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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第6節 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


      序章~第9章 | 第13章 第15章 | 第16章~最終章


  ベラクルスには、歴史上有名な英国人海賊フランシス・ドレークにまつわるエピソードがあることを、その探訪のずっと後になって知った。 ベラクルスのランドマークである「サン・ファン・デ・ウルア」、すなわちベラクルス港を舞台にしたものである。彼は、そのウルアで体験を余儀なく させられた強襲事件が深く心に摺り込まれ、「ウルアでの恨みを忘れるな!」と、いつも心に刻みつけ、そのことを公言もしていた。 ベラクルスを探訪する前にこの出来事の仔細を知っていたとすれば、港の対面の目と鼻の地先にあるウルア要塞の巡覧は、何倍も面白く楽しいもの になっていたに違いない。

  海賊ドレークとベラクルス、ウルア要塞との関わりについての余談をいざ始めたいが、興味をもてそうにない方は次章次節にお進み いただきたい。彼は数々の海賊行為や海上戦闘の「功績」、さらに世界周航の偉業などから、英国エリザベス女王よりナイトの称号を授けられ、 「サー・フランシス・ドレーク」と呼ばれた。他方、彼の異名はエル・ドラコまたはエル・ドラゴであった。英国南西部のデボン州に生まれたが、 1540年の2月か3月生まれのいずれなのか、あるいは1543年生まれなのか、はっきりしないという。だが、没したのは1596年1月28日であった。

  先ず、英国人で奴隷貿易に深く手を染めていた商人のホーキンズのことから始める。英国人ウィリアム・ホーキンズの次男ジョン・ ホーキンズらは、1562年に3隻の船団で英国南西部に突き出るコーンウォール半島にあるプリモスを出港した。西アフリカで奴隷を仕入れた後に、カリブ海のエスパニョーラ島 にて奴隷を高値で売ることに成功した。2年後の1564年にも同様の航海をした。そして、1567年に3回目の航海を計画した時には、エリザベス女王自身も その航海への出資者の一人として名を連ねた。もちろん、奴隷貿易にまつわる出資であることなど公にできる話ではなかったが、 とにかく奴隷を「新大陸」で売りつける商売は成功し、出資者はあまねくそれなりの富の分配に預かった。

  その昔、エリザベス女王は、海賊たちに私掠免状を付与し、内々に自らも私掠船団への出資者となっていた。当時のスーパーパワーであったスペインの「新大陸」 における植民地やその交易船などから強奪することを容認していた。そして、その出資額に応じて海賊行為からの莫大な配当金を得ていた。 それらの配当金は、英国国家財政を大きく支え続けていたことは有名な話である。英国が「海賊国家」と烙印される所以でもある。

  さて、商売に成功したホーキンズやドレークらは、カリブ海から本国への帰途にフロリダ沖で嵐に遭遇し、船が損傷し、やむなく補修のため メキシコへ向かうことになった。1568年9月、彼らはヌエバ・エスパーニャ副王領のサン・ファン・デ・ウルアに入港した。ベラクルス港のことである。 ベラクルスの町は本土側にあったが、要塞がそのすぐ対面のサン・ファン・デ・ウルア島に築かれ、堅牢化が重ねられていた。 現在でもその要塞が遺る。

  さて、ドレークの略年表の時間軸をもう少し遡ってひも解くと、1558年以降に、英国の海賊がホンジュラス、ニカラグアなどの中米地峡のカリブ海 沿岸に出没を始めていた。ドレークも、20歳代中頃、親戚筋にあたるジョン・ホーキンズが指揮する船団に仲間入りし、彼の下で奴隷の密貿易に従事するようになった。 既述の通り、西アフリカで奴隷を安く調達し、「新大陸」の入植地で生計を営むスペイン人に高く売りつけた。彼はその後、船を自ら調達し船長となった うえで、ホーキンズの船団に参加していた。 そして、ドレークは、既に1570年以降には、カリブ海・西インド諸島とスペインを行き来するスペイン・ガレオン船やスペイン植民地の町を略奪する 海賊行為を始めていた。

  ドレークは、中米地峡のカリブ海沿いの街ノンブレ・デ・ディオス (現在のパナマのカリブ海沿いで、ポルトガル語でポルトベロ、 スペイン語でプエルトベージョという交易港市の少し東側に位置する) を襲撃する途上において、1572年にニカラグアのサン・ファン川に侵入したとされる。 サン・ファン川はニカラグア湖から流れ出てカリブ海に通じる唯一の河川で、湖の最奥にはグラナダと言うスペイン人が築いた町があった。 彼がどう侵入したかの史実が分かれば後日綴るとして、1573年のノオブレ・デ・ディオス襲撃で5万ポンド以上の銀を略奪したという。

  余談だが、英国人海賊のヘンリー・モーガンは、1655年の20歳過ぎの頃、メキシコのカンペチェ湾、またホンジュラスやニカラグアなどの沿岸で海賊 行為を働いていた。そして、先住民のインディオからニカラグアのグラナダの繁栄ぶりを聞き及んでいたモーガンは、1665年には、全長190kmほどのサン・ ファン川を一週間かけて遡上し、5日間かけてニカラグア湖北西端へと縦断し、湖畔にあるグラナダの町を3日間 にわたり略奪し焼き打ちにした。その戦利品・分捕り品として略奪した財は、50万ポンド貨であった。

  休題閑話。話しは戻って、1568年9月ドレークらは船の修理のためウルア港に入港した。だが、その数日後にスペイン本国との間を定期往来する船団がウルア港に到着した頃から、 ドレークらが進めていた船舶修理交渉の雲行きが怪しくなった。そして、突然スペイン側から奇襲襲撃を喰らった。ドレークらは1隻を失い、 残る2隻で辛くも港から脱出した。当時スペインは圧倒的なシーパワーをもって、中南米・カリブ海地域において植民地を支配し、後発国の英・ 仏などを寄せ付けなかった。他国の船がスペイン支配下の港に入るには、スペイン側による安全保障がなければできなかった。当時、特にスペインと 英国との間には、相互に猜疑心が生まれており、敵対的関係にあった。

  突然の襲撃から難を逃れたその2隻のうちのの1隻は、ドレークが指揮する「ジュディス号」であり、辛うじて港からの脱出に成功し英国に向かった。 他の1隻はホーキンズが指揮する「ミニヨン号」であった。ホーキンズの船は途中幾多の難局を経て、翌1569年1月プリモスに帰還した。 ミニヨンでの生還者はわずか15人であった。危機一髪で命からがら逃げ延び、九死に一生をえて英国に逃げ帰えったドレークは、スペインに強烈な恨みを抱くことになった。 そして、以後、「サン・ファン・デ・ウルアを忘れるな!」を合言葉に、リベンジに燃えに燃え、英国私掠船による対スペイン船への襲撃は激しさを増して行った。

  さらにドレークを有名にしたのは、彼が世界周航を実現した史上二番目の人物となったことである。 マゼラン自身は世界周航途上、フィリピン。セブ島での戦闘にてこの世を去った。だが、生き残った部下たちは航海を続け、何とかスペインに帰還を 果たし、もって人類史上初の世界周航者となった。マゼランの場合、彼が行った過去の東廻り航海と今回の西廻り航海の2回以上の航海を合わせれば、世界周航を成し遂げたと 言えよう。さて、300トンほどのガレオン船「ゴールデン・ハインド号」を旗艦とする5隻の艦隊で、ドレークは1577年11月、英国南部のプリモス港を出航した。

  大西洋を南下し、マゼラン海峡を経て太平洋に出た。そこで大嵐に遭遇し、船団は散り散りとなり、ゴールデン・ハインド号のみが 南米大陸の太平洋岸沿いに北上することになった。なお、咆哮する嵐の海に立ち向かう過程で、1578年に、ホーン岬並びにドレーク海峡を発見するに至った。 ドレークは当初から世界周航のために英国を出帆したか否かは議論の余地があるところであるが、ドレークらは3年の歳月 (1577-80年)をかけて世界周航し 英国に帰還した。

  ドレークの航海軸を少し巻き戻すと、彼は太平洋を北上する過程で、チリ、ペルー沿岸のスペイン植民地やスペイン船などを襲撃し、莫大な 金銀財宝を掠奪した。彼はペルー沖を行きつ戻りつしながらスペインの金銀財宝船を物色していた。 当時アンデス地方を広く植民地支配していたペルー副王領の中心地の一つはリマであり、南米大陸の金銀財宝が集積されていた。特に1545年頃には現在の ボリビアのアンデス山中においてポトシ銀山が開発され、リマの外港のあるカジャオはそれらの積出港でもあった。財宝船を物色する中で、カジャオ にて財宝を積み込み、パナマ・シティに向けて北上するスペイン船「カカフエゴ」に遭遇した。そして、彼の襲撃は「大成果」を上げた。 ドレークの略奪成功は英国王室を喜ばせ、彼の「名声」をさらに高めた。この史実についてもベラクルス探訪のずっと後に学んだことである。

  ドレークはその後太平洋を横断し、モルッカ諸島へ辿り着いた。さらにインド洋、喜望峰を経て、1580年9月にプリモスに帰還した。帰還したのは 「ゴールデン・ハインド号」のみであった。ここに、フェルディナンド・マゼランに次ぐ史上二人目の世界周航者となった。彼はエリザベス I 世女王に 金銀財宝を献上したが、その額は当時の国家歳入よりも多かったという。この功績でイギリス海軍中将に任命され、また同時にサーの称号が授与された。 英国王室の歴史として、私掠免状を自国の「海賊船]に発付し、彼らが海賊行為で得た分捕り品から相応の「上納金」や「配当金」を得るという 負の時代があった。だが、見方を変えれば、英国はじめフランス、オランダなどの他の後発諸国によるスペイン船への海賊行為や植民地攻略は、スペインの 「新大陸」支配を脅かす時代でもあった。

  さらに、ドレークは、1587年、スペイン南部のカディス湾内に停泊していたスペイン艦隊を襲撃し、スペイン王室に痛手を負わせた。 1588年には、スペインとの「アルマーダの海戦」で英国艦隊副司令官に叙任され、その艦隊の実質的な指揮を執った。火船を敵艦隊に放つ という海賊らしい戦法で、「スペイン無敵艦隊」と謳われた艦隊をドーバー海峡において撃破し、壊滅状態に追い込んだ。 それも大変有名な史実である。ドレークは上司の提督らとドーバー海峡の入り口に臨むプリモスの「ポーの丘」で、スペイン艦隊が 海峡に近づいて来るのを、ゴルフに興じながら待っていた。ドレークがゴルフに耽溺していた訳でない。艦隊の指揮官らがおろ おろしている姿を部下に見せれば、彼らの戦闘士気に影響するとのドレークの深謀の配慮から、指揮官らはゴルフに興じるという作戦であったという。

  海賊行為による王室への多額の配当と国家財政への寄与、スペイン無敵艦隊への大打撃、世界史上二番目の世界周航と国威発揚など、 半端でない事績を遺したドレークであったが、1596年、パナマのポルトベロ沖で停泊していた折に、赤痢のため55歳で他界した。 鉛のお棺に入れられ、ポルトベロ付近の海で水葬にふされた。ポルトベロ探訪のずっと後で知ったことである。

  ドレークの旗艦「ヴィクトリー号」の復元船が、ロンドンのロンドン橋近傍のテムズ川岸沿いの掘り込み式 泊地に係留され一般公開されている。ビルの谷間のプールのようなごく狭い泊地に繋がれている。スマホなどでしっかりと停泊場所を確認 しながら出掛けていただきたい。具体的には、ロンドン橋から200mほど上流で、テムズ川沿いの「St. Mary Overie's Dock」近くに係留される。 サザーク大聖堂(Southwark Cathedral)が目印である。最寄りの地下鉄駅は「London Bridge」である。

  話しは変わるが、メキシコから帰国してほぼ2か月後の2009年2月初旬、ペルーの首都リマで中南米・カリブ海諸国所長会議が開催され、4泊5日の業務 出張の機会をえた。ペルーは実質的には初めての訪問国であった。業務が全て終了し、参加者は最終日にそれぞれ適宜赴任国へと帰国して行った。 帰国フライトの出発時刻はまちまちで、半日近い時間的余裕が生まれた。これを好機にして、社会見学のつもりで、リマ近郊のカジャオ地区界隈を 短時間でも散策しようと、市内路線バスに乗って出かけた。

  リマは16世紀にコンキスタドールのピサロが築いた町である。そして、カジャオはリマの外港のある地区であった。カジャオ岬先端付近には、 ペルー水産研究所、国立商船学校、ペルー海軍学校、コーストガードなど、海洋関連の行政・研究・教育機関が集積されていた。 岬から半島北側に沿って伸びる海岸は、砂浜ならず小石ばかりの海岸が続き、造船所、漁港、商港の地区へと繋がっていた。小石海岸であっても、 意外にも大勢の市民らが海水浴を楽しんでいた。沖合いには、数多くの漁船や貨物船などが停泊し、海上輸送や漁業活動などの海での営み活発さが 見て取れた。

  海岸にそって散策を続けると、海軍跡地内にある泊地に「潜水艦アブタオ号」を係留し一般公開する船舶博物館を見つけ、喜び勇んで 見学した。その近傍沿岸には堅牢な「レアル・フェリペ要塞」という史跡があった。カジャオの港や街が敵船からの防御の重要な対象であったこと が分かる。

  さらに進むと、元海軍提督であったブラウの記念塔が立つ「ブラウ広場」に行き着いた。1879年5月の「太平洋戦争」のイキケの戦いの 記念塔も立つ。実は、1879-84年の太平洋戦争(別名「硝石戦争」と称される)では、ペルー・ボリビア両軍とチリ軍が戦い、チリ側に敗北を帰し たペル―・ボリビアは一部領土を失い、ボリビアは内陸国になって現在に至るという歴史をもつ。広場の周囲には、ペルー海軍・海事センター、 海洋保安警察管区司令部などの海軍施設などと共に、偶然にも「ペルー海事博物館」を見つけ、早速館内を駆け足で巡覧した。

  博物館には、16世紀のドイツ帆走軍艦、19世紀中期にカジャオ・バルパライソ(チリ)間の沿岸航路に就航した蒸気貨客船、南極観測船「フンボルト号」、 近代軍艦などの沢山の模型の他、フリゲート艦「メルセデス号」の船首像、航海計器類などが展示される。南極大陸へのペルーの領土権主張を 示すパネル、実物の魚雷その他の軍事兵器類なども陳列されていた。時間に余裕が無く、わずか20分ほどの見学となり残念であった。

  スペインが16世紀にインカ帝国の征服を押し進め、今のリマに町を築き、次々と征服・植民地化する上で、カジャオは重要な 港の地位を占めて行った。ボリビアのアンデス山中で、ポトシ銀山が1545年頃に開発され、インディオらをこき使って、銀の採掘が長年行なわれた。 ペルー副王領からの金銀財宝がこのカジャオからから積み出され、パナマ・シティへ、さらにパナマ地峡のカミーノ・レアルという陸路とチャグレス 川の水路などを経て、ポルトベロへ。さらにハバナを経て本国セビージャの通商院へと運び込まれるルートが確立されていた。

  カジャオからパナマ・シティへのスペイン輸送船団も、時に太平洋岸沖合で海賊に狙われ襲われた。 既述の通り、ペルー沖を遊弋し「獲物」を狙っていたドレークの「ゴールデン・ハインド号」によって、財宝船「カカフエゴ」がカジャオ近くで 強奪された。そして、何時の頃からか、財宝輸送ルートはアンデス山脈を南へと延伸され、パラグアイの中心都市 アスンシオンを経て、あるいは時の変遷とともに別ルートをもって、ブエノス・アイレスへと運ばれるようになった。

  さて、2007年7月のニカラグア赴任から、2008年11月までの1年数ヶ月の間、海外への旅はほぼ全てプライベートなものであった。 そして、2009年2月になって初めてペルーへ業務出張として国外へ出掛けた。他方、ニカラグア国内での旅は全く真逆で、仕事のための旅 ばかりであった。ほぼ唯一の例外だったのは、2008年2月の、ニカラグア湖に浮かぶオメテペ島への宿泊を伴うプライベートな 国内旅行 (週末での1泊2日) であった。2度目の宿泊を伴うプライベートな国内旅行は、何と1年後の2009年2月のエル・カスティージョへの 旅であった。いずれにせよ、着任以来、仕事かプライベートであるかを問わず、国内でも海外へも数え切れないほど果敢に外に出掛けた。 次節で、もう少し国内業務の旅とプライベートな旅のエピソードについて触れることとしたい。


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    第5節 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて


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