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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第8節 ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


      序章~第9章 | 第13章 第15章 | 第16章~最終章



  ニカラグア国内のあちらこちらへ数多くの日帰り・宿泊業務出張をこなす一方で、海と船を散策するプライベートな旅もせっせと続けていた。 よくよく振り返って見ると、着任以来1年数ヶ月の間に出掛けたプライベートな旅のほとんどは海外であった。 赴任後の最初の海外への私的な旅はパナマ運河見学であり、次いで米国西海岸の海洋博物館巡り、コスタリカの港町プンタレーナス、 メキシコの港町ベラクルスなどであった。他方、着任して半年後の2008年2月、週末土日を利用して、同僚3人と、一泊二日の初めての国内旅行に 出かけた。行き先はニカラグア湖に浮かぶオメテペ島であった。

  ニカラグア湖は中南米地域ではチチカカ湖に次ぐ大きさで、しかも淡水湖に存在する島としては世界最大と言われるオメテペ島が湖上に 浮かぶ。ひょうたんのような形をした島には、標高1500mほどの富士山のような円錐形の活火山・コンセプシオン山とマデーラ山が2つ仲良く 並び立ち、その島影を湖上に映し出す。その情景は風光明媚と表現する他ない。太平洋と同湖との間にリーバスという地方都市があるが、その近傍の 湖畔にあるサン・ホルヘ港を発着場とする定期フェリーが同島に通っている。赴任する数年前に協力隊員が同島の火山に登山中大けがをし、地元の方に救援 されて、一命を取り止めた。敬意を表し感謝の気持ちを伝えるために関係者にお会いしたりもした。島では、先住民族が遺した石造物や自然 風景などを散策し、火山灰土で黒っぽい湖畔の砂浜を散歩したり、宿のテラスでのんびりとニカラグア・カフェをいただきながら、取りとめもない 会話を楽しんだ。会話はいろいろな旅の話に及んだ。その中でスペイン植民地時代に建てられた要塞が今も遺される、エル・カスティージョという ところがあることを知った。

  「エル・カスティージョ・デ・ラ・コンセプション」という名の要塞はサン・ファン川の岸沿いにあるという。ニカラグア湖の南東端に、湖から唯一流れ出るサン・ファン川 の流頭にサン・カルロスという町があり、そこから川を70kmほど下ったところにある。そこにスペイン植民地時代に築かれた要塞がある。 次に国内を旅するなら、先ずはエル・カスティージョ(「カスティージョ」とはスペイン語で「城、要塞」の意味)という辺境地へ旅することを 心に決めた。ニカラグア国内には、これと言った見ごたえのある歴史的な史跡が少ない中で、その要塞を次の旅のターゲットにするのも悪くないと 、頭の片隅にインプットした次第である。その後いろいろと関連情報を集めた。だが、その旅が実現したのは、2009年2月のことであり、オメテペ島へ の旅からほぼ1年後になってしまった。パナマ運河への旅は終えていたが、米国、コスタリカ、メキシコへの海外の旅を最優先した結果、 国内の私的な旅は後回しになっていた。国内での地理的移動はもっぱら仕事優先としていた。

  かくして、2009年2月になって、所員一人を誘って、週末と祭日利用の2泊3日の旅程で、エル・カスティージョへの亜熱帯ジャングル・ ツアーに身を投じた。サン・カルロスへは陸路もあった。首都から国道280kmほどの距離だが、うち120kmほどは砂利道であり、悪路と 聞かされていた。平均時速20㎞で走行するとと、首都からの往きだけで9時間ほど要し、丸1日がかりである。米州開発銀行の融資で舗装工事がなさ れることは承知していた。四駆小型自家用車での走破を考えたが、安全策を採って空路とした。定期航空路線があり一日一往復していた。15人乗りくらいの 小型プロペラの民間機に早朝乗り込み、機上の人となった。今回の旅が、「ニカラグア運河の夢」なるものを初めて知るきっかけとなり、さらに その夢を追いかけるきっかけにもなろうとは思いもしなかった。

  空港を飛び立ち暫くして、ニカラグア最古のスペイン植民都市グラナダ上空を通過後は、ほとんどニカラグア湖上空の縦断飛行となった。 グラナダ通過後20分ほどして、フロントガラス越しに、オモテペ島の活火山が遠くに霞んで見えてきた。そのうち双子の火山がだんだんと大きく浮かび 上って来た。ついには真横に火山の双壁を見ながらの飛行となった。その後1時間もしないうちにサン・カルロスの町とサン・ファン川の流頭の上を旋回し、 畑や牧草地に囲まれた飛行場に着陸した。

  空港からタクシーに乗りサン・カルロスの市街地へ、さらに港を目指した。発着場で切符を買い求め、ランチャと呼ばれる50人乗りほどの「水上 定期乗合バス」ともいえる細長いスピード・ボートに乗り込んだ。暫くしてボートは満席状態となり、エル・カスティージョへ向けて時刻通りに出航した。 出港して10数キロ下ったところにあるサンタ・フェという集落を通過した。比較的川幅の狭いここでも100~150mほどあり、両岸には何となく渡船の 発着場と感じさせる人工物が目についた。ニカラグア政府がそこに長さ200mほどの橋梁の建設につき、日本に無償資金協力を要請している場所であった。 余談であるが、この旅から帰って数ヶ月後に、「サンタフェ橋」の基本設計を行なうJICAの調査(無償資金協力)が始まり、その団長を務める ことになった。調査にはこの旅の体験が大いに役立つことになった。

  エル・カスティージョの少し下流まで、サン・ファン川はニカラグア領土内を流れ下っている。即ち、川の北岸はもちろんであるが、南岸から 5kmから10kmほどはニカラグア領土となっている。サン・カルロスの対岸に渡り、10kmほど辿ると、コスタリカとの国境へと通じる。 当時はその国境は閉鎖されていたが、コスタリカ側は既に国境までの道路を建設済みであった。他方、エル・カスティージョの8㎞ほど下流からは、 両国の国境は川の南岸(カリブ海の河口に向かって右岸)となっている。両国の国境線は河川の中央にはなっていない。コスタリカの 警備艇などの公船は、その河川での通航が可能なのか、ましてや警備・救助などの公権力の行使をなしうるのか、2国間で争われていた。 紛争は国際司法裁判所に付託され、その判決によればコスタリカの公務執行が限定的にせよ認められ、平和的に紛争解決がなされたという。

  ランチャの後方船内には自動車のエンジンらしきものがむき出しでセットされている。大きな唸り音を響かせ、時速3~40㎞のスピードで快調に疾走した。 天候も良かった。舷側には飛沫防御用の立て板も何もなく吹きさらしであった。時にスコールがやって来て、風雨が船内に猛烈に殴り込む ことがある。それに備えて、透明の丈夫なビニールシートを舷側上部から垂れ下げれるようになっていた。さて、ランチャが疾走し吹きつける自然の 風は凄く心地よいものであった。サン・ファン川の上流域の場所によっては、ジャングルの繁みが薄くなり、岸の後背地には切り拓くかれて牛の放牧地 となっている。時折それを垣間見ることができた。だが、川を下れば下るほど、両岸には鬱蒼と繁った亜熱帯ジャングルが延々と続いていた。 川幅は場所にもよるが、相変わらず100mから150mほどあった。

  1時間半ほどかかってボカ・デ・サバロスという川岸に形成される小さな集落に着いた。その集落はサン・ファン川とその支流であるサバロ川 との合流地点にあった。予約済みの宿泊先は両河川がT字型に交わる、その角の川岸に、川に突き出すように建っていた。サン・ファン川の水中に丈夫 な杭を打ち、その上に3、4の部屋と共用部の板張りテラスが造作された、飾り気のない簡素な木造高床式建物であった。

  夕暮れが迫るなか、サン・ファン川に面した板張りテラスに置かれたロッキングチェアに座り、目の前をゆったりと流れる川と、鬱蒼と茂る ジャングルだけの二色からなる景色を眺めながら、優雅で贅沢な時間を過ごした。10歳くらいの少女が実に器用にパドルを漕ぎ、丸木舟を操って 通り過ぎて行く。「原始的な」世界に身を置いているかのように思え、日頃の世界とのギャップに今更ながら驚いた。少女は友達か親戚の家に 遊びに行くのか、お使いに行くのか、勝手な想像をした。我々自身も文明的要素がほとんどない「原始的」環境の中に溶け込み、 その一部になり切っているような気分であった。ジャングルに囲まれた静寂な空間に佇み、大自然に溶け込みながら至福の時間を過ごしている という実感に浸る。「原始的な時間」を過ごすかのような気分であった。40年ほど前の大学でのワンダーフォーゲル時代に辺境のさらに奥地で テントを張って、静寂が支配する「原始的」な時間を何度も過ごしたが、その時以来の体験であった。

  飾り気の何もない部屋に、裸電球がぶら下がり、簡素なベッドと、体に水を汲み流す冷水溜めがあるだけである。だが、何もないことに幸せ な気分になれ、感激し満喫した。エル・カスティージョまではあと1時間ほどの距離にあったが、現地のホテル事情が分からなかった。 それ故にサバロスに宿を見つけて迷わず予約、今回の投宿となった。そのことの結果、わずかな時間だが、精神的な充実さをもたらしてくれた。 テレビ・ラジオはもちろん、近代的電気製品、携帯電話などとは無縁の環境がそこには「整っていた」。ニカラグアの秘境の地と言うに相応しく思える地であった。 持参した蚊取り線香に火をつけ、蚊よけスプレーを噴霧し、マラリア対策だけは忘れず施した。何もすることがないので、明日の要塞見学を楽しみに、 部屋内にまだ充満する強臭を我慢しつつベッドに横たえた。

  翌朝、第1便の水上バスに乗り込んでエル・カスティージョに向かった。ランチャは、鬱蒼と生い茂る亜熱帯ジャングルを舳先で切り裂く かのように快走し続けた。間もなく到着する頃になると、正面遠方の右岸に小高い丘を視認できた。 そして、近づくにつれてその丘の上に建つ要塞の姿をはっきりと捉えることができた。要塞の天辺には誇らしげにニカラグアの巨大な国旗が翻っていた。 ランチャが船着き場に接岸する頃には、石を堅牢に積み上げた要塞は仰ぎ見るほどに高くそびえていた。その威厳ありそうな姿は見る者に威圧感を周りに放っていた。 早速上陸し、細い坂道をはうように登って、要塞の最も高い所にある石畳の見張り回廊に出た。

  要塞の大きさを確かめるかのように回廊を行ったり来たりしながら、そこから周囲360度の風景をとくと見渡した。見渡す限りジャングルが広がり、 眼下には薄チョコレート色したサン・ファン川が遠くまで伸びていた。要塞がこの地に築造された所以を容易に理解しえた。要塞の規模は思ったほど 大きくないにしても、カリブ海から遡上し侵入してくるどんな小さな敵船や敵兵らをも見逃すことはないと思われるほど、絶好の高台に築かれていた。 下流に向かっても、また上流に向かっても、要塞がそびえ立つ丘以外に高地は無く、監視のための見通しは抜群であった。 要塞直下の川面は波立っていて、急流の様相を呈していることに気づいた。築造当時から自然発生的に川底が浅くなり急流が形成されているのか。 それとも敵船の侵入を阻むため、人為的に砂利や割り石が川床に投下されたものなのか。あれこれ想像しながら、スペインの征服者たちがやって来た 頃からほとんど変わらないと想像されるジャングル風景をしばし眺めていた。

  さて、要塞の外回りの巡覧を終えて、内部を散策してみることにした。要塞内のある大きな部屋に足を踏み入れてみると、そこは展示室に 活用されていた。壁面には15枚ほどの大型パネルが掲示され、何やらニカラグアの歴史などを紹介していた。 余談だが、要塞の修復のみならず、それらの展示は、近年スぺイン政府の国際援助庁からの全面的協力の下で実現されたものであった。そのことは、 幾つかの宣伝用立て看板から読み取れた。

  最初のパネルは、プレ・コロンブス時代のニカラグアの歴史や先住民族について記されていた。次いで、大航海時代における「新大陸の発見」の 歴史、特にコロンブスの探検航海、その後の「スペインからの征服者」による新大陸征服と植民地化、サン・ファン川周辺における英国による 侵攻や海賊の襲撃を防護するために建設された数多くの要塞などについて解説するものであった。また、後に英国海軍提督となったネルソンとニカラグアとの接点、19世紀中頃の 米国カリフォルニアでのゴールド・ラッシュと、パナマ・ニカラグアの中米地峡横断の歴史などについて、パネルは数多くの図絵を添えて説明していた。

  そして、釘付けになったのは「運河の夢」と題するパネル二枚であった。スペイン植民地時代初期より両洋をまたぐ運河開削に関心がもたれていた。 征服者は運河開削の可能性を検討し踏査もしていた。だが、当時の技術では無理であった。後年、サン・ファン川やニカラグア湖を利用して、両洋運河 を建設するという「夢」が芽生えるのは自明の理であった。パナマ地峡よりもニカラグア地峡の方が、地形的、技術的、経済的など総合的観点から 見て有望とみなされていた調査結果も公にされていた。そして、ニカラグアは、米国政府や企業とニカラグア運河建設のための条約や民間協定 を結び、実際に何がしかの工事が実施されもした。だが、いずれも実を結ぶことはなかった。

  他方で、フランス人レセップスによるパナマ運河建設が開始された時は、ニカラグア運河の夢は遠のいてしまった。だが、工事は完全に 頓挫した後、米国がそれを引き継いだ。当時、米国は、パナマでの建設工事を続行すべきか、ニカラグア地峡で開削すべきか真剣に検討した。 政治的な紆余曲折を経て、結局米国議会は僅差で、パナマ運河建設を引き継ぐという政治的選択をした。 他方で、不思議なことに、米国政府は、ニカラグアとの間で条約を結び、ニカラグアに運河を建設できる権利を有するままであった。パナマ運河 工事が再開され、運河が開通した結果、ニカラグアにとっては、自国領土内の地峡に両洋運河を建設するという夢は葬り去られた。

  エル・カスティージョのパネルで、そんな「運河の夢」があったこと、そのおおよその系譜を掴んだ。 ニカラグア「運河の夢」と題する2枚のパネルでの説明書きを流し読みした時は、衝撃を受け鳥肌が立つのを感じた。はっと驚くと同時に、私の脳裏にぐさっと 突き刺さるものを感じた。私的には、展示パネルから目からうろこが落ちる大発見であり、また新鮮なことであった。中米地峡での運河と言えば、 パナマ運河しか頭になかったからである。それ故、ニカラグアに赴任して最初に旅したのはパナマ運河であった。 だが、今回いみじくも要塞展示室ではっと気づかされた。そうだニカラグアの人々にとって、運河と言えば、自国領土内での建設が期待される 「ニカラグア運河」であり、それを建設する夢を持ち続けていることを知った。ニカラグア「運河の夢」の存在を初めて知り興奮した。

  展示パネルはニカラグアの歴史をじっくりと紐解くための資料としてコンパクトにまとめられており、特にニカラグア 運河を知るためのまたとない資料であると考え、全パネルをカメラに切り撮ることにた。帰宅後画像をパソコンに取り込んで、じっくりパネルの 説明書きを熟読し、運河の系譜のことなどを学べると喜んだ。

  さて、要塞展示室の全ての説明パネルをカメラで切り撮った後、路線水上バスで同僚とサン・カルロスに戻り、そこでもう一泊投宿した。 翌日、早速マナグア行きの飛行機の切符を購入しようとしたが、やはり確保できず、やむなく一般乗合の定期路線バスで帰ることにした。 アメリカの小中学生が通学に利用する、車体がオールイエローカラーのスクールバスを転用したものであった。座り心地はとても良いとは言えなかった。

  出発してから1時間もすれば、バスは寿司詰め状態となった。日本のラッシュアワー並みであった。我われ二人は 早くからバスターミナルで待機したので、何とか座席にありつけ幸いであった。バスは未舗装のデコボコの砂利道を頓着せず120kmを突っ走った。 途中一回だけ、舗装道路が間もなく始まる小さな集落でトイレ休憩がなされた。私も同僚も、単調なドライブに飽きて苦痛になることはなかった。 満員の乗客たちの表情や、次々と乗り込んでくる物売りの商売のやり方を興味津々で観察しながら、時に車窓からの自然風景に目をやりながら バスに揺られた。乗客たちや物売りの表情を眺めていると、何となく千差万別の人生が見え隠れしているようであった。今回のバス体験で未舗装の 悪路がどの程度なのか理解した。思いもよらず、そのことが次回のドライブで生きることになった。

  帰宅後、早速画像をパソコンに取り込み、閲覧してびっくり仰天した。何百枚も撮った画像のうち、屋外で撮ったものは、快晴にも恵まれていたので 特段写りに問題なかった。だが、要塞展示室で撮ったほとんどの画像の写りは良くなかった。展示パネルを撮影した画像の焦点がずれており、 ピンボケばかりであった。全く使い物にならならず、ショックであった。展示室は少し薄暗かったが、フラッシュを使わず撮影したためであろう。 大失敗であった。折角「運河の夢」の系譜などを学ぼうとしたが、まともに説明書きを読めなかった。 できるだけ早く、再撮影のために出直すことにした。そうせざるをえなかった。今度はパネルだけうまく撮影することを目的に出戻ることにした。

  次のチャンスを探った。1か月半後にそのチャンスが到来した。2009年4月の「セマーナサンタ・聖週間」という全国的祭日を利用して戻ることにした。 サン・カルロスへの道路事情は分かったので、今度は自身の乗用車で出掛けることにした。かつてはもっとひどい悪路を想像して 走破を諦めていたが、四駆仕様の普通乗用車でも十分走破できると踏んでのことであった。

  「運河の夢」への自身の関心が冷めないうちに、早い段階で画像の撮り直しに現地へ戻りたかった。 砂利道の悪路は6時間以上かかることを覚悟して、一人マナグアを出立した。夕方近く無事サン・カルロス到着し、ホテルに投宿した。 翌日はランチャを一艘思い切ってチャーターして、直に要塞を目指した。今度は画像の写り具合を確かめながら、パネルを 慎重に撮影した。念のためにフラッシュも使った。全てのパネルを切り撮った。早速「運河の夢」の系譜などを紐解けることを楽しみにして、 家路に就いた。

  現地でたまたま所員や協力隊員に会った。そして、協力隊員3人が、ランチャと四駆に同乗して帰ることになった。帰途、車を運転しながら協力 隊員と会話をしていた時、あるアイデアがふと湧いてきた。今後は、ニカラグア運河の有望候補ルートの幾つかを踏査してみるというアイデアを思い付いた。 さらに、一人でランチャをチャーターして河川ルートを探索するのはもったいないと考えた。 そこで、希望する隊員がいるなら運河ルートを巡るツアーへの参加を歓迎すると、彼らを通じて隊員らに誘いをかけた。 特に土木隊員は、その分野からして関心をもつかも知れず、大歓迎すると強調しておいた。

  さて、展示室の画像の写り具合は、今度はばっちりであった。週末など余暇時間を見ては、パネルのスペイン語説明書きを隅から隅まで読み、 その要約も順次作成した。先ずは出来るだけ詳細な地図を入手することから始めた。意外なことに、5万分の1の全国地図があることが判明した。 国土地理院で踏査対象地域の地図数10枚を買い求めた。実は、JICAがその全国国土地図作成に全面協力したプロジェクトの素晴らしい成果で あった。さて、自分でもこれほどまで「運河の夢」に前のめりになるとは思いもしなかった。地図数十枚を自宅の壁に張り付け、 運河候補ルート上にある河川のプロッティング、車とランチャによる踏査ルート案を練り始めた。こうして、 ニカラグア運河の学習と、その有望候補ルートを踏査する旅への第一歩を踏み出した。をなった。ニカラグアでの仕事と生活の楽しみがますます増えた。




    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第8節 ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


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