウダーだけでなく、様々な民族衣装、民芸品 などに用いられるモロッコ独特の鮮やかな色使いを見て回り、大いに魅了された。かくして、マラケシュを朝から晩まで 一日中足が棒になるまでほっつき歩き、モロッコの民族風物詩的な被写体などをカメラ撮りした。

  さて、翌日はマラケシュの西100kmほどにある大西洋岸の漁業の町エッサワラ(Essaouira)に向かった。その道中、ガイドから 聞かされた話であるが、モロッコ南部にしか生育しないという「アルガンツリー」という樹木があり、エッサウィラ地方はこのツリーの 実から抽出される薬用・食用・化粧用アルガン・オイルで有名であり、それがこの辺りにたくさん生えているという。彼は道沿いに生える そのツリーを指差し教えてくれた。ところで、四足の山羊が器用にもその樹に高くまで登って実を食べるという。 そういえば、山羊が信じられないくらいの高さまで上手に樹に登っている写真をこの旅行中どこかで目にした。そのことを思い出しながら、 車窓を流れ去るアルガンツリーの土漠風景を目で追いかける自分がいた。

  エッサワラの旧市街地のメディナは、ポルトガル時代に建てられた城壁によって取り囲まれる。城壁の一方は大西洋に面する。メディナの すぐ傍には漁港があり、たくさんの沿岸小型漁船から魚が水揚げされ活気に溢れていた。他方内港では、数え切れないほどの 木造の零細沿岸漁業用手漕ぎボートがひしめき合うように係留される。そんな船溜りに出遭った時には、その美しい風景に思わず目が 奪われ、感嘆の声を上げてしまったくらいである。というのも、その無蓋の手漕ぎボートは、すべて色鮮やかなブルーで船体の内側 も外側も塗り込まれていた。だから、港内の水面が見えないほどに、あたかもブルーの花で埋めつくされたガーデンのように思える ほどであった。これこそがモロッコ漁港にみるユニークで伝統的な原風景に違いないと確信した。

  その先に進むと、そこは外洋に面した漁港で、小型の沿岸漁船や近海漁船がたくさん係留されていた。そして、岸壁に横付けされる トロール漁船からは、獲って来たばかりの新鮮なイワシなどの魚がトロ箱に入れられ、乗組員の手作業でもって船倉から陸揚げされていた。 岸壁に横付けされた他の多くの漁船は横列に相並びひしめき合って係留され、乗組員はさまざまな作業に追われていた。 中には、数百トンクラスの漁船が横付けされ、漁獲物を一杯に入れた木箱に氷を足し込みながら、次には何人もの手渡しスタイルで 埠頭に陸揚げしていた。乗組員総出によるそんな人力作業に汗を流す姿をたくさん活写した。すぐ近くの船の修理所では、船底に くっついた貝殻を除去するなどの船底掃除、漁船外板のペンキ塗り、その他船体の本格的なオーバーホールなどで、作業員が忙しく 立ち回っていた。岸壁をうろつき回りながら、絵になる被写体を見い出しては気の済むまで活写し続けた。

  その後、城塞を刳り抜くように築造された「海の門」をくぐり、埠頭エリアからメディナの中へと足を踏み入れ、そぞろ歩くこと にした。メディナ内の建物の外壁は真っ白に統一されていて実に美しい。チュニジアの地中海沿岸で見掛けた街風景を思い出させる。 「ムーレイ・エル・ハッサン広場」というメディナ内のプラサには、眩しいほどに陽光が降り注ぐ。白亜に統一される外壁に陽光が 照り返し一層眩しさを感じさせる。建物の窓という窓の外枠は、皆統一してブルーカラーに塗られる。カフェのオープンテラスには パステルカラーのビーチパラソルが林立する。まるでカンヌかニースの街角のカフェテリアに憩うかのような情景である。 海沿いにさらに進むと、魚介類の朝市が開かれ、テント下の陳列台には新鮮な魚やイカ・タコ・貝類などが並べられ、 自然と引き寄せられてしまう。屋台にはこんがり焼かれた鰯・イカ・貝類などのシーフードが並び、磯焼きの匂いが辺りに漂い、 食欲がそそられる。アラブ世界と地中海的世界が海辺で融合したかのような明るい雰囲気が広がる。

  メディナの北側は岩場の多い海岸に面し、その岸沿いに髙い城壁(1769年に時のスルタンが築造した)が築かれ、そこに大西洋の 荒波が打ち寄せる。その城壁の先のはずれには「スカラと北陵堡の展望台」という、見晴らし抜群の陵堡がある。 スカラ(Skala)とは、要塞の城壁の上部に見回りのために造られた構造物(砲床)のことである。見張り台でもある砲床は何と 200メートルも続いている。そこには、20~30の大砲が、海に向かって、数十メートル間隔で横列に配備され、海に睨みをきかせていた。 その大砲列の様はまさに壮観である。数多の海鳥が岩場の多い荒々しい海岸の上空を飛び交う自然風景と、スカラ上に並ぶ大砲列の 威圧的な風景は、異邦人の私には印象的で忘れがたいものとなった。その城壁のすぐの内側にある狭い通りは「スカラ通り」と称され、 古くから寄木細工を扱う多くの工房や民芸品ショップが軒を並べ、エッサワラの歴史と伝統文化を感じさせていた。

  その後、エッサワラから海岸沿いに北上し、ポルトガル支配時代の巨大な城塞に囲まれた旧市街地(メディナ)をもつ 「アル・ジャディーダ(El Jadida)」へ向かった。カサブランカの南90kmである。アル・ジャディーダは1502-1769年に、 ポルトガルの支配下にあった時代の都市であり、その面影を色濃く残している。海に面する城塞都市のジャディーダは、1514年に ポルトガル人によって創建され、1769年までポルトガル領土であった。その城塞の海側の一角には、海との連絡通路にする ために、その一部を刳り貫き、そこに斜路が設けられている。ポルトガル船が到着すると、その海門を通して物資などの搬出入 を行ったのであろう。今は門に鉄柵が施されている。ところで、メディナにはポルトガル時代の教会の地下に貯水槽が遺されている。 水攻めに備えて雨水を溜めておくために、1542年に地下貯水槽へと改造されたものである。城塞のうちの海に面する陵堡には 展望台があり、そこからの眺めには感動させられる。

  ところで、アル・ジャディーダの城塞のすぐ外側の空間に木造船を建造する大きなヤードがあった。城塞のうちの陵堡・歩廊 からその造船所を見下ろした。肋骨や梁、その他いろいろな形状の部材が、組み立て作業手順に合わせて適所に秩序だって並べられら れていた。その組み立て作業を飽きもせず興味津々に鳥瞰することができた。そんな時のこと、その陵堡の展望台近くで、二人の自信 あり気の少年に出会った。ゼスチャーでもって「ここからダイブするので写真を撮れ」という。二人はほぼ同時にその陵堡から 直下の濠(モーと)へと飛び込んだ。高さ10メートルはあった。彼らの元気、逞しさ、勇気に旅を続けるエネルギーをもらった。

  その後、陵堡から下りて、造船所の傍らを通って、港内へと歩を進めた。港の埠頭で一軒のレストランを見つけ、ランチにあり付こうと 立ち寄った。そこで偶然に額入り写真を見つけた。ノルウェーのヘイエルダールが「ラーII号」で大西洋を横断する航海途上にこの 港に立ち寄ったようである。その時に撮影されたと見られる写真が壁面に飾られていた。クルー全員の集合写真のようであった。 そこに一人の日本人らしきクルーも写っていた。「ラーII号」の写真だとはっきりと認識したのは、帰国後かなり経ってからである。 同号の航海には、志願して参加した一人の日本人がいたことを知った。そして、改めてその写真を見直し、 そこに日本人一人の画像を読み取った。遅まきながらラーII号の写真に間違いないと確信した。

  さて再び北上を続け、エッサウィラから70kmほどにある「サフィ」という城塞の町を通過した。サフィは、アル・ジャディーダと同じく、 16世紀初期にポルトガル人による支配を受けた。だが、ポルトガル人が住みついたのは短期間であったという。 サフィのメディナは、「ウム・エル・ルビア川」という川岸に形成された自然の髙い擁壁や土手を利用して築かれていた。 現在では、鰯缶詰め工場や化学工場が立地し、陶器製造も営まれる工業都市である。カサブランカの南のはずれにある「アズムール地区」までは、 あとわずか17㎞の距離にあった。

  かくして、最終帰着点であるカサブランカ(Casablanca)に帰還した。折角の機会と思い、カサブランカ漁港の埠頭にも立ち寄った。 古くは12世紀のムワッヒド朝時代にはアラブ人海賊の拠点であり、貿易港としても発展していた。 古いモロッコ伝統文化と近代的文化とがミックスした都会であり、いわばそのアンバランスが見ものとされる。港には大型貨物船、 客船などが頻繁に出入りし停泊するアフリカ最大級の貿易港である。漁港にはトロール漁船などが居並んでいた。近くには卸売魚市場 があり、またシーフードレストランも居並ぶが、市場の活動ピークはとっくに過ぎていた。最後に、市街西方に位置する「ハッサン2世 モスク」に立ち寄った。ミナレットの高さは200メートルもあり世界最高とされる。大西洋に突き出た地に建つ2世モスクは、 さしずめ海の上に建つ荘厳なモスクの様相を呈している。

  その昔「君の瞳に乾杯!」という名台詞が語られたという有名な映画「カサブランカ」があった。ハンフリー・ボガードとイグリッド・バーグマン(2015年生誕100年)らが主演した 1942年の映画である。話しの種にと、映画の舞台になったホテルのバーを夕刻に訪ねた。バーの場所はそこだが、バーはすっかり衣替えされ、 往年の面影の欠片もなかった。後で、「リックス・カフェ(Rick's Café)」がメディナのいずれかにあることまでは情報に辿り着いた。 だが、それが映画舞台を復元したバーなのか否かは定かではない。後で聞いた話だが、 バーの舞台セットはアメリカ国内に設置されていたらしい。高い飲み代を払いながら得るものなしで、がっかりしてバーを後にした。

  バーでの高い飲み代以外は、モロッコの旅は実り多いものとなった。イスラム文化圏に属するといえども、モロッコはサウジ アラビアに比べれば、表面的には丸で普通の国そのものであり、何の違和感もなく普通の国と同じように快適に旅することができた。 異邦人としての私にとって、心にぐさっと突きさってくるような「異文化」を一度も体験しなかった。 サウジでの禁欲的生活から解放され大いに骨休めとなり、大量の酸素を補給することができた。これから本帰国するまでの半年は、 酸欠にならずにサウジ生活を続けられそうである。だが、二日後にはリヤド生活に戻ると思うと、思わず溜め息が出てしまった。

  さて、カイロから初めてモロッコに降り立ち、海峡の町タンジールを訪れたが、マルコ・ポーロに匹敵する中世の大旅行家である イブン・バットゥータの出身地は、何とそのタンジールであったことを知った。そこで最後に彼について一言触れたい。 イブン・バットゥータ(英語名: ibn Battuta;‎ 1304 - 1368年)は、港町タンジール生まれのイスラム法官であった。 アラブ語での正式名はかなり長いものなので省略するとして、「ibn-」とは「息子 (英語: son)」という意味である。 彼は、イタリア・ベニス出身のマルコ・ポーロと並ぶ中世の大旅行家でありながら、ポーロよりはずっと知られていない。

   1325-1346年の21年間の彼の旅の行程は概略以下のようなものであった。マーリン朝時代 (1196‐1465年) にあったモロッコを出発し、 北アフリカの沿岸を経てエジプト、シリアへ向かった。アラビア半島紅海寄りにあるイスラム教の聖地メッカへ (これらのいずれの地も、 当時エジプト・マムルーク朝 (1250-1517年) の版図下にあった)。その後アラビア半島を横断し、当時イル=ハン国 (1258-1353年) の版図下にあった現在のイラク、イランを巡遊した後、メッカに戻り、そこに1330年まで滞在した。

  次いで、アラビア半島南西部にあるイエメンのアデンを経て、東アフリカ海岸の沿岸諸都市モガディシュ、モンバサ、 ザンジバルへ旅した。その後アラビア半島のオマーンへ。ペルシャ湾岸に至りアラビア半島を縦断し、再びメッカへ至った。 その後、小アジア (アナトリア地域) を経て、黒海沿岸を巡遊した。コンスタンティノーブルをも訪ねた。更に、 現在の南ロシアと中央アジア地域 (これらは当時キプチャク=ハン国 (1243-1502年)、イル=ハン国 (1258-1353年)、 チャガタイ=ハン国 (1307年-16世紀) などの版図下にあった)を経て、現在のパキスタン・インド北部へと巡遊した。 1340年までの8年間、インド(当時トゥグルグ朝の版図下にあった)のデリーで法官となった。

  更に、インド西海岸を南下して、インド洋にあるモルディブへ渡海した後、1年近く滞在した。その後、東南アジア沿岸を航海し、 中国の泉州・杭州 (臨安) を経て、大都 (現在の北京) に至った。再び泉州から海路にて南シナ海、インド洋を横切り、イランや イラクを経てメッカに立ち寄った後、モロッコに帰還した。 1349-1354年の5年間の旅に関して言えば、イブン・バットゥータは、モロッコからまずイベリア半島アンダルシア地方を旅した後、 モロッコに戻り、マリーン朝の都フェズから南下し、アトラス山脈を越えてサハラ砂漠へと足を踏み入れた。大砂漠を縦断し、 現在のアルジェリア、マリ、ニジェールなどを巡遊して、1354年にフェズに帰還した。

  かくして、25年にわたって、アフリカ・アジア・ヨーロッパのイスラム世界の境域を旅したイブン・バットゥータは、 マリーン朝スルタンのアブー・イナーン・ファーリスの命を受けて、イブン・ジュザイーの口述筆記をもって、1355年に 「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」と題する大旅行記(通称、「リフラ(Rihla)」)を著した。 彼の遺体は故郷のタンジールに埋葬された。


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    第13-2章 究極の異文化の国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第2節 モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する


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      第1節: エジプト・ナイル川で戯れ、スエズ運河で昔の夢を想う
      第2節: モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する
      第3節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(1)/ストックホルム、オスロ
      第4節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第5節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する

      序章~第12章 | 第13章  第14章 | 第15章~最終章