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    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第3節 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる


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     第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1): ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2): エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3): サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる



  興味津々でエル・カスティージョ要塞の展示室に掲示された全ての展示パネルを2度も巡覧して、沢山の説明書きや関連図絵を目で追った。最後の2枚の パネルに衝撃を受けた。赴任以来この方ずっと運河と言えば、パナマ運河のことばかりが頭にあった。赴任して初めての海外への旅もパナマ運河であった。 だが、展示室ではっと気づかされた。ニカラグアの人々にとって運河と言えば、自国領土内に建設されるはずであったニカラグア運河であり、 それを建設することが今もって夢であることを知った。

  エル・カスティージョに出直して展示パネルを撮り直した後、「運河の夢」と題するパネルをスペイン語辞書を片手にじっくり読み直した 時には、改めて目からうろこが落ちる大興奮で、鳥肌が立つのを感じた。それまで、ニカラグア運河建設について何の予備知識も持ち合わせなかった ので、それを知った時は、新鮮かつ衝撃的な知的好奇心を呼び起こしてくれた。それがきっかけとなって、「運河の夢」の時系列的な系譜や「その夢の 何たるか」について紐解くようになった。ニカラグア人になったかのように、夢に前のめりになって、それを追いかけることになったことは、 自身でも驚きであった。

  コロンブスは15世紀末から4回もインディアスというアジア東方の世界にある中国や日本を目指した。彼はエスパニョーラ島を日本、キューバ島を 中国と考え、さらに西方を目指し、エリュートラー海(インド洋やアラビア海)へ通じる海道を探し求めた。だが、発見することはできなかった (南北アメリカ大陸が立ちはだかり、海道は、新大陸の南北端にしかなく、彼が探検したカリブ海沿岸には存在せず、従って存在しないものは 発見のしようもなかった)。

  さて、インディオから南に海があることを知ったバスコ・ニュネス・デ・バルボアは、その話の真偽を確かめるために、パナマのカリブ海沿岸から ジャングルをかき分け、苦難の末に地峡を横断し、ついに「南の海」(現在の太平洋)の岸辺に到達した。1513年のことである。バルボアは、 後にパナマ地峡での運河開削によって両大洋間を行き来することの可能性について示唆していた。だがしかし、結局は当時の技術では開削不可能との 結論に至り、その事業案は断念されたという。

  スペイン王室やコンキスタドーレス(征服者)にとって、「北の海」(大西洋)から「南の海」に抜ける海道の在り処は常に関心事であった。 1525年にコルドバによって派遣されたルイ・ディアスは、サン・ファン川をエル・カスティージョまで探検したが、そこで終わった。 その後グラナダから探検に赴いたアフォンソ・カレーロとディエゴ・マチューカは、1539年にサン・ファン川の流路域やその河口沿岸域、さらにその 北側の内陸域を踏破し、多くの地理的情報を得た。彼らの探検踏査とは、グラナダからニカラグア湖北岸を経て、一人がサン・ファン川を下り、その支流の サバロス川を遡上し、その分水嶺を越え、プンタ・ゴルダ川を下った。他方は、サン・ファン川を下りカリブ海に出た後、海岸沿いに北上し、 プンタ・ゴルダ川を遡上した。そして、二人は途中で合流した。かくして、16世紀中ほどにおいて、ニカラグア湖の最奥地にあるグラナダを 「大西洋に面する海港」と捉え、カリブ海に浮かぶスペイン島嶼領や本国とを結ぶ商業ルートを切り拓くことに繋がった。パナマ地峡の横断では、 ジャングルを歩行する辛苦の横断であったので、ニカラグア地峡横断はその代替ルートとして期待された。展示パネルにはそんな趣旨のことも綴られていた。

  結局、カリブ海島嶼の西方に横たわる陸地(中米地峡)には「海の道」がないことが明確になった後は、両洋をつなぐ水路の開削に関心が 注がれた。即ち、スペインには、「新大陸」の征服と植民地化のごく早い段階から、中米地峡に運河を建設するという思いがあるにはあった。 コルドバによる探検隊派遣のずっと後のことになるが、1567年になって、スペイン・フェリップ2世は、 ニカラグアにおける運河ルートを特定するための技術者チームを送り込み、運河の可能性を調査させたりもした。しかし、パナマ地峡の場合と同様に、 ニカラグア地峡での運河開削は当時の技術力では実現は難しいと結論付けられた。その後、運河のことは19世紀中頃まで、中米地峡での運河開削に 関する具体的構想が世に提起されることも、また着手されることもなかった。そして、後世の流れを大筋で捉えれば、新大陸での征服と植民地化は 深化する一方で、スペインからの独立を希求する意識が芽ばえつつあった。

  ニカラグアでは1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月グアテマラ総督領が独立すると、ニカラグアもスペインの支配から解放された。 他方、米国は新興国としてその国勢を増進させてきたとはいえ、英国を凌駕しパックス・ブリタニカに取って代わり、世界の主導権を握るところまでは 達していなかった。米国と英国は互いにけん制し合い、勢力バランスを取る必要もあった。他方、後年になって中米地峡が注目される大きな 出来事が米国で起こった。即ち、1848年になって米国カリフォルニアにおいて金鉱が発見され、錬金を夢見た人々のゴールド・ラッシュが沸き起こった。 米国東部などから西部へゴールドを求めて人々の大移動が起こった。そして、中米地峡を横断して米国東岸から西岸へ移動する何らかのルート づくりが事業家の間で大きな関心の的となった。

  1846年、先ずアメリカとコロンビアとの間で条約が締結され、米国はパナマ地峡における「地峡横断通行権 (鉄道の建設権)」を獲得した。 そして、パナマ地峡では、大陸横断鉄道の建設が1850年に開始され、1855年に開通した(横断鉄道は1869年に完成した)。 他方、ニカラグア地峡には、サン・ファン川やニカラグア湖が存在しており、わずか数10㎞の陸路を馬車などで横断すれば、 両洋間を行き来できたことから大いに注目された。米国実業家らに、河川と湖を最大限利用しつつ両洋運河を建設するというアイデアが芽生える のは当然の成り行きであった。後年には、パナマ地峡よりもニカラグア地峡の方が、自然地形・開削土木技術・経済合理性などの観点から 有望とみなされる調査結果も幾たびか報告されるようになった。

     ニカラグアでは、1849年に、米国政府の後援を受けた米国人コーネリアス・ヴァンダービルトの運輸会社とニカラグア政府との間で、 ニカラグア運河建設協定が調印され、運河建設に関する事業・運営管理権 (コンセッション) が譲渡された。 そして、同年9月には、ニカラグア議会が、ヴァンダービルトとの協定を批准するに至った。

  かくして、ニカラグア政府によって、ある運河ルートが認可された。即ち、サン・ファン・デル・ノルテ(カリブ海側にあるサン・ファン川の 河口の町)からサン・ファン川を遡上し、ニカラグア湖を縦断し、さらにティピタパ川を北へ遡上し、その後マナグア湖を縦断した後、古都レオン 近辺をさらに北上して、太平洋沿岸の入り江に面する町エル・レアレッホに通じる運河ルートが認可された。なお、レアレッホは、スペイン植民地時代初期に マニラ・ガレオンを建造する造船所が存在したとされる大変古い町である(現在は何の造船所跡もない)。

  首都マナグア、グラナダ、レオンが立地する太平洋側の地域には、カリブ海側の地域に見られるような亜熱帯性密林の広がりもなく、また高い山地もなく (カラソ台地が太平洋岸に沿って横たわるので、その台地を迂回するように同運河ルートは北方へ長く伸びる結果となっている)、さほどの自然的 障害はないので、グラナダから北上して太平洋沿岸レアレッホまで開削するに克服不可能な致命的困難性はなかった。基本的に、河川、湖、 平野部を通る運河ルートであるので、検討に値するものであったが、総延長距離がゆうに500km以上に及ぶ(水路340km、陸地160kmほど)のが 最大の難点といえた。

  実は、1850年に、米国と英国との間で「クレイトン・ブルワー条約」なるものが締結された。その内容には唖然とさせられる。概略として、 両国は「ニカラグア地峡を両国の共同管理下に置くこと」とする。両国のいずれも、「他方と合意することなく、地峡の通航可能な運河に関する いかなる排他的な支配権を取得すること」をなさず、「また維持しないこと」とする。「中米のいかなる部分についても、これ以上占領することをしないこと」 に合意する、というものである。ニカラグア政府は、同条約交渉や締結において一切関与することはなかった。当時の英米二大列強国は、 ニカラグアの立場や政治的意向を全く関知することなく、この大胆な政治的合意に達していた。

  さて、米国での1848年以降のゴールド・ラッシュの際には、米国西部への移住者は、当初、東部からパナマまで外航船で渡航し、そこから チャグレス川を遡上し、陸路を51kmほど強引に辿り、太平洋岸のパナマ・シティに出て、その後は外航船でカリフォルニアへ向かうという パナマ・ルートを志向するようになった。

  だが他方では、1849年に米国実業家コーネリアス・ヴァンダービルドの「アメリカ大西洋太平洋汽船会社」がサン・ファン川の排他的航行権を得た。 そして、1851年6月には、バァンダービルトの「アクセサリー・トランジット会社」が正式にニカラグア湖を利用した通航路の運行を開始した。 パナマ鉄道が1869年に完全開通する頃まで、ニカラグアのカリブ海沿岸サン・ファン・デル・ノルテ (サン・ファン川の河口の町。英国はグレータウンと名付けた)には、ロンドン、ニューヨーク、ニューオリンズなどから沢山の蒸気船が寄港した。 彼が開拓したのは、ニューオリンズまたはニューヨークからサン・ファン・デル・ノルテへ、さらにサン・ファン川を小汽船に遡航し、ニカラグア湖を西航し、その湖畔に あるラ・ビルヘン (サン・カルロスの西北西の対岸、あるいはオメテペ島のほぼ西方対岸にある) で上陸し、その後は陸路20数キロを定期乗合馬車など で横断し、そこからサンフランシスコまで外航蒸気船で向かうというルートであった。ニューヨーク~サンフランシスコ間を42日間で結び、 年間1万人以上を輸送したと、展示パネルは説明する。

  ヴァンダービルトは、サン・ファン川のデルタ地帯の河川やラグーン(潟湖)において、何台かの浚渫機船でもって浚渫作業を行ない、堆積によって 船が通航不能となることを防止した。浚渫土砂は鉄道のレール敷きに利用された。当時の浚渫機船の一隻がサン・ファン・デル・ノルテの運河 (後述するメノカルが開削した全長800mほどの運河)入り口近くのラグーン(サン・ファン・デル・ノルテ湾の一部)に沈没し、錆びついた 上部構造だけを水面上に高く突き出したままとなっている。現在でも放置された船影の一部を見ることができる。

  1850年代の米国でのゴールド・ラッシュ時代を含めて、未だパナマ地峡を横断する鉄道がなかった頃には、サン・ファン川~ニカラグア湖の 水上ルートは大変貴重なものであった。数多の夢見る金鉱山師や採掘者・一般旅行者たちが、また多くの奴隷が、南米大陸南端ホーン岬を大きく迂回して 海路を旅するよりも、この河川・湖と陸路を横断後、蒸気船でサンフランシスコへと向かった。また逆ルートをたどる旅人も大勢いた。 「トムソーヤの冒険」を著したマーク・トウェインは、サンフランシスコから東部海岸へ移動する時、このルートを利用した。特にカリフォルニア でのゴールド・ラッシュ時には大勢の欧米人がこのルートを利用した。米国の鉄道王といわれるヴァンダービルトは、このサン・ファン川~ ニカラグア湖~リーバス地峡横断路の開拓・運営によって、1850年代の5年間で10万人の乗客を輸送し巨万の富を築いたといわれる。

  だがしかし、米国の郵船会社がパナマ地峡横断鉄道の建設を始め、1869年にパナマ鉄道が開通したが、それに伴い、早くも旅客輸送路としての ニカラグア横断路は急速に衰退し、ついには閉鎖される運命となった。他方、このパナマ鉄道建設によってパナマ運河建設の実現可能性が大いに 高まることになった。

  1869年のパナマ鉄道の開通はサン・ファン川ルートの減退を招いたが、それにもかかわらず1875年にカルロス・N・ペーラスは、「ニカラグア 汽船・航行会社」の下に、「カリブ・太平洋トランジット会社」を創建し、23隻の船をもってサン・ファン川を通航し続けた。その中には200トンの 汽船「エル・ビクトリア号」(1882年に進水)が含まれていた。

  さて、1872年に米国大統領の下に「地峡運河委員会」が設置されたり、また1876年には米国政府の「大陸間運河調査会」が中米地峡の運河として ニカラグア・ルートが最適であると答申したりした。そのような状況下で、先ず、列強国フランスの動きが出てきた。 1878年になって、パナマを領土下におくコロンビアが、レセップスが統括するフランスの会社へ、パナマ運河に関する事業・運営管理権を譲渡した。 そして、米国に先駆けて、1880年1月には、レセップスは(スエズ運河を既に完成させていた)、パナマ地峡に海面式運河の開削工事を起工した。 だが、レセップスの運河会社は、亜熱帯ジャングルでの激しいスコールやマラリアなどの疫病との闘いに翻弄され、工事は難航した。そしてついに、 会社は財政破たんし、1889年に倒産に追い込まれた。そして、レセップスは1894年にこの世を去ってしまった。

  他方、パナマ地峡で運河建設がまだ途上にあった1884年に、米国とニカラグアとの間で「ザバラ・フレリンギセン条約」が締結され、 米国の諸会社によるニカラグア運河の建設が認められた。同条約にはメノカル (Menocal) の「マリタイム運河会社」に運河建設の事業・ 運営管理権(コンセッション)を付与することも組み込まれていた。ここに、「運河の夢」の記念すべき第一歩が踏み出されることになった。

  片や、レセップスが破産に至った1889年の10月に、メノカルの「マリタイム海運・運河会社」がニカラグア運河の建設工事を開始した。サン・ ファン川河口にあるサン・ファン・デル・ノルテからサン・ファン川に沿ってジャングルを伐採し、鉄道を敷き、幅員85メートル、深さ5メートル の運河の開削を開始した。メノカルが統括する技術者たちが、蒸気クレーンで桟橋を建設し、入り江を浚渫し、マチュカの早瀬・急流の区間を 整備した。また、1600人の労働者を雇って、運河建設と平行して11kmにおよぶ鉄道を建設した。また、サン・ファン・デル・ノルテとエル・カスティージョ の間の電信電話線をも敷設した。

  だが、米国での経済恐慌に連鎖して、メノカルの運河会社が財政危機に陥り必要な資金が続かず、1893年に倒産の憂き目にあい、この運河開削の 試みは見捨てられてしまった。当時に開削がなされたのは、距離にしてわずか800メートルのみに留まった。現在でもその運河開削の跡が ジャングルの中に残されているのを見ることができる。100年以上経た現在では、両岸のジャングルはすでにすっかり再生され野生然としたものと なっている。

  運河の夢はここにきて存続の危機に瀕することになった。米国はニカラグアとの条約によって、自国の会社にニカラグアとの契約の下でニカラ グア運河を建設することを認め、それを後押しした。だが他方で、米国は同条約をそのままにしながら、パナマ運河建設の方へと傾いて行ったいた。即ち、 パナマ運河建設の権利を譲り受け、かつ建設することに軸足を移して行くことになった。そのために、ニカラグア運河の夢は風前のともしびへと運命を辿る ことになる。

  先ず、レセップスのパナマ運河建設が頓挫した後、米国がそれを引き継いで完成させるか、それともニカラグアなどに建設するのか、米国はそれに 真剣に向き合うことになった。即ち、議会において、パナマ建設を引き受け続行するのか、ニカラグア地峡に運河建設をするのか、両派で激しい政治論争が 繰り広げられた。

  1889~1901年にかけて、アメリカ海兵隊退役提督ジョン・G・ウォーカーを委員長とする「地峡運河委員会」は、ニカラグア・ルートとパナマ・ルート のいずれがより実際的であり、実現可能性があるかを明確にするための調査を実施した。この委員会は、後にパナマ・ルートを選択する上で 大変重要な役割を果たすことになった。

  先ず、1898年、米国上院において、ニカラグアでの運河工事再開を求める議員立法が通過した。だが、翌年の1899年に、米国議会において ニカラグア運河法案が棚上げにされるに至った。そして、議会は再び各国の運河ルートの比較調査を行う委員会を設置した。 1900年には、米国ヘップバーン下院議員が提出した「ニカラグア運河法案」(ヘップバーン法)が下院を通過した。 1902年には、米国「地峡運河委員会」は、新しい報告書や経済的研究をもって、「パナマ・ルート案」を推薦した。 そして、1902年の米国議会において、ニカラグアではなくパナマの地において運河を建設することになる決定的な議決が行われた。 それは事実上「ニカラグア運河の夢」を打ち砕くものであった。

  経緯をもう少し綴ってみたい。1902年5月フランス領マルティニーク島(西インド諸島東部)でプレー火山が噴火し、その被災は死亡者40,000人に及んだ。 その噴火が、意図的な宣伝活動に利用され、その結果米国上院におけるパナマ・ルート案の選択を決定付けるに至った。倒産したフランスの 元パナマ運河会社の技師長バリーヤは、ニカラグアにおける火山噴火の危険性について米国議会へ大宣伝を行って、巻き返しを図った。 彼は、噴煙をあげるモモトンボ火山のニカラグア切手を掻き集め、議員に配布したのである。1902年6月、議会において、ニカラグアとの交渉に先立ち コロンビアとパナマ・ルート案について交渉するよう求める修正案が可決された。かくして、議会では、両派の激しい論争後、僅差の議決をもって、 運河建設をニカラグア・ルートからパナマ・ルートへと方向付けた。切手配布による火山の危険性の宣伝効果がどの程度あってのことか、その効果の程度 に関する確証めいたものはないものの、パナマ・ルート案へと傾いてしまった。

  米国はフランス運河会社からパナマ運河建設の権利を買い取る一方で、1903年11月3日にはパナマをコロンビアから分離独立させ、 そのパナマとの間で「パナマ運河条約」を締結した。現在でも、その条約締結に至った外交過程は謎に包まれるというのが定説である。かくして、 翌1904年には、米国はパナマ運河の建設を開始した。

  ニカラグアは自国領土内に運河が建設される夢を永く抱き続けてきたが、パナマ運河が1914年8月15日に開通したことで、その夢は完璧なまでに 立ち消えとなった。パネル展示だけでなく、その他の書物を紐解くことで、運河の夢が一旦立ち消えとなった仔細を初めて知った。だがしかし、ニカラグア 運河の夢はずっと後になって復活し、政治の舞台に再浮上することになった。だが、それは亡霊であったのか。

  1914年、「ブライアン・チャモロ協定」をもって、アメリカはニカラグアから300万ドルでニカラグア運河の独占的開削権を買い上げた。 米国は、ニカラグア運河を建設する排他的権利を、その条約で得たのである。当然ニカラグアは将来における建設をわずかながらも期待し、夢を抱き続けることになった。 これは将来ニカラグアに運河を開削する場合、米国が独占して事業を行なうことができる権利を認めたものである(ニカラグア領土内に運河を建設し事業経営 する権利を100年間にわたり米国に認めている)。

  だがしかし、この協定には、米国以外の国には「ニカラグアに運河を作らせない」という政治的意図が含まれていた。1914年に既にパナマ運河が開通済みであり、 ニカラグア運河は必要なかったはずである。将来ニカラグア運河が開通し、他国によって支配されれば、米国にとっては国家安全保障上の 脅威となる恐れがあったのが理由である。ニカラグアにとっては、自国に建設する可能性が事実上消滅し、運河の夢が断たれたことにもなり、 屈辱感だけが残った。運河の夢は遙か彼方に遠のいたのも同然であった。米国にとっては、他国がニカラグア運河を建設した場合、自国に大きな 脅威となる可能性があったことが背景にある。

  1916年、米国議会は「ブライアン・チャモロ協定」を批准した。ニカラグアがこの協定を破棄するに及んだのは、1970年7月になってからのことである。 この破棄によって、ニカラグア運河建設の夢は振り出しに戻った。いわば、米国からの呪縛から解き放されたともいえよう。

  その後の運河建設に関する直近の目立った動きは次の通りである。1929年に米国議会はニカラグア運河ルートについて新しい調査を承認し、 1929~1931年に実施された。その目的はニカラグア運河の実現可能性やその建設・維持管理にかかる経費を確認するためであった。 1931年になって、ニカラグアでの閘門式運河建設は実現可能であり、設計上何の問題もないとの結論を得た。

  第二次大戦後間もない1947年に、1970年代の初めにはパナマ運河の年間通航量は飽和状態に達すると見込まれるとの予測がなされた。 他方、パナマ運河は米国・パナマの条約に基づき、約束通り1999年末をもってパナマ運河の所有権が米国からパナマへと返還された。 そして、通航量の限界を克服するために、10年ほどの歳月をかけて、2016年にはパナマ運河閘門拡張工事などが完工し、現在に至っている。

  さて、ニカラグア運河の夢が一旦潰えた1914年から一世紀以上経た現在、夢は再び政治の表舞台に浮上してきた。親米中道派のボラーニョス大統領 政権当時の2006年8月に、ニカラグア運河に関するプレ・フィージビリティ調査報告書が発表された。報告書は、6つの候補ルートの検討などを行い、 あるルートを最有望視していた。

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