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    第13-2章 究極の異文化の国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第3節 バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(1)/ストックホルム、オスロ、ベルゲン


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      第1節: エジプト・ナイル川で戯れ、スエズ運河で昔の夢を想う
      第2節: モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する
      第3節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(1)/ストックホルム、オスロ
      第4節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第5節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する

      序章~第12章 | 第13章  第14章 | 第15章~最終章




    前節でエジプト・ナイル川での船遊びやスエズ運河探訪、モロッコ・ジブラルタル海峡横断などのことを綴った。だが、実は 時系列的にみれば、時計回りのエジプト・モロッコへの旅よりも、北欧への旅の方が先であった。ジプチ、エリトリア、スーダン などへの渡航を諦めて、ずっと遠くへ大回りすることにして、2005年9月に、バイキングの故郷・北欧へと旅した。それにはシンプルな 理由があった。健康管理を目的とする長期休暇を取得できる機会が巡って来たからである。それは一か月近くの休暇一時帰国 の権利とほぼイコールであった。そんな権利をアラビア半島近辺で過ごしたくはなかった。やはり、イスラムやアラブ世界から 全く離れたところで、頭から足先までフルにリフレッシュしたかったというのが本音であった。かくして、その権利を行使して、 帰国に換えてどこか旅に出るとすれば何処か。時計回りの旅先として、北欧諸国に針路を定めることを思い付いた。

  日本への休暇一時帰国を選択せず、その代わりに日本に残している家族を北欧に呼び寄せ、未だ見たことのないスカンジナビア 諸国を旅することにした。日本残留の家族は当初は、北欧での物価が高く旅行費がかさむと、経済的観点から二の足を踏んでいた。 最後のダメ押しのメールを送ったら、遅れ遅れながら「北欧で落ち合うことにする」という返事が来て、大いに喜んだ。家族の都合や遣り 繰りがいろいろあってのことであった。確かに出費を考えれば痛かったが、何十年も前から一度は、森と湖、フィヨルドの海や氷河 など自然が豊かで、またバイキング船を観ることができるスカンジナビア諸国をじっくり旅したかった。また、バイキングの 子孫たちが、高額税負担とはいえ、高レベルの福祉を享受し「裕福に」暮らすところをこの目で拝見してみたいと思っていた。 1974-75年の米国留学時に、ホストファミリーをデンマーク人の兄貴分とシェアしていたし、ノルウェー人家族とスキーツアーに 参加したりで、バイキングの子孫に親しみを抱いていたことも旅先決定に影響したのであろう。

  家族3人とはスェーデンのストックホルムで落ち合うことにした。最初に足を踏み入れたスウェーデンは勿論のこと、ノルウェー もデンマークも海と湖と森に囲まれた、羨ましいほどに自然豊かな地であった。どの都市の街並みも洗練され、また地方の田園は 落ち着きがあり牧歌的であった。周遊したスカンジナビアの地で見たどの風景も、絵葉書にしたいような美しさに満ち溢れていた。 心が洗われるようであった。ところで、旅ではいつもそうだが、出来る限り自分たち自身の足で歩き回った。町を歩き回れば、その分 街中の風景や人々が暮らす生活事情をよく観察でき、眼底の網膜というフィルムに焼き付けることができる。 今回は久々に家族4人が多くの共通体験を積み重ねることになった。サウジアラビアを2005年9月10日に出発し、ストックホルムのホステル のような簡易宿泊所で落ち合った後、同月28日までの2週間ほど旅して回った。

  投宿先は相部屋で、2段式の蚕棚のベッドが幾つか並んでいた。もちろん共同のトイレ・シャワーのユースホステル風であった。 我われにはそれで十分であった。それに9月半ば近くだったこともあり、どこかしこも観光客で込み合うということもなく、 至ってゆったり目であった。この時期を選んだのが正解であった。サマーバケーション客で溢れ返り、ストレスをため込みうんざりする ようなことはほとんどなく、どこを訪ねてもゆったりとできたのが最高に良かった。朝から晩まで外をほっつき歩き、夜は投宿先で 寝るためだけに過ごすことがほとんどであったので、雨をしのげる屋根と身体を休めるベッドさえあれば、何の不自由もなかった。我々の いつもの旅のスタイルというか、流儀であった。要するに節約精神が旺盛というか、「倹約症」を友にするという旅癖が染着いていた。 贅沢せず、貪欲に外の世界を観て回ることに最高の幸せを感じていた。だが、時には思い切って美味しい料理を食し、贅沢な瞬間を過ごすことは 忘れなかった。画家兼イラストレーターであった長女が26歳、大学生であった次女が21歳の時で、私は57歳で、帰国すれば役職定年が待ち受けていた。

  さて、ストックホルムの街を歩き回った。現在も使われている王宮がそびえ立つ「リッダーホルメン島」には、中世の街並みが色濃く 残る「ガムラ・スタン(Gamla Stan)」と呼ばれる旧市街地区があって、そこを縦横にそぞろ歩いた。ファッション、宝飾品、お土産・ 民芸品などのショップが軒を連ねる、ガムラ・スタンへ通じる賑やかな狭い通りをウインドーショッピングしながら辿った。 世界で最も狭い通りとされる。そこを辿り行くと「鉄の広場」に出た。広場に面して「ノーベル博物館」が建っていた。 また、王宮の前辺りから続いている、距離にして1キロメートルほど続くウォーターフロントをたむろした。 対岸には都会のオアシスと称される有名な「ユールゴーデン島(Djurga0rden)」が浮かび、両島との間をフェリーが行き来する。

  ウォーターフロントの岸壁には、「ナジャデン号」という3本マストの小型クルージング帆船などが停泊していた。岸壁 散歩で最も感動したのは、完全に復元されたバイキング船であった。想像上の動物であろうが、 龍のような頭をもつ動物の船首飾りで装飾されている。また、船側外板は鎧張り方式で張り合わされていて、その美しさに魅了された。このような 復元船にお目にかかったのは二度目である。初めてのそれは、JR青森駅からさほど遠くないところの海岸沿いにある「みちのく北方漁船 博物館」であった。陸揚げされて展示されるバイキング船の鎧張りを見上げながら、その美しさに感嘆したことを思い出す。 さてその後、ノーベル賞受賞者のための晩さん会が開かれるというストックホルム市庁舎を訪ねた。そして、お上りさんになって、 庁舎の釣り鐘塔の頂上まで登り切り、ストックホルムの美しい入り江、湖と森、街並みを周囲360度俯瞰し、思い出づくりに励んだ。

  「リッダーホルメン島」のすぐの眼前に浮かぶ「シェップスホルメン島(Skeppsbrokajen)」を散策した。古い鉄橋一本で本土側と 繋がり、島の様には見えなかった。五つ星ランクの荘厳な「グランド・ホテル」前に、インナーハーバー遊覧観光船の発着場がある。 9月中旬の今でこそ観光客は少ないが、盛夏には大勢の人々でごった返していたはずである。その船着き場を横目に、王冠が欄干に 飾り付けられている鉄橋を渡って、シェップスホルメン島へ足を踏み入れた。同島の岸壁には、3本マストのシップ型大型帆船が 投錨し横付けとなっていて、それを間近に見るためであった。帆船は「アフ・チャップマン号(Af Chapman)」といい、1887年に 建造された海軍練習船であった。遠洋航海訓練などに使われていたが、現在は退役しユースホステルとして活用されているという。

  リッダーホルメン島からフェリーで「スカンセン」という広大な面積を誇る緑豊かな自然公園のある「ユールゴーデン島」へ家族4人 で出かけた。「チボリ遊園地」のゲートに近い桟橋で下船し、その足で「ヴァーサ号博物館(Wasavarvet)」を目指した。戦艦 ヴァーサ号は現存する世界最古の戦艦であり、それも完全な船型を留める艦船である。1625年に「グスタフ2世アドルフ国王」が オランダ人の造船技師の「ヘンリック・ハイベルトソン」に設計を依頼し建造を始め、1628年に竣工をみた戦列艦であった。 当時のヨーロッパは「30年戦争」の渦中にあり、国王は海軍力の増強のため、多数の一級戦列艦を建造させていた。「ヴァーサ号」 はこの中の最右翼的な戦列艦で、全長70m、高さ50m、最大幅9.7mの堂々たる木造戦艦であった。145人の乗組員と大型大砲64門を 搭載した、当時としては最強の軍艦といえるものであった。

  同艦は1628年年8月10日に、王宮近くの埠頭からスウェーデン海軍の誇りと名誉を担って処女航海に出た。だが、まだストックホルム港内 に留まっている間のこと、突風に煽られて沈没してしまった。そこは水深32メートルの海であったという。設計上のミスがあったのか、 バラストの積載量が不足していたのか、あるいは艤装上の理由として大砲の積み過ぎも沈没の一つの要因であったのか。 建造途中に国王が艤装や装備などに無理な追加注文を出したため、船のバランスが崩れ不安定になっていたとも評されてきた。 いずれにもせよ、正確な原因がずっと長く不明なままに、海底に眠ったまま時を経てきた。

  1956年になって「ヴァーサ号」はストックホルム湾で発見され、1961年4月に、333年間も海底にあった船体がついに水面上へ 引き揚げられた。海底での保存状態は比較的に良かったとされる。海底に埋没していたところからの発掘であるが故に、急激な 乾燥化や腐蝕を防止するために、化学的な処理がなされた。また、無数に組み合わされた木片や飾り釘の取り換えなど、 多くの復元作業が行われた。沈埋環境を急激に変えることなく、また海中・海底の状態に 少しでも近づけて保全するために、博物館内は薄暗く、かつ湿度を非常に高く保たれている。館内では日本の梅雨時期の湿度である 70%以上のそれが保たれているという。そのため館内はじめじめした状態であり、あたかも熱帯高温多湿ジャングルにいきなり閉じ込められた ようで不快感を感じるのは避けられない。現在では、海底の眠りから蘇って400年近い時が流れており、その歴史的人工遺物の 荘厳さをひしひしと感じさせる。完全な姿に修復されて現代に蘇った同艦は、海に浮かぶ巨大な「お城」のような圧巻の存在である。 現存する世界最古の木造戦艦であり、今や人類の共同遺産である。

  「ヴァーサ号」の主要目にふれておくと、全長は62メートル、最大幅員は約12メートル、マスト最上部までの高さは50メートル、 排水量は1,300トン、帆面積は1,200平方メートル、乗組員は437名とされる。彫刻が船全体に180も施されていた。特に船尾回廊の周縁部 においては、壮麗な木彫がすべて金色に塗られ、その荘厳さに目を奪われる。館内には10分の1の縮尺の同艦の精巧な大型模型の他、 同艦の装備、器具、船員服などが展示される。引き揚げ状況を示すジオラマ風の模型、艦内から発掘された遺品なども陳列される。 余談だが、同博物館のすぐ近くに「水族館(Aquaria)」も所在するが、閉館の時間が迫り入館することができなかった。

  さて、「ヴァーサ博物館」前から遊覧船に再乗船して、湾内遊覧を続けた。巡遊船は、欄干に王冠が付けられた例の陸橋の下をくぐり、 「ストラバゲン(Strandvagen)通り」沿いに進航した。そして、やがて「国立海洋博物館」を左舷に見ながら「ユールゴーデン島」を 大きく周回し、さらに「ガムラ・スタン」のウォーターフロントを左手に見て、元の遊覧観光船発着場へと戻った。 「海洋博物館」については、船上から同館を拝んだだけで結局訪問の機会を逃してしまった。折角その存在を知ったのであるからして、 何とか工面をつけて訪問すべきであった。だが、どういう訳か下船後にそのことをすっかり忘れてしまい訪問の機会を逸してしまった。 私的には珍しく、そのことを機会あるごとに思い出しては悔やむほどである。見逃した理由は未だ判然としない。翌日がノルウェーへの 移動日であったため、時間も気持ちの余裕もなく、そのまま忘れてしまったに違いなかった。残念至極であった。

  余談だが、クルーズの帰途、「ユールゴーデン島」の岸に係留される、船体が赤一色に塗られた灯台船を視認した。 生まれて初めて実物の灯台船なるものを目に焼き付けた。数十年前のある週刊誌のグラビアページで紹介されていたが、まさにその灯台船 に違いなかった。同船がストックホルムの湾内に未だ係留されていることを知るに至り、嬉し限りであった。

  さて、長距離国際路線バスでノルウェーの首都オスロをめざした。距離にして500kmほどで、ドライブは快適そのもののであった。 森と湖、牧草地や畑の丘陵地が織りなす自然豊かな田園風景が延々と続いた。牧草地には刈り取って輪状にした巨大な牧草ロールが たくさん転がっていた。車窓を流れる街道筋の田園風景は何処を切り撮っても絵になりそう美しいものであった。それを全く飽きる ことなく道中ずっと眺め続けていた。そんな道中において、ふとある気になることを思い出してしまった。 街道筋で眺め続けた緑豊かなスウェーデンの田園風景と、サウジアラビアでの500kmに及ぶ砂漠横断鉄道で眺め続けた荒涼とした緑のない 土漠風景との間にある、自然環境の余りの落差であった。今更ながらのことであったが、改めて思い出させられた。 国家や民族集団がそれぞれに生存基盤とする領土や国土、自然環境の違いの一端をまざまざと見せつけられた。国家や民族はそんな 違いを一歩一歩克服していかざるをえないといえよう。

  自然の恵みの違いを何と考えればいいのだろうか。ほとんどの大地が砂漠に覆われ、水資源を化石水の汲み上げや海水淡水化に 頼るサウジアラビア、片や緑豊かで広大な森や丘陵地帯、その間に点在する湖を擁し、水資源も豊富であるスウェーデン。 どちらが住みやすく、国民は幸福を感じるであろうか。単純で個人的な主観による比較に過ぎないが、私的には多様な自然に恵まれた 日本に生まれたことに幸福さに感じる。とはいえ、明治以来、国土だけでなく周辺の大陸棚海域のいずれを掘削しても、まともな 石油・天然ガス資源にも、またその他の鉱物資源にも恵まれない資源小国の日本である。いずれの諸国もそれぞれに優位性を生かし、 資源や自然環境などのハンディキャップを乗り越え豊かになろうと努力してきた。その結果としての、今の世界がある。選べるなら サウジアラビア、スウェーデン、それとも日本か。そんな他愛もないことを想い描きながら、車窓を流れる風景を見つめながら、 ノルウェーの首都オスロを目指した。

  ストックホルムでも同じであったが、オスロでも市街地中心部やウォーターフロントなどを先ずは歩き回り、散策することで、 土地勘を養うことにした。王宮公園を通って王宮へ、国立美術館や国会議事堂の傍を通って、最も賑やかな目抜き通りである 「カール・ヨハン通り」へ、何となくその道なりに沿いつつ、成り行きまかせでそぞろ歩いた。さらに海の見える港を目指して歩いた 先に市庁舎前広場、そして港があった。ウォーターフロントにはストックホルムとはまた違った海や港風景があった。早速被写体を 求めて桟橋や埠頭をたむろし、海と船風景を切り撮るモードへとスウィッチを入れた。桟橋や埠頭の岸壁には、沿岸警備艇、観光遊覧 用大型帆船や湾内周遊船、漁船などいろいろな艦船が舷を寄せ合って停泊していた。「一枚の特選フォト・海&船」を切り撮りたいと、 何のはばかりもなく桟橋から桟橋へとホッピングして回った。

  翌日改めてウォーターフロントに舞い戻り、市庁舎前のフェリー発着場から、眼前に見える小半島にある「ビグドイ地区(Bygdøy)」 へと渡った。同地区にはいろいろな海洋歴史文化施設が集まり、そのコンプレックス(複合体)を形成している。訪問したい海洋博物館 などが多くあって、結局2度通うことになった。同地区の桟橋で下船し2kmほど歩くと、早速「バイキング博物館(Vikingskipshuset)」 に辿り着いた。海岸沿いにもう少し歩くと、ノルウェーの有名な学者トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)の南太平洋横断 実験船である、バルサ材で造られた「コンチキ号(Kon-Tiki)」を展示する博物館がある。同じ館内には、パピルスの船「ラーII世号 (Ra II)」も展示されている。また、「ノルウェー海洋博物館(Norsk Sjofartsmuseum)」や、陸揚げされて屋外展示されて いる北極・南極探検船「フラム号」の博物館など、海洋文化遺産が一堂にこの地区に集積されている。私的には、夢のような 「海と船の大テーマパーク」がそこにあった。長い間探訪したいと夢見ていた海洋歴史文化コンプレックスであった。 パーク敷地から突き出たフェリー発着用板張り桟橋の係柱柱には、何隻かの小型帆船などが展示用として繋がれている。

  話しは少し戻るが、フェリーから下船後真っ先に「バイキング船博物館」にわくわくしながら足を踏み入れた。 オスロ・フィヨルドで発見され、海底から引き揚げられた3隻のバイキング船が展示される。発掘された外板を頑丈な船形鉄枠に 丁寧に張りつけて復元されている。ほぼ原形を留めるものもあるが、ほとんど留めないものなどいろいろである。 1904年に発掘された「オーセバルグ号(Oseberg)」、AD9世紀に建造された「ゴークスタック号(Gikstad)」、さらに 「トゥーネ号」が公開される。船名はいずれも発掘場所に由来している。

  オーセバルグ号は、AD9世紀初期に建造されたもので、35人の漕手と帆によって進航したもの。AD800年代に50年間ほど使用 された女王の船とされるが、彼女の死後に墓として遺体と共に埋葬のため使用された。「ゴークスタック号」の吃水線は極端に低く、 漕手32人で漕ぎ進む快速船であり、これも埋葬用に使用された。 「トゥーネ号」は9世紀に建造されたもので、その底部のみがかろうじて残存していたところを1867年に発掘された。 デンマークのロスキレ(コペンハーゲン近郊)にある「バイキング博物館」でもほぼ同じようなスタイルでバイキング船が復元され 展示されていることを思い出した。

  「コンチキ号博物館(Kon-Tiki Museet)」について少し触れておきたい。トール・ヘイエルダールは、人類の文化 移動に関しいろいろな仮説を打ち立て、その実証のために壮大な航海実験を行なったことで知られてきた。有史以前に中南米の インディオが筏を組んで太平洋上のポリネシアへ渡海し、その後に他島嶼へと文化が移動・拡大して行ったという仮説を実証するため、 彼と5人の仲間が乗員となって、1947年にペルーからポリネシアまで約8,000kmを101日間かけて漂流した。 同博物館では、その実験航海に使用された、バルサ材の原木で作られた筏船の「コンチキ号」が公開されている。

  また、古代エジプトから南米大陸への文化移動の仮説を実証のため、1969年「ラー I 世号」(「ラー」とは太陽のこと意味する)でもってモロッコから南米へと漂流した。 5,000km漂流した後に、ハリケーンに襲われ沈没するに至った。しかし、翌年の1970年に再度漂流実験に乗り出した。8国から8人が57日間、 6,100kmを漂流した。乗員として日本人カメラマンの大原氏が参加した。

  実は、前章で既に触れたが、2007年4月にモロッコの大西洋岸の漁港町エッサワラを旅した時のこと、漁港埠頭沿いのあるレストランに に立ち寄った折、その室内壁面に船乗りのような男たちのが写る一枚の古い記念写真が飾られていた。説明書きはなかったが、 恐らく「ラー号」がこの港に立ち寄り、記念に集合写真が撮影されたものと推察した。そして、その中に一人の日本人らしき男性が 写っていることに気付いた。後にそれが大西洋を横断したパピルス船「ラー号」(I世号かII世号であったかは不詳)に乗り組んでいた大原氏 であることを知った。

  「フラム号博物館(Framhuset)」についても少し触れたい。極地探検家ナンセン(Nansen)が、1893年から北極海流の研究のため、 3年にわたって北極を探検した。その時に使用した「フラム号」の実物が屋外展示されている。ナンセン指揮下で大西洋の北極圏域を 北上し続けた結果、最後は北極の氷原に2年間も閉じ込められた。しかし、設計された通り、船は氷に押しつぶされることなく 氷の上に浮き上がり、無事オスロに帰還することができた。「フラム号」は全長39メートル、満載積載重量が800トンのずんぐりむっくりの 壺形の船である。

  「フラム号」は後にノルウェーの探検家ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen; 1872年 - 1928年)に譲渡され、 1912年に彼が世界で初めて南極点に到達した際に使用された。アムンゼンは1910年8月に出港し、英国スコット隊と死闘の末に、 1911年12月14日に南極点到達への一番乗りを果たした(日本では「ロアルト・アムンセン」、「ロアルド・アムンゼン」とも表記される)。 アムンゼンは当時、英国海軍大佐ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott; 1868年-1912年3月29日)の探検隊と 人類初の南極点到達を競い合っていた。スコット隊は翌年の1912年1月18日に南極点に到達したが、帰路に遭難し全員が死亡するという痛ましい 大惨事に見舞われてしまった。

  さて、ナンセン指揮下の「フラム号」は、当時の海氷事情などに鑑みて、南極点に到達後南極のクジラ湾を1912年1月31日に 慌ただしく出港した。その時「フラム号」の隣には、何と、白瀬矗(なお)中尉が率いる日本の探検船「開南丸」(204トン)が停泊していた。 人類最初の南極点到達を目指した白瀬隊は、その到達を途中断念し引き返していた。さて、「フラム号」の出港に触発され、 「開南丸」も翌日にはソリを曳く犬を収容する余裕もなく同地を離れた。20分遅ければ船は氷に押しつぶされていたと言われるほど、 ことは切羽詰まっていたという。このように、白瀬らは、ロス棚氷(クジラ湾)にて、南極点への人類初の到達から帰還してきた アムンセン探検隊を収容するためにクジラ湾に来航していた「フラム号」と遭遇していた。なお、白瀬隊は1912年 (明治45年)、南極 大陸の南緯80度5分・西経165度37分の地点まで到達し、その一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名付けた。

  さて最後に、「ノルウェー海洋博物館(Norsk Sjofartsmuseum)」と「沿岸博物館(Coastal Museum)」を見学した。前者は立派な 近代的総合海洋博物館である。客船「Adventure of the Seas」などの数多くの船模型をはじめ、船首像、航海用具、海と船の 絵画、実物の小型木造ボートなどが展示される。「沿岸博物館」では、ノルウェーの沿岸漁業の歴史・文化の紹介をはじめ、実物の 小型漁船や漁労ボート、漁具などが陳列される。かくして、一日では展示品の画像などを切り撮り、その説明書きをメモし切れず、 翌日も喜々として出かけた次第である。

  かくして、翌日オスロから列車でベルゲンへと向かった。ベルゲンは政治都市オスロよりはるかに海洋開発や漁業に関わり合いのある 商工業都市であり、昔ハンザ同盟の主要拠点として歴史ある港町でもあった。一生のうち一度は必ず探訪したいと想うほど一種の憧れを 抱いていた。遠足を翌日に控えた子どものように興奮を胸に閉じ込めて眠りに就いた。



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