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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


  ニカラグアは、中南米諸国の中でもハイチ、ホンジュラス、ボリビアなどとともに、国民が貧困に喘ぎ苦悩する国の一つと数え られてきた。実際に赴任し腰の落ち着いた生活をしてみると、国の政経や国民の生活事情を直接肌で感じるようになった。そして、 あらゆる分野において国際社会からの支援・協力が求められているように見受けられた。さらに時間が経つにつれ多くの社会 インフラの脆弱さや貧困事情などの深刻さは確信に変わって行った。

  日本からの援助形態の一つである、有償資金協力 (ローン、円借款) については、ニカラグアの経済財政事情の好転がなおも 芳しくないとみえて、ローン返済能力の視点から当時も見合わせとなっていた。 他方、技術協力と無償資金協力については幅広い分野で実施されており、私は、再び協力の最前線に立って働けることとなった。 無償資金協力の最重点分野のうち、社会経済発展に大いに貢献し高い評価を得ていたのは、老朽化した橋梁の建て替えや 新規の橋梁建設であった。

  日本では想像もつかないであろうが、地方の田舎道に一歩足を踏み入れれば、当然あるべき箇所に橋梁が架けられていない ケースが至る所で存在していた。国道沿いでは架橋されていても、老朽化している橋梁も沢山あった。日本はこの交通インフラ整備分野で毎年のように 数十億円規模での支援を長年実行し、円滑な陸上輸送を確保するうえで顕著な貢献を果たしてきた。

  過去の日本の橋梁関連支援実績につき自国民に広く広報しようと、当時のマルティネス運輸大臣は、過去に日本の援助 で架け替え、または新規に架橋された全ての橋梁の写真を収めたアルバムタイプの広報冊子を自らの主導で発刊した。日本の協力に 深い感謝を示しつつ、他方で日本援助のスポークスマン的役割を果たしてくれていた。

  首都マナグアと地方の主要都市間を結ぶ幹線道路は舗装され、人の行き来や物流において重要な役割を果たしていたが、それ以外の 地方道路は砂利道か土道がほとんどであった。幹線道から一歩外れると未舗装のままで、川には橋梁がなくザブザブと川床を横切る ケースも多い。毎年雨期が5,6か月続くが、増水のために渡河できなくなることもしばしばであった。大抵は両岸に鋼製ワイヤーが張り渡され、 それを発動機仕掛けで手繰り寄せる、「パンガ」というはしけで渡ることがごく普通の田舎風景となっていた。そんな牧歌的風景が 大好きではあったが、人や物の移動を非効率にしていた。

  赴任中、交通インフラ整備分野において、ある一つの記憶に残る調査に携わることができた。国の北西部ではホンジュラスと国境を 接し、南東部ではコスタリカとの国境を接する。そして、中米地峡をメキシコからパナマまで、通称「パンアメリカン・ハイウェイ」という最 重要の国際幹線道路が貫通していた。ニカラグア北部の山岳地域を縦断し、首都マナ グアを経て、ニカラグア湖の南東側を通ってコスタリカの国境へと至る。インターステートの (国家間を縦断する) 幹線道路は ニカラグア湖南岸を通るその道路一本しかなかった。同湖の北側には未舗装の国道があり、同じくコスタリカとの国境へと通じる。しかし、 サン・ファン川という同湖から流れ出る幅150メートルほどの河川には一本の橋もなかった。例の「パンガ」が対岸に暮らす住民の生活 を支えるべく、ほそぼそと不定期に運営されていただけであった。

  ニカラグアの悲願は、そこに「サンタフェ橋」を架け、その前後の未舗装道を150kmにわたって舗装し、 コスタリカへ通じる第二の「パンアメリカン・ハイウェイ」を完成させることであった。 国道沿いの北部域において多様な開発を促進するとともに、コスタリカとの間で物流を増進させることであった。 コスタリカ側では既に国境まで舗装道路を開通させていた。さらに、架橋の完成に先だって、米州開発銀行(BID)からの財政 支援をもって150kmの砂利敷き国道の舗装化も進められることになっていた。日本とBIDは可能な限り連携を図りつつインフラ整備計画に 取り組んでいた。

  2008年度には、この架橋計画がJICA無償資金協力プロジェクトとして採択され、基本設計調査が行われることになった。 そして、その調査団の団長として現地参画する任に預かった。その半年ほど後にJICA本部で調査報告書案が作成され、 ニカラグア側に説明する調査団が派遣された。団長としてその調査団にも参画した。国際協力システム(JICS)とJICAにおいて 無償資金協力業務に5年ほど携わってきた経験がこんなところで役立つことになり、嬉しい限りであった。米州開発銀行との調整 が奏功した結果、150kmの砂利道の舗装工事が先行して着手されていた。ところで、私はその架橋工事の起工式に臨むことなく 帰国の途に就いた。いつしかニカラグアを再訪した折には、200メートル長の「サンタフェ橋」をこの足で踏みしめ「渡り初め」 してみたい。

  さて、無償資金協力での第二の重点分野は、地方都市における公立総合病院の建設や看護教育施設などの充実を図るための 医療保健機材の整備であった。首都から数十kmにある古都グラナダには無償資金協力にて大規模な公立総合病院が建設され運営されていた。 かつて契約課に勤務していた折、この案件を担当した。何故記憶していたのか。中米の最貧の国にこんな大きな総合病院を建設しても 果たして十分に運営維持され持続可能なのか、契約交渉順位第一位であったコンサルタント企業に診療や治療費徴収システムにつき 執拗なまでに質問したからであろう。今回はボアコというずっと地方の山間部にある町に近代的な総合病院が建設されつつあった。 毎月コンサルタントの施行監理者との間で工事進捗状況に係る報告会をもち現状を理解していた。病院は予定通り竣工し、オルテガ 大統領と日本大使を主賓に迎えて開所式典が盛大に行われた。

  第三の重点分野は、絶対数が不足している小学校校舎の新規建設や、老朽化した校舎の建て替えなどへの無償資金協力であった。 ニカラグアは圧倒的に若年層の人口が多く、将来の発展可能性に大きな希望をもてる国であった。だが、初等教育施設の整備拡充が 不可欠であった。勿論、教育や教員のレベル向上も必要とされていた。全国の公立小学校ではほとんど午前と午後の二部制であった。 とにかく施設整備が喫緊の課題であり、日本は一般無償資金協力による校舎の建設だけでなく、 大使の「ポケットマネー」などと巷で称される「草の根無償資金協力」をもって、校舎の建て替え・改修を真剣に推し進めて いた。過去の累積の教室増設数は何百にも達していて顕著な貢献を続けていた。

  第四の分野は、農業の生産性向上を支援するために、「食糧増産援助(略称「2KR」)」という無償資金協力をほぼ毎年のように 実施していた。供与資材は主に肥料であった。ニカラグア政府は供与された何千トンもの化学肥料を農民に供給するに当たり、公正な 入札をもって農業資材販売会社に卸していた。政府はその販売代金をいわゆる「カウンター パート資金」として政府の中央銀行の特別口座に長年積み上げ国家歳入としていた。ニカラグア側はこのカウンターパート資金を誠実に 積み上げ、日本側からの評価は高かった。

  同資金は、ニカラグア外務省と日本大使館との協議をもって、農道整備やその他の社会インフラ整備などのために有効に 活用されるよう組織化されていた。つまり、ニカラグア外務省国際協力局内にカウンターパート 資金によるプロジェクトを運営管理する担当部署を長年組織していた。同部署は、いろいろな案件の省庁間調整や大使館との 協議を行いつつ、資金の配分調整機能をも果たしていた。そこにJICA専門家が派遣され、ニカラグアのカウンター パートと協働していた。橋梁・医療保健・初等教育・農業などの社会的基盤整備への支援は、政権が中道右派・左派、 親米・反米的であるかを問わず、ニカラグアの「国づくり」や国民の民生向上に大きな貢献を果たしてきたことは間違いない。

  さて、記憶に強く刻まれたカウンターパート資金活用事例の一つを述べたい。ニカラグアのカリブ海側に2つあった特別自治区の一での 事業であった。いつの日にか、カリブ海沿岸地方の自然や社会・文化事情などをこの目で見てみたいと、赴任前からその機会が訪れる ことを心待ちにしていた。15世紀末頃からの「大航海時代」に黄金の国「ジパング(日本)」や「カタイ(中国)」などのインディアス(インドより東方にある アジア地域)を目指したコロンブスは、その第三次探検航海において、エスパニョーラ島やキューバ島からさらに 西方に向けて航海することにチャレンジした。現在のホンジュラス沿岸に到達した後、南下を続けた。その時大嵐に遭遇し、やっとの思いで ある岬を回り込むことで遭難を逃れたといわれる。現在ホンジュラスとニカラグアとの境に突き出た「マリアに感謝する岬」 のことである。

  その岬から南に伸びるカリブ海沿岸にはどんな自然風景や人々の営みが広がっているのか、興味津々の眼差しを持ち続けてきた。 そんな中、初めての遠出の出張として、ラグーナ・デ・ペルラス (スペイン語で「真珠のラグーン」という意味) というカリブ海に 面する小さな漁村へ足を運ぶことになった。ペルラスはまさにその岬と同じ海岸線沿いにあった。もっとも、岬はペルラスから何百㎞も北 方に位置しており、岬へのアクセス道路はなく、内陸部から河川を何百kmも遡下する他ない地であった。

  実は首都マナグアからカリブ海沿岸の町へ辿れる道路は大きくは3本しかなく、いずれも土道や砂利道であった。その内の一本が 2KR積立資金の一部を用いて、ロードローラーやブルドーザーなどで補修されることになった。 具体的には、カリブ海寄りの内陸部にエル・ラマという重要な河川港 (エスコンディード川とその支流のエル・ラマ川との交点)があって、その町からペルラス漁村まで100kmほどの砂利道が 通じていた。毎年半年ほどの雨期を経ると砂利道は傷みが累積し続け荒れ放題となり、年々車両の通行は困難となっていた。

  道路補修が完了し通所式典に出席することになり、ついにカリブ海側に足を踏み入れる機会が回って来たという訳である。起点のエル・ラマ からランドクルーザーで、亜熱帯ジャングルの中を貫通する補修済みの砂利道を快適に走り抜けた。そして、日本大使や運輸大臣 らの出席の下、ペルラスでの式典の末席に加わった。式典後、その昔スペインと英国がニカラグア東部で覇権争いをしていた頃と余り 変わっていないのであろうと想像を逞しくしながら村を歩き回った。円錐形の屋根を葦か何かでふいたような、いかにも伝統的様式の村民 集会場の館はこの地方独特であった。村民の庭先では幾つものムシロが広げられて、赤い小エビが天日干しされていた。その風景が実に 印象的で脳裏に焼き付けられた。家屋の中には一見場違いのように裕福そうに見える建屋もあった。麻薬のトラフィッキングか 何かで羽振りがよいのではないかと囁かれているそうである。

  その後、ペルラスから少し内陸部へ戻ったところにある村落から「ランチャ」(細長い小型乗り合いスピードボート)という ボートに乗船した。村はエスコンディード川という大河近くに位置していた。鬱蒼と茂った亜熱帯樹林に囲まれたラグーンや迷路の ように入り組んだ狭水道の水面を滑らかに疾走した後、いつのまにかエスコンディード川に入り込んだ。そして、ブルーフィールズ というニカラグアでは最大のカリブ海沿岸港湾都市に辿り着いた。空軍のヘリコプターで首都に戻る大使と大臣とはそこで別れ、外務省とJICA関係者は 再びボートでエスコンディード川を百数十kmほど遡航してエル・ラマまで戻った。大河の幅は100~150mほどで、常に鬱蒼と茂ったジャン グルが両岸に迫っていた。こうして、カリブ海沿いの内陸水域の自然環境や地理的事情に触れることができた。

  ブルーフィールズは「ブルーフィールズ湾」という大きなラグーンの岸辺にあり、またエスコンディード川の河口に立地していた。 ラグーンは狭水道によってカリブ海に通じていた。ブルーフィールズで上陸し暫く街を散策し、社会的諸事情を垣間見ること ができた。実はニカラグアの国土の東側(カリブ海側)半分を占める大きな行政区が2つあった。北部自治区と南部のそれである。 北部の自治政府はプエルト・カベーサという沿岸都市にあり、南部のそれはブルーフィールズにある。スペインの植民地であった ニカラグアに、当時ジャマイカを植民地化していた英国が攻め入り、その東側を支配した歴史的経緯がある。そのため両自治区は英語文化圏に属している。 同じ中米地域にあるベリーズ国は英語文化圏となっているが、かつては英国領ホンジュラスであった。「英国領ニカラグア」とはならなかったが、 2つのニカラグア自治区となって現在に至っている。

  地図を見ると、首都のある太平洋側からそれらの自治区行政府のある2つの都市に通じる道は事実上それぞれ1本のみである。 一本は北部自治区政府のあるプエルト・カベーサ、他は南部自治区政府のあるブルーフィールズに伸びている。しかし、道路や治安事情 が悪く、ランドクルーザーなどの四駆車でもってしても、真に安全に行き着けるか確証をもてないほどである。 JICA事務所では専門家・隊員によるそれらへの通行を許可していなかった。特に半年間の雨期での通行は全く安全でないとの認識であった。

  かくして、首都からカリブ海側へ安全に辿ることができるのは、2KR積立資金で補修されたその一本の 砂利道しかなかった。それも小漁村のペルラスまで通じるだけであった。ペルラスから200kmほど北方のプエルト・カベーサや、 50km南方のブルーフィールズに辿れるまともな道路は一本もなかった。エル・ラマからブルーフィールズへは ランチャという路線水上バスで辿る他なかった。カベーサやブルーフィールズへは民間航空機だけが安全なルートである。

  さて、エル・ラマは数千トンクラスのフェリーや貨物船などが積み降ろしできる重要な内陸河川港である。 首都からエル・ラマまでは片側一車線であるが、しっかり舗装された幹線道路となっている。その河川港から太平洋沿岸にある ニカラグア唯一のコンテナ積み降ろし可能なヤードやクレーンをもつコリント港へ通じている。もちろん、コリント港と首都マナグアは 「パンアメリカン・ハイウェイ」とその支線道で結ばれている。5~6000トンの大型船がカリブ海からエスコンディード川をエル・ ラマまで遡り、そこでコンテナをトレーラーに積み替え、マナグアなどへ陸送する。エル・ラマは、 河川と陸上のモーダル輸送によって両大洋間をまたいで物資輸送を可能にするいわゆる「ドライ・カナル」(陸の運河)の起点となっている。

  かくして、ニカラグアのカリブ海側沿岸都市ブルーフィールズの産業や社会・生活事情をはじめ、ニカラグアの多様性をもつ 民族・文化や地理・自然環境に初めて触れ、大いに興味と親近感を膨らませることになった。その後、北部自治区のプエルト カベーサにて技術協力プロジェクトを開始するにあたり、同区行政府・関係大学・NGOなどの関係者 との初顔合わせやプロジェクト運営協議のため同地を訪れた。それはまた、カリブ海沿岸地区の社会・文化事情の理解をさらに深めること につながった。
* 余談だが、ブルーフィールズ沖合にニカラグア領の島「コーン・アイランド」があり、エル・ラマ港からフェリーが通っている。

  若干話は赴任前のことに遡るが、JICSに出向していた折、無償資金協力案件でニカラグアに出張したことがあった。地方農村基盤 整備用機材の供与に関するプロジェクトであった。略称「POLDES」という地方農村開発公社は、地方の農道などを整備するために必要な ブルドーザー、それを巡回的に運搬するための大型トレーラー、さらに修理工具類を搭載してブルの作業現場に急行して応急 処理に当たる特殊車両などの供与につき協力を求めていた。ブルドーザーはまた、乾期に備えて家畜の飲料水用の小溜池を整備するため に使用されるという。

  その具体的な農村基盤整備計画、過去の整備実績、自然環境、機材運用の人的資源などに関する調査、さらに 計画自体の妥当性を判断するための関連資料の収集などを行った。それらの体験が、赴任後に業務を進める上で大いに役立つことに なった。農道整備はまた農産物の市場へのアクセス、各種農業・生活資材の搬入などを通じて、僻地の集落に暮らす村民の生活向上 などにも役立てられるものであった。地方山間部では今でも馬の背中に載せて獣道のような道なき道を通って最寄りの集落や 地方都市を行き来している農民が大勢いる。

  もう一つ、無償資金協力業務の経験が大いに生かせたことがあった。コスタリカに近い太平洋沿岸にサンファン・デル・スール という漁港がある。そこにかつて水産無償資金協力として漁港整備がなされた。漁船からの水揚げ岸壁、漁獲物の荷捌き場、冷凍・ 冷蔵貯蔵施設、漁船修理のための陸揚げ用ランプウェイ、魚市場管理施設などが整備された。だが、施設が十分活用されていないのでは ないかという風聞があった。日本大使館はニカラグア水産当局をはじめ、オルテガ大統領にも改善を強く申し入れてきた。JICAも 善処を求めてニカラグア水産当局と協議する一方、JICA独自の漁業・水揚げ実態調査、原因究明のための聴き取り調査、改善策の検討などのために 現地コンサルタントを傭上し、詳細な調査を実施した。そして、社会的背景や真相を明らかにし、改善提案を盛り込んだ 報告書を大使館と水産当局に提出し、漁港のさらなる有効活用のための一層前向きな努力を水産当局に促した。過去の無償資金協力の 経験がフルに役立った気がした。

  休題閑話。技術協力においても、あらゆる分野での支援や協力が求められていると見受けられた。技術協力プロジェクトの実施分野は 多種多様であった。そのうちでも、JICAは主に4つの重点分野を中心にして支援していた。第一の分野は、農牧業における生産性の 向上であった。ニカラグアの最重要産業である農牧業の生産性の向上、ひいては農牧業従事者の所得・生活向上を 究極目標においての協力であった。

  「家畜繁殖技術の向上と普及のため、さらに地方モデル農家を対象にする家畜飼育技術の向上のためのプロジェクト」。 同国中部地区における特定の零細畜産農家をプロジェクトのモデル対象農家にして、5年間の予定で、放牧地での牧草栽培、 肥育管理、家畜衛生管理、配合飼料生産などの技術指導と普及をカウンターパートとともに目指すものであった。プロジェクトの本拠地 を首都近郊の農牧省家畜試験場に置いて、人工繁殖のための実地訓練も同時並行的に進められた。 親牛の精子が液体窒素容器で極低温保存され人工繁殖に活用され、子牛増殖に貢献していた。

  また、農牧省と協力して「野菜・果樹栽培技術の向上と普及のためのプロジェクト」の実施。農牧省中央農業試験場が主体となって、 野菜や果樹の栽培技術の向上と普及を目指していた。同試験場の農業普及員への栽培技術の指導と移転を図りながら、彼らを通じて特定 地域の農家を対象に営農指導や技術普及を展開するというものである。ニカラグアでもプロジェクトはいずこも同じ悩みを抱え ながら運営されていた。即ち、農牧業に限らずどの省庁でもプロジェクトにおける活動費の予算的割り当てが少なく、例えば普及員の 業務用バイクの燃料費の確保さえも相当苦労する有り様であった。首都周辺地域での技術指導・普及活動とはいえ、徒歩で対象農家 へ実地巡回指導に出向く訳にも行かず、相当の燃料費を日本側で負担することも止む得ないところであった。プロジェクト実施中は まだしも、その終了後の普及活動を持続可能なものにしうるのか大いに懸念された。どのプロジェクトにとっても共通した悩みであった。

  その他、プエルト・カベーサにおける「モデル野菜栽培圃場の造成・展示と栽培技術の対象農家への普及と生計向上のためのプロ ジェクト」。北部自治地区のカベーサにおいて、自治区行政府、市役所、地元の大学、非営利民間団体、国際機関など と様々に連携し合い、いろいろな農作物を栽培するモデル圃場を建設し、その栽培の可能性を実証する一方で、 技術の普及と生計の向上を目指すものであった。JICAはプロジェクトのコアとして、2名の長期専門家 を派遣した。連携する機関によるプロジェクト運営経費の負担約束を巡る不履行に悩まされた。また、自治区行政府を巻き込んだ政党間 の対立と支持者間のいざこざなどを背景に、市内の治安が悪化する事態が続いた。プロジェクトの事務所がデモ隊の暴徒に荒らされたり、 また専門家への安全が危険にさらされたりもした。プロジェクトの初期段階では実施上の困難がいろいろと生じたが、中期以降には 全関係者の協力のベクトルが合わされ、その成果を徐々に発現できる方向へと進展した。

  ところで、赴任中、多くの出張をこなした。遠距離の出張地としては、北部自治区行政府が所在するカベーサであった。 プロジェクトの開始の早い段階で訪れ、先方関係者と協力体制を確認し合いそのレールを敷いた。カベーサは例の「マリアに 感謝する岬」から4~500kmの距離にあり、首都マナグアからカベーサまで地図上では陸路一本の道があったが、 未舗装の悪路らしくランドクルーザーでも辿り着けるのか確証がないほどであった。カベーサへは10人乗りくらいの定期運航される民間機 で飛んだ。

  同地はカリブ海でのロブスター漁の基地でもあった。だが、港といっても丸太で組み立てた長さ100mほどの朽ちかけた 桟橋一本が沖へ突き出ているだけであった。そこにロブスター漁のための漁船が何隻か停泊していた。漁は潜水による捕獲らしく、 漁船には幾つかの一人乗りボートや大型の酸素ボンベが装備されていた。ダイバーが無理を重ねて長時間潜るなどして潜水病に 冒されるという事故は時折新聞で話題になっていた。

  また、地方都市・古都のレオンから相当奥深い山間部に所在する集落に分け入り、植林と資源循環型農牧業の融合を図りながら 生産性の向上と民生向上を目指してのプロジェクトも実施した。地方の山間地域では、生活のためとはいえ山林の伐採が長年繰り返され、 自然環境の悪化が進み、地域住民はますます生活上の困難を背負うようになっていた。地域住民の持続可能な生活が成り立つように、 資源循環型の営み方を追求する必要に迫られていた。

  JICAは地方自治体と協力して、山間部僻地の集落に暮らす住民を対象に、苗木の育成方法の指導、その植林活動による森林や 自然環境を保全するための実践、果樹・きのこ類や野菜の栽培、鶏・豚の導入・飼育、養魚の育成など、資源の複合的な 利活用や自然循環型営農による生活基盤の強靭化と生計向上に取り組んだ。自然や資源の利用と保全の両立を目指すプロジェクトであった。 僻地の対象集落を訪れ村民と懇談したり活動状況をつぶさに見て回ったり、またプロジェクトの中間報告会や終了時評価会などに 出席し、その進捗状況と課題の把握に努めた。

  第二の重点協力分野は、初等教育、中でも初等算数指導力の向上であった。小学校の建て替え・新規建設というハード面での協力だけでなく、 師範学校や教員養成校の教員、特に彼らの算数指導力の向上に資するために、算数教科書や教授法の刷新、新たな算数指導 要領の作成などによる指導レベルの向上に取り組んだ。ひいては、将来小学校教師として教壇に立つ師範・養成校の生徒たち自身の 算数指導能力の向上に繫げるためのプロジェクトである。究極的には全国の小学生の算数の理解度を増進させることに役立つ はずのものである。読み書きそろばんをしっかり学び理解する生徒を育てることは、将来の「国の宝」を創出することとイコールである。貧しい ニカラグアにとっては、スペイン語の読み書きと算数のさらなるレベル向上は、同じスペイン語圏に暮らす他の中南米地域の人々と 十分伍して生計を立てて行けるよう、国家の要である人的資源の育成につながるはずである。

  第三のそれは、保健省管轄下にある医療・保健衛生分野である。例えば、乳幼児死亡率の低減につなげるための母子保健レベルの向上 、若者たちの性や妊娠などのリプロダクティブヘルスに関する知識の普及や向き合い方についての啓発を目指すプロジェクトに 専門家を投入して取り組んだ。あるいは、保健省の担当局を拠点として、全国の保健所に勤務する看護師や保健衛生人材の看護・保健衛生レベルの 向上を目指すプロジェクトにも取り組んだ。また、保健省と協力して、特に中米地域で罹患者が多いシャーガス病に関し、その罹患実態を 把握し、罹患率の低減を図るために如何なる対策を講じるべきかを探るためのプロジェクトの形成を目指して取り組んだ。

  首都圏のある地区のコミュニティでは、貧困問題をはじめ、青少年の非行・モラル崩壊や家庭内暴力などの家族の悩み などの様々な諸課題を抱える一般住民が多く暮らしていた。そこで、それらの課題に向き合い相互扶助を押し進めることが できる指導的住民を育成することから始め、住民間の互助の仕組みを構築し普及させるプロジェクトを家族省に協力して実施した。 この社会福祉促進事業の一翼を担うことができる、日本の民生委員をモデルとした ニカラグア版民生委員の育成と制度的立ち上げを目指すものでもあった。役所による側面支援を下地に、地域社会に暮らす住民の 自主自立的な相互扶助や福祉・民生向上を目指すものである。 特定地区を対象にしたプロジェクトの実施において成果が上がり、その運営が軌道に乗る見込みが立ったこともあって、第二 フェーズでは事業を面的に拡大することにつながった。将来的には、全国レベルでの民生委員制度の創設と国民による相互扶助の 促進も視野に入れての取り組みに発展するが期待される。

  特筆に値するもう一つの人的貢献といえるのは青年海外協力隊員(JOCV)の活動であった。もちろんジュニアだけでなくシニアボランティアも 活動していて、ピーク時には総勢70名ほどがニカラグア全土で活動していた。活動はあらゆる分野に及び、例えば 保健所に配属される看護師・保健師、身体障害者へのリハビリを支援するNGO配属の理学療法士、遠方の辺境地からやってくる妊産婦 をケアするNGO配属の保健隊員をはじめ、地方の小学校での教育指導、職業訓練校での技術指導、地方行政機関での土木設計・工事 監督の支援、NGOなどでの青少年活動、家畜衛生の巡回指導、修道院での営農活動支援、地方集落での農村開発と生計向上支援、 環境保全教育、大学での日本語教育、公益スポーツ団体での野球指導などさまざまである。

  隊員は首都とその近郊での配属が多かったが、太平洋岸沿いの地方や内陸山間地にある市町村でも多く活躍していた。また、 隊員の中には、牧畜営農・家畜衛生などの技術協力プロジェクトとの緩やかな連携を図ったりもしていたが、特に注目したのは 隊員同士の相互支援による活動の質的向上と面的拡大を目指す取り組みであった。

  個々の隊員からの発案を起点にして小さな創意工夫で配属先やそのステークホルダーへの支援につながるものの、 配属先では財政的余力がなく、隊員の工夫を実現できないという現状がある。JICA事務所としては積極的に隊員のアイデアや取り組み に資金的支援を図った。赴任中、予算的制約を理由にして隊員の発案と予算申請を諦めてもらうようなことは一度もなかった。 今から振り返れば、隊員らが現場での課題解決のために一層の具体的工夫を凝らしもっと提案するよう呼びかけ、隊員が所属先 や地域社会により貢献できるよう鼓舞すべきであった。事務所の予算を脅かすほど申請があれば、そこは貢献度の高い案件を 優先的に取扱い対応すればよいことであったと反省する。

  また、自らに課した職務として、週・月単位で定期的に場所を取り換えながら隊員の所属先や活動現場を訪れ、 その活動環境や状況を理解し、課題などを探るよう取り組んだ。活動地域の地理や社会事情などを肌で感じることは 大変重要なことであったし、大いに喜びとするところでもあったので積極的に動き回った。少しでも活動を理解しその側面支援につながるようにと、隊員らと 懇談をもった。マナグア市内やその近郊への日帰り出張が多かったが、地方へのそれもかなりこなした。そんな隊員への巡回は、 活動への資金的サポートに関する隊員からの事務所への要望の増加につながって行ったことを後で実感することになった。

  ところで、専門家は毎日の通勤の足として自家用車両を所有し治安上の問題はほとんどなかった。だが隊員は一般公共バスか タクシー(乗合式タクシーもある)が移動手段であった。バスは車内でのすり事案が主であった。車内で乗客が突然強盗に早変わりする という事件は、隣国の場合よりもずっと件数的に少なかった。 問題は夜間におけるタクシーでの移動であった。いくら警戒しても夜間は警戒しきれないことが多い。タクシー運転手自身の内通も あってか、相乗りとなる乗客が強盗に早変わりすることが少なからずあった。特に地方から首都に夜間上京することになった場合は、その リスクが髙かった。周辺国のホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルなどに比べて相対的に治安は良い方であったといえたが、 それでも夜間での乗合タクシーはリスキーであった。事務所としてもいろいろ対策を講じた。事務所と契約済みの特定個人タクシー を事前に電話で予約・呼び出しのうえ乗車するという方策でリスクを相当減退させられた。それでも、昼夜問わず60~70名の隊員の 安全が常に気掛かりとなっていた。大使館の安全担当事務官の協力も得て、全隊員に向けての定期的な安全講習も重要行事であった。

  隊員への訪問だけでなく、技術協力プロジェクトに関連した現地視察、個別打ち合わせ、プロジェクトの中間・終了時評価 などのための定期的会合、専門家による技術普及関連講習会、関係省庁との会議への参加などのため、日帰りや宿泊出張はひっきりなしであった。 その他、大使館との定期協議、国際機関との協議会、他国との治安対策会合への参加などもあった。首都圏内だけでなく、 地方への宿泊出張も繰り返した。プロジェクトの現場を訪れ、活動の進捗状況を知ることは、 事務所による側面支援の在り方やタイミングを計るうえでの基本であった。活動の現況や成果への理解を深めること、プロジェクト 内部の悩みや課題を掌握し、事務所としてのサポートを検討するうえで有益であった。また、日本側の支援方針や援助重点分野などを説明 することは、プロジェクトの協力実施体制の強化というよりは、今後の対ニカラグア協力案件を発掘・形成するうえで不可欠であった。

  他方、無償資金協力プロジェクト関連では、建設工事や医療器材の搬入などの現場視察を行ったり、関係者と面談し現況の説明に耳 を傾けた。また、2KR資機材(主には肥料)の供与式典、草の根無償資金協力による小学校建設開校式典、「サンタフェ橋」基本 設計調査に係る現地調査、サンファン・デル・スール漁港の現況と活性化に関する現地調査、小学校建設現場の視察、 2KRの積立資金による地方砂利道の補修の竣工式典への参列(2007.10)など、毎月の半分は事務所を離れ現場へ出掛けた。現場こそ 「国づくり・人づくり」の最前線であった。また、プロジェクトの新規発掘・形成に当たっての萌芽的情報と着想を得るための重要な場と 機会となった。特に貧困格差の激しい地方へのさまざまな出張の機会は錆びついた脳を大いに刺激し、新規プロジェクトの発掘・構想 の下地となった。

  さて、ニカラグア国内のあちらこちらへ公務出張を重ねる一方で、週末と有給休暇とを繫ぎ合わせた私的な旅も大いに楽しむように 積極的に努めた。赴任当初は業務の把握に四苦八苦であり、国内においては公務出張のみに明け暮れ、プライベートな 旅を考える余裕は全くなかった。だが、逆に海外への旅は赴任の地の利を生かすことで、何とか公務の合間を縫って、 周辺諸国を訪ね、自身の活動エネルギーを充電するよう心掛けた。当時を振り返って見ると、着任して1年ほどの 間に出掛けたプライベートな「海と船の散策の旅」のほとんどは、国内のそれではなく海外のそれであった。 (強いて言えば、赴任の翌年=2008年の末の大晦日に古都レオンにある修道院のようなホテルに一人静かに年越しをした くらいであった)。

  既に述べたが、赴任後の最初の海外への私的な旅は、週末と有給休暇とを繫ぎ合わせてのパナマへの4泊5日の旅であった。 何が何でも一にも二にも、その地の利を生かしてパナマ運河を見たかった。次いで旅したのが、米国カリフォルニア州の沿岸諸都市 (SFとモントレー、SDとラ・ホヤ、LAとサンタバーバラなど)を周遊した。その後、メキシコ(首都やベラクルスなど)や コスタリカ(首都やプンタレーナス)などであった。いずれも近隣諸国の海と船、海洋博物館などの文化施設を散策しリフレッシュする ための旅であった。ペルー・リマにも出かけたが、用向きは中南米所長会議出席であった。二回目となったメキシコへの旅も同じく会議 出席のためであった。プライベートな旅は圧倒的に海外への旅となり、国内でプライベートの本格的な旅ができたのは 何と着任後1年以上経た頃であった。

  赴任した2007年10月から2009年2月までの1年半は、国内での業務出張と、海外への私的な旅に明け暮れていたが、 ついに国内の本格的な旅らしい旅のチャンスが巡ってきた。同僚3人とニカラグア湖に浮かぶ火山島・オメテペ島(淡水湖に浮かぶ 島としては世界最大といわれる)へ、わずか一泊二日の週末利用の小旅行をした。それが赴任後初めての純粋にプライベートな 遠出の旅であった。その道中での雑談において、エル・カスティージョという地に、スペイン植民地時代の要塞史跡が遺る ことを知った。ニカラグア湖から流れ出る唯一の河川であるリオ・サンファン川を50kmほど下ったところにあるという。 いつしかそこへ旅したいと思いを馳せた。そして、「セマーナ・サンタ(聖週間)」という長めの祭日が比較的早くやってきて、 その機会をとらえて訪れた。
* ニカラグア湖は、中南米地域ではチチカカ湖に次いで2番目に広い湖であり、世界では10番目に大きい淡水湖であるという。

  エル・カスティージョへの旅が私を「ニカラグア運河」に目覚めさせることになるとは想像だにしなかった。 要塞内にプリ・コロンビアから現在に至るまでのニカラグアの歴史を数十枚のパネルで展示する小さな博物館があった。 その展示の中に「ニカラグア運河の夢」というパネルが4,5枚あった。そこで「ニカラグア運河」にまつわる長い歴史や、 ニカラグア国民の夢を知ることになった。運河にも興味を抱いていた私は、俄然にニカラグア運河の有望候補ルートを巡る踏査と、 今だ現在にまで続くニカラグア国民の夢そのものに前のめりになった。その後、ニカラグア政府が2008年に公表した運河に関するプレフィージビリティ 調査報告書なるものをひも解いた。そして、有望運河ルートとされる6つのうちの幾つかの主要ルートを実際に踏査してみようと思い立った。

  最有望ルートの中で最も関心を寄せていたのは、カリブ海に注ぐエスコンディード川支流のエル・ラマ川と、ニカラグア湖 に注ぐオヤテ川の分水嶺であった。その分水嶺を目指して馬でオヤテ川をJOCV土木隊員と共に遡上した。その途上で循環器系疾患に よる緊急事態を招いた。その後、奇跡の生還を果たしたが、職務遂行を断念し帰国した。これらは次章に述べたい。 事故から多くの教訓を学び、人生を見つめ直すきっかけを得た。生還後暫くして、新たな決意の下で人生を歩むことになった。生かされた 残りの人生を「海洋辞典」づくりにかける決意にもつながった。ニカラグアには何か宿題を残してきたという強い思いがある。 いつしか再びニカラグアの土を踏みその宿題をやり終えたいと、帰国後15年経た2023年の今でも心に留めている。

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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する