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    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第2節 ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど


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     第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1): ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2): エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3): サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる



  「海賊と私掠船」と題する展示パネルは5人ほどの海賊のことを紹介するものであった。スペインによる征服と植民地化を通して中米・カリブ海の 沿岸都市が繁栄し、金銀財宝や価値ある商品を積んだスペイン船がカリブ海を行き来すると、海賊による焼き討ちや襲撃のターゲットになり、 スペイン王室を憤慨させるような大損害を被ることがしばしばであった。 スペインは、これに対抗して沿岸都市の周囲に堅牢な砦や要塞を築造し防護に励んだ。また、船団形式をもって海賊船を近づけない ようにした。16世紀後期から、カリブ海はあらゆる類の海賊行為の舞台に変わって行ったと、展示パネルは記している。海賊や私掠船の主要な ターゲットは、金銀や商品を積載して世界の海を往来するスペイン船、そして海から容易にアクセスできる沿岸の繁栄した町、例えばサント・ドミンゴや カルタヘナ、パナマ・シティ、ポルトベロなどであった。「近代海賊の父」と見なされる英国人海賊フランシス・ドレークは、 1585年サント・ドミンゴやカルタヘナへの襲撃に成功した。そして、彼はグラナダを攻略しイギリス女王に「戦利品」を献納したかったが、 それは果たしえなかったと綴られている。

  17世紀中頃のグラナダは、莫大な富が集積される中米の中核的都市の一つであった。大量の価値ある商品が集まり、サン・ファン川経由でパナマの ポルトベロに運ばれ、スペインへ向かう護送船団に積み込まれた。展示パネルでは、グラナダ襲撃で同地に足跡を遺した 数人の海賊について紹介されている。例えば、1665年にはジャマイカの海賊フアン・デイビッドが、次いで1666年にはバッカネーロ(フィリブステーロ、英名では バッカニア、フィリバスター; 特に17~18世紀頃にカリブ海付近で荒らし回した海賊のこと)と称される英国人海賊 エドアルド・マンスフィールドらが、サン・ファン川を遡上し、グラナダを強奪したことに触れている。

  展示パネルにはさらに、数人の極悪非道の海賊の一人として、ウイリアム・ダンピアの名も刻まれている。彼の部下は1685年に、グラナダを 強奪し焼き払い、さらに北に向かい古都レオンで同じことを繰り返したという。そして、当然ながらヘンリー・モーガンの名前も記されている。 ニカラグアに赴任後暫くしてパナマ運河を訪れ、カリブ海側の港町ポルトベロに足を伸ばした折に、初めてモーガンのことを知ったばかりであったが、 彼の名を再びエル・カスティージョ要塞の展示室で目にすることになった。

  そのパネルによれば、モーガンは「1665年、サン・ファン川に侵入し、グラナダを占拠し、3日間にわたり強奪を繰り返し、50万ポンド貨 以上の分捕り品をもって退却した」。そして、彼は後に、グラナダは英国の「ポーツマスのごとく立派な町で、7つの教会、1つの大聖堂、多くの学校と 修道院がある」と書き記している。かくして、スペインは即座にエル・カスティージョに要塞を建設するための工事に取りかかることになった。

  要塞探訪後いろいろと海賊のことや、特に再び名前を目にしたモーガンが一体何者であるか、彼が送った生涯やニカラグアに遺した足跡などに 興味を抱き、いろいろ調べ始めた。そして、サン・ファン川への侵入と要塞への侵攻に名を刻んだもう一人の人物であるホレーショ・ネルソンが 展示パネルにごく概略的に紹介されていた。本節では、展示パネルの記述だけでなく、その後、モーガンやネルソンに関心をもって、書物 やインターネットを紐解き学んだことを踏まえて、ニカラグア地峡にその名を遺した両名の足跡をたどることにしたい。

  先ずは、英国人海賊ヘンリー・モーガン (Captain Sir Henry Morgan; 1635-1688)のことを紐解きたい。パナマのポルトベロの税関博物館の展示で 見かけたあの巻き髭のモーガンがニカラグアと深く関わっていたことに、一種の感動を覚えた。歴史な足跡を遺し、疾風の如くニカラグア から去って行った悪名髙い人物である。彼は英国南部のウェールズで生まれた。1650年に15歳にして、西インド諸島バルバドス島に年季奉公 のため渡海した。1655年に5年間に渡る年季奉公が満了すると、ジャマイカ島に渡り、そのまま海賊の世界へ足を踏み入れたといわれる。 それ以後、約20年間に及んだ海賊業から引退するまで、グラナダ襲撃を手始めに、キューバ、パナマのポルトベロやパナマ・シティー、さらに 現在のベネズエラのマラカイボなど、スペイン人征服者・入植者らが繁栄を謳歌していた植民都市を襲撃し、金銀財宝を略奪するなど、海賊行為の 限りを尽す人生を送った。

  スペインの征服・植民地時代の早い段階からグラナダの繁栄ぶりは知れ渡り、従って海賊に目を付けられるのも早かったようである。 モーガンは、1655年の20歳過ぎの頃、メキシコのカンペチェ湾、またホンジュラスやニカラグアなどの沿岸で海賊行為を働いていたが、 先住民のインディオからニカラグアのグラナダの繁栄ぶりを聞き及んで、それを襲撃し金銀財宝を略奪することに目を向けるようになった。

  グラナダはニカラグア湖北西端最奥にある港町であった。内陸部の奥深くに位置しながら「大西洋岸に立地する海港」と考えられていたのである。 モーガンは、1666年に、全長150km以上のサン・ファン川をボートで一週間かけて遡上し、 ニカラグア湖を5日間かけて北西端最奥へと漕いで縦断し、グラナダを3日間にわたり略奪し焼き打ちにした。その戦利品・分捕り品としてごっそり 略奪した財宝は、50万ポンド貨であった。カヌーで川と湖を遡航したので、嵩張る財宝は持ち帰ることができず、そんな持ち切れない財宝は 放棄する他なかったという。モーガンは、当時本拠地にしていた英国領下のジャマイカに戻って、この襲撃の「功績」のお陰で海賊として 一躍有名になった。かくして、モーガンは、ニカラグアと大いに所縁のある人物として記録されることになった。

  実は1600年には、スペインは海賊による襲撃からグラナダを防御するため、サン・ファン川の流頭部(ニカラグア湖から川が流出するところ)にある 町サン・カルロスに砦を築造していた。サン・カルロスは、ニカラグア湖の南東端にあって、同湖から唯一流れ出るサン・ファン川の始点にある町である。 グラナダはその対極の北西端にあった。そして、モーガンのグラナダ略奪から10年後の1675年には、サン・カルロスから50kmほど 下流の集落エル・カスティージョに、堅牢な要塞(正式には「インマクラーダ・コンセプシオン要塞」)を完成させた。 既述の通り、モーガンは、後に自身の書において、「グラナダは英国ポーツマスのように大きく見事な町である。7つの教会と一つの大聖堂があり、 数多くの学校、修道院がある」と語っている。 

  襲撃はグラナダだけではなかった。翌年1667年には、彼は海賊の巣窟であったジャマイカで海賊の総大将に選ばれ、その後私掠免許状が 与えられ、海賊活動を再開するに至った。1667年頃の32歳の時に、パナマのカリブ海沿岸に位置する交易中継港市(スペインの金銀財宝の積出港でもある) ポルトベロを襲撃した。ポルトベロには幾つもの要塞が築かれ、「難攻不落の要塞」を擁するポルトベロを、激しい攻防の末に奇襲作戦でもって占拠し、 莫大な金銀財宝を略奪したという。彼はまた、1668年にはキューバのサンタ・マリア・デル・プエルト・プリンシペ(現在はカマグエイ)という、 沿岸から60kmも離れている町を襲撃をした。1669年2月頃の34歳の時には、現在のベネズエラのマラカイボを襲撃し、住民に拷問を加えて財宝の在り処を 訊き出し強奪した。マラカイボ湖から外洋へ出る湾口でスペイン艦隊に包囲されたが、火船による徹底抗戦をもって危機を突破するに至った。

  さらに、1670年12月頃の35歳の時、先ずサンタ・カタリーナ島を降伏させた後、1671年パナマのカリブ海側のチャグレス川河口に到着し、 モーガンは仲間を引き連れ、チャグレス川を遡り、ジャングルをかき分け、「カミーノ・レアル(スペイン王に通じる道)」の中ほどのジャングル において待ち伏せし、金銀財宝を満載したロバ隊を襲撃し、莫大な財宝を強奪した。余りに奪い過ぎたことから、財宝をジャングルの中に埋めて秘蔵するほど であった。

  その後、深刻な食糧不足と闘いながら苦難を克服した末、パナマ・シティへと進撃し、スペインと南米大陸との交易中継地として繁栄していた パナマ・シティに攻め入り、激闘に勝利して莫大な金銀財宝を強奪し、町を焼き打ちにし、徹底的に破壊し尽くした。 そのことも、ポルトベロへの旅からニカラグアに帰国してずっと後に知ったことである。 モーガンが1670年に行ったパナマ強奪についてスペインから抗議を受けた英国本国は、モーガンとジャマイカ総督モディフォードを拘留し、 一旦本国へ送還した。だが、それは外交上の体裁を取り繕ったところが大であった。

  海賊業から身を起こしたモーガンは、海賊の身でありながら、1674年には英国王室からついにナイト(騎士)の爵位に叙せられた。また、 カリブ海の英国植民地であり、かつカリブ海地域における英国によるスペイン植民地への侵攻を遂行するための最大の拠点となっていたジャマイカの副総督 の地位にまで上り詰めた。そして、1680年にはさらに代理総督にまでなった。かくして、彼は人生後期には本国を去って、海賊の 巣窟のような島ジャマイカに戻り、海賊の中の英雄にまで祭り上げられた。1688年8月25日、モーガンは享年53歳にして他界した。 彼はジャマイカの中心都市ポート・ロイヤルに葬られたが、同地を襲った大地震のため彼の墓は海底に没してしまったという。

  16世紀には中米地域のほとんどがスペインの支配下にあったものの、17世紀に入るとスペインのカリブ海地域における制海権は、 英国、フランス、オランダなどの新興列強諸国からの挑戦を受け、あちこちで綻びが目立ち始めていた。 カリブ海で圧倒的な覇権を謳歌していたスペインに対して、それら新興国がスペイン支配地に対し、至るところで 侵攻を繰り返し、激しい勢力争いが展開されるようになっていた。スペインは、英国による現在のベリーズやニカラグアのカリブ海沿岸地域への軍事的 干渉や占拠などの挑戦を受け悩まされていた。だが、概して見れば、新大陸におけるスペインの圧倒的な支配力はまだまだ揺るぎないものであった。 ニカラグアでは、スペインは、英国軍などによる内陸都市グラナダなどへの侵攻を阻止するため、また海賊による襲撃や 略奪から防御するために、サン・ファン川沿いに幾つもの要塞を築造した。特にエル・カスティージョの堅牢な要塞は川を遡上する 敵軍や海賊の遡上に睨みを効かせていた。サン・ファン川がニカラグア湖から流れ出る始点であるサン・カルロスにも要塞が築かれていた。

  さて、エル・カスティージョ要塞でのパネル展示で最も前のめりになったもう一人の歴史上の人物は、後に英国海軍提督となったホレーショ・ネルソンである。 「サン・ファン川でのネルソン」と題するパネルでは、ネルソンがその若き頃エル・カスティージョ要塞への侵攻作戦と関わって いたことが彼の肖像画の挿絵とともに紹介されている。要塞のパネルで初めてその史実を知って、驚きを隠せなかった。

  展示パネルはネルソンがその侵攻に足跡を遺して行ったエピソードを手短に次のように記している。1780年、ネルソン艦長は、2000人の兵士と 50隻以上の船でエル・カスティージョへの侵攻に参加し、激しい戦闘の末に要塞を占領した。しかし、ネルソンは1目を失い、要塞占領の少し前 に病(赤痢)のために退却せざるをえなくなったという。ところで、 ずっと後の19世紀中頃のこと、ニカラグアはすでに独立していたものの、英国人が1848年になって、サン・ファン・デ・ノルテ(サン・ファン川河口の 町)を占領して保護領を創建し、町をグレータウンと呼んだ。英国人の支配下となったグレータウンは、自治政府をもち自由港を設け、さまざまな国の公使も居住し 重要な商業基地へと変貌して行った。港からは木材、金銀、皮、藍などが輸出されたと、そのパネルには綴られている。

  英国による侵攻についてもう少し語ることとしたい。新興国家・英国はジャマイカを本拠地にして、1780年に ネルソンらの部隊を、エル・カスティージョに向けて派遣し、サン・ファン川を100kmほど遡上し、その要塞を攻略しようと企てた。 それには深慮の戦略が隠されていた。英国はそこを支配下に治めた後、さらにグラナダやレオンを攻略し、その周辺地域への領土拡大を狙っていた。 ニカラグア地域の支配を成就できれば、「新大陸」のスペイン支配を南北に分断することができるという戦略的意図があった。即ち、中米北側の「 ヌエバ・エスパーニャ副王領」と、南米大陸の「ペルー副王領」などと分断することが可能となる。 特にニカラグア支配後にさらにパナマを支配下に置くことができれば、両副王領は完全に分断され、新大陸勢力争いにおいて英国を有利な 立場に置くことができるはずであった。

  英国のいずれの戦略家が、ニカラグアへの侵攻と「新大陸」の南北分断という戦略をグランド・デザインしたのか。 英国によるベリーズの植民化やエル・カスティージョへの攻略とその先の中米地域支配構想は、当時のスーパー・パワーに対する深慮の戦略的挑戦であったといえる。 英国の戦略は、グラナダやレオンなどを含むニカラグア地域を支配下におくことにより、スペインが圧倒的優位性をもつ中南米の「新大陸」支配を 南北に分断することであった。さらにニカラグア地峡における運河ルートを自国支配下に置くことを目指していたといえよう。

  因みに、英国はニカラグアの大西洋寄りの広大な亜熱帯樹林地帯を支配下に置くことに成功した。現在では、同地域は2つの自治区、即ち北および南大西洋自治地域 となっている。かつて英領ホンジュラスと呼ばれた現在のベリーズと同様に、スペイン語文化圏とは異なり英語文化圏に色分けされている。

  「サン・ファンの城塞」、即ちエル・カスティージョ要塞を奪取し、次にニカラグア湖ならびにグラナダ、レオン両市を支配下に治めることで、 新大陸におけるスペイン領を南北に分断しようという戦略であった。そして、両大洋を結ぶ運河を建設するとすれば、 最も容易なのがこの地域であった。英国軍幹部は、その仕事が完成すれば、それによってもたらされる恩恵はかつて人類がなしえたどんな 偉業をも凌駕するほどの重大な意義を持つであろう、と考えていた。当時英国の「アメリカ軍管区」の長官職にあったジョージ・ジャメイン卿は、 その建設計画を一度は裁下したことがあった。

  さて、展示パネルをきっかけにして、ずっと後のことになるが、ネルソンのことを紐解きニカラグアとの関わり合いについて深掘りしようとした。 大いに参考になったのは、ロバート・サウジー著作、増田義郎監修、山本史郎訳の「ネルソン提督伝[上] 」(原書房、2004年)と題する 図書である。そこには、ネルソンが若かりし頃(22歳の頃)、サン・ファン川を遡上し、エル・カスティージョ要塞(サン・ファン城塞のこと、 正式名称は「インマクラーダ・コンセプション要塞」)を攻め落とすまでの奮闘振りが詳細に語られている。

  1780年の初め、攻略の任務を帯びた500人の英国兵士がネルソン艦長のフリゲート艦「ヒンチンブルック号」(28門砲艦)に護衛されて、ポート・ ロイヤルからホンジュラスの「神に感謝する岬」(グラシアス・ア・ディオス岬; Cabo Gracias a Dios)へと出港した。3月24日になって、サン・ファン川河口に取り付いた。艦長としてのネルソンの任務はここが完了地点であったが、 彼は兵士たちをさらに移送することを決意した。モスキート湾岸で徴収したボートと、「ヒンチンブルック号」の付属艇2隻に、 約200人の乗員が分乗し、遡行が始まった。乾期の後半期であった。当然ながら川の水位は低く、それ故にこのような遠征には最悪の時期であった。 インディオたちが浅瀬や砂州の間にできた狭い水路を先行して遡って行った。兵士たちはたびたびボートから降りて、全力を尽くしてボートを押すか 引くかすることを余儀なくされた。

  エル・カスティージョ要塞は、ニカラグア湖と袂を分かつサン・ファン川流頭から下流へ50kmほど、河口からは上流へ100kmほどにあった。 英国部隊は翌月11日に城塞の前に姿を現わした。下流のサン・バルトロメオ島の要塞を奪取した2日後のことである。雨期が始まった。 そして24日には城塞に白旗が上がった。しかし、部隊が勝利しても、当てにしていた物資の補給はなされなかった。城塞とは名ばかりで、 獄舎よりもひどいものであったという。川の水嵩が増し、波が逆巻き、上流への遡行はほぼ不可能に近かった。部隊は5か月間にわたって悲惨な悪条件下で 踏ん張った。自然との戦いを強いられたと言ってよかった。同書には概略このように綴られている。結局、侵攻部隊は劣悪な亜熱帯ジャングルの 自然環境には勝てず、また食糧などの補給が困難を極め、占拠から5か月後には撤退を余儀なくされた。

  ネルソン自身がこの自然との過酷な戦いから逃れ得たのは、時を狙いすましたかのように彼に転属命令が下ったからである。他方、ネルソンは要塞の 包囲戦が始まって数日後、流行していた赤痢に酷く冒されてしまった。ネルソン自身が戦線を離脱して停泊地に帰投したのは、要塞が陥落する前日のこと であった。そして、彼の転属の知らせをもたらしたスループ艦「ライオン号」にて直ちにジャマイカを目指した。本復を期すための唯一の手立てとしては、 本国への帰還につき許可を願い出る他なかったという。コーンウォリス艦長 (後に海軍大将となる) がネルソンを「ライオン号」で本国へ連れ帰った。艦長の暖かい 看病と気遣いのお陰で長らえることができたと、ネルソンは生涯思っていた。

  英国部隊はこのように一時期エル・カスティージョ要塞を占拠したものの、部隊への補給が困難を極め、また自然との過酷な闘いに疲労困憊して、 占拠継続が困難となって総員撤退を余儀なくされた。若き頃のネルソンは、この要塞攻略に深く関わり、サン・ファン川にその足跡を遺した。 だが、九死に一生を得て英国へ帰還した。

  私的には、ニカラグアが後のネルソン海軍提督と深い関わり合いをもつ地であることを初めて知り、誇らしくも思えた。今でもエル・カスティージョ から河口までは自然だけが残された辺境の地である。後の事になるが、鬱蒼と茂る亜熱帯樹林の中を細かく蛇行しながら流れるサン・ファン川を ボートでフルに上下することができた。要塞には三度探訪することができたことに、今更ながら身震いをする思いを噛みしめた。

  因みに、ネルソンは、1758年9月29日英国のノーフォークに生まれた。12歳の時に英国王立海軍に入隊し、その後は勲功をなして、誉れ高き 海軍歴を積み重ねて行った。彼は、後に英国海軍の提督となり、かの有名な「トラファルガー岬沖の海戦」ではスペイン無敵艦隊とフランス連合艦隊を撃破し、 英国への侵略の脅威を跳ね除け、打ち砕いて、英国を偉大な勝利に導いた。海軍副提督・海軍中将まで上り詰めた、英国の最たる 英雄の一人である。

  ネルソンは、海軍と海戦における「忠誠心」と「勇気」を常に鼓舞してきた。海戦における彼の戦術はオーソドックスなものではなかったが、 成功を収めたが故に、その結果をして彼の名を高めることとなったいう。彼は今もって英国海軍における英雄的資質とは何か、あるいはその行為とは いかなるものであるかを示すシンボルとなっている。後世において常に語り継がれる、英国海軍における価値・規律・海軍戦略に関する伝説的な 基準を打ち立てたとされる。ずっと後になっての事であるが、英国南部ポーツマスの海軍歴史地区に係留されるネルソン提督の旗艦「ビクトリア号」 に足を踏み入れることができた。現在でもそれらが海軍の重要な伝統として息づいていることが伝わってくるようであった。

  1794年のフランスとの戦いでは右目の視力を失い、1797年のスペインとの戦いでは右腕を失いながら、勲功を得た。 1801年、青色艦隊中将に昇進し、子爵に叙せられた。1804年には、白色艦隊中将に任命された。 そして、1805年10月21日、「トラファルガー岬沖の海戦」において勝利を迎えようとしていた最中に、狙撃兵からの銃弾を受けこの世を去った。 遺体はロンドンのセント・ポール大聖堂に眠っているという。

  休題閑話。さて、私を目覚めさせてくれた「ニカラグア運河の夢」であるが、特に19世紀中期に米国でゴールド・ラッシュが起こってから というものは、中米地峡の横断回廊のこと、さらに運河を切り拓くことについて急速に話題にのぼるようになった。勿論、バルボアが1513年にパナマ地峡のジャングルを横断し「南の海」 (現在の太平洋)に到達し、スペインによる新大陸の征服・植民地化が始まって以来、中米地峡での運河開削の可能性について何度も提起されてはいた。 また、ゴールド・ラッシュ以降、ニカラグア運河の夢が幾度か政治の舞台に浮上したり、また消えたりしてきた。 だが、パナマ運河が完成した後にあっては、その夢は完全にしぼんでしまったものの、21世紀の現代でさえもニカラグア運河の夢が語られている。 次節では、ゴールド・ラッシュから170年間におけるニカラグア運河の夢の系譜を概観してみたい。エル・カスティージョの展示パネルは、 そのことを知り学ぶうえで貴重な取っ掛かりを与えてくれた。

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    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第2節 ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、提督ネルソンなど


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     第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1): ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2): エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3): サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる