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    第15章 ニカラグア運河の踏査と奇跡の生還
    第8節 オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)


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      第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1)/ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2)/エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3)/サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる

      序章~第9章 | 第14章 第16章 | 第17章~最終章



  二時間余り馬の背にまたがり、手綱とリュックサックを固く握りしめ、カーボーイに背後から抱きかかえられながら、必死の思いで エル・サポーテ村に辿り着けた。心底安堵の思いが込み上げ、感激の涙であった。途中で症状が悪化しなかったことは大きな救いであり、 最も嬉しかった。さて、車を運転してくれるドライバーのことには全く思い至らなかった。ドライバーを見つけ、首都マナグアの病院に辿り着き、 診察と治療を受けるまでまだ5時間以上も我慢し続けなければならなかった。

  村に辿り着いた時には陽はすっかり落ちて真っ暗闇であった。例の雑貨屋の裸電球が唯一の灯りだったと思う。 カーボーイらへの馬の借り上げ代とガイド料の支払いなどを手短に済ませ、すぐにでも首都に向かいたかったが、そうはいかなかった。 私の車を運転してマナグアまで連れ戻してくれるドライバーを見つける必要があった。だが、雑貨屋にたむろしていたエル・サポーテの村人の中には 運転免許をもっている人は見当たらないという話が伝わって来た。 K隊員とカーボーイはドライバー探しに奔走してくれた。村人の誰にお世話になったのか分からないが、わざわざ隣村まで探しに出向いて くれたという。その間、痛みを堪えながらリュックから財布を探し出して、カーボーイらに支払うお金を用意した。さて、ようやく一人の若者が見つかり、出発の段どり が整った。何だかんだで、村を出立できたのは、馬を降りてから1時間ほど後のことで、夜7時頃であった。

  K隊員からの情報によれば、JICA事務所の所員と健康監理員が、村から70kmほど先の地方都市フイガルパまで駆けつけ、そこの保健所と掛け合い救急車 を手配してくれたという。村道から県道25号線に出て見ると、1時間余りかけて駆け付けてくれたボックスタイプの救急車が待機していた。 救急車に乗り移ろうとしたが、車内には横になれるベッドも救命措置に供する機器らしきものは何も見えなかった。エアコンも備わっていないようで、快適とは 言い難かった。乗り心地に不安を覚えたので、救急車のお世話にならずに、そのまま自身の車でドライブすることにした。 救急車に何の医療用装備もなく、エアコンも酸素吸入器もなしに、未舗装の悪路を小1時間走るのは辛かった。止む得ず、自身の車でもって フィガルパを目指すことにした。後部座席で背中を丸め座していた私は、どんな姿勢を取れば胸痛が少しでも和らぐのか、ずっと探し求めていた。隣にはニカラグア人の救急隊員らしき青年 が時折胸をさすってくれた。酸素吸入器があれば少しは楽だと思ったが、無い物ねだりであった。

  小一時間ほどで砂利道を抜け舗装道路に出た。走行は快適となりスピードもアップし、その後一時間も経たずフイガルパに到着した。健康監理員らと 合流した。保健所で何やら事務手続きなどに小一時間ほど掛った後、ようやくマナグアに向け出立できた。監理員が助手席に座り付き添ってくれた。胸痛は その後もずっと変わらなかった。痛みは「安定」していたので、むしろ内心では安堵していた。急変して最悪の心筋梗塞の事態に陥る兆候がない ことを意味したからである。完全に冠動脈が閉塞して、その結果 激痛となり我慢できなくなることを最も心配したが、幸いにもその後もずっと同じくらいの胸痛レベルであった。

  フイガルパから3時間ほどかかって首都に辿りつき、予約されていた総合病院の「メトロポリタン病院」に滑り込んだ。私の住処から10分 ほどのところに病院はあった。マナグアでは医療技術レベルが最も髙く、医療設備も整った民間病院であった。 到着後すぐさま、ベッドに横たえながら検査に入った。発症時の状況などにつき簡単な問診を受けた後、心電図、簡易のレントゲン撮影、エコー・スキャ ニング、血中酸素濃度測定の他、点滴による応急措置などを受けた。医者は病状診断に忙しくほとんど会話することはなかったが、監理員や 所員が直近の病状を把握しつつ、随時JICA本部の健康管理センター専門医らと連絡をとってくれていたはずである。

  草むらに横たえ、めまいと吐き気、胸痛に襲われていた当初の状況から、ニカラグアのベストな近代的病院のベッドに横たえ医療措置を受ける 状態となっていた。思えば、これはすごいことであった。「何とかこれで救われる」、「これからは病状が良くなる」という安堵感があった。 これからどうなるか先を全く見通せないという危機的事態を脱し、ほとんど不安はなくなり、不思議なほどに安定した精神状態であった。 首都に戻り入院することができ、万事が丸で終わったかのような平穏な気分であった。だが、胸痛はほんのわずか和らいだような気がしたが、大して改善は していなかった。ただ、生死を彷徨うことはもうないとの安心感は何よりも有り難く嬉しかった。 さて、「翌朝一番に手術をすることになった」と監理員から聞かされた。早朝8時には、心臓手術を施せる別の専門クリニックに移動し、 手術を受ける手はずであった。

  実は監理員からニカラグア人医師のことについて、あることを耳打ちされた。心臓専門の外科医はニカラグアには2人しかいなく、そのうちの一人を捉まえることが できたという。そのニカラグア人医師は、普通は1年のうち半年間は米国で外科手術に従事し、残り半年をニカラグアに帰国し施術しているという。 今回幸いにもたまたま母国に帰国していて、そのクリニックで施術に当たっており、今回運よく手術予定に割り込ませてもらえたという。 外科医が母国に帰国中というタイミングで手術を受けられたことが最初の奇跡であった。偶然と言う他なかった。この幸運なくしては、辺境の奥地 から近代的病院に担ぎ込まれても、そこで自然淘汰の憂き目に遭っていたかもしれなかった。ドクターがニカラグアで実働中であったことは、 誠にありがたい話であった。JICAマナグア事務所は日頃から医療保健関連の助言を受けられるようニカラグア人顧問医と契約を交わしている。 その医師から大きな助言助力をもらったことも間違いない。翌朝午前8時前に救急車で外科医の待つクリニックへ搬送され、すぐに手術室へ向かい、 その足でオペに及んだ。

  オペには所員や監理員が立ち会ってくれて、ずっとオペの様子をモニターで観ていたようだ。私からは位置的にみて、そのモニターを観れなかった。 右足の股の付け根辺りからカテーテルが挿入され、心臓の冠動脈に向けて差し込まれ、狭窄する箇所にステントが挿入されたという。足の付け根にはそれらしき 小さな傷跡が残されていた。付き添ってくれた職員から後で聞かされた話であるが、ステントを狭窄箇所に留置しようとしていた、その正に最中に、その 狭窄部が完全に閉塞したという。運よくそこへ間髪入れずステントを留置できたという。

  さらに話しに続きがあった。その留置中に今度は別の箇所で同時的に閉塞が発生し、そこにもタイミングよくステントが留置されたと聞かされた。 このように、幸運にも奇跡的な出来事が積み重なって九死に一生を得た。 ベッドに釘付けになってはいたが、これで本当に命が救われたと、心から安堵し喜んだ。進歩した近代医学のテクノロジーのお陰もあって、 この世から自然淘汰されるのを免れた。手術を終えた直後からウソのように胸痛は消え去っていた。普段通り軽やかに息を吸えることに感謝であった。

  発展途上国の中でも最貧国の一つに数えられるニカラグアの地で、冠動脈の狭窄・閉塞後に、手遅れにならないうちにステント留置という手術を受けられ、 生還できたのは奇跡そのものであった。さもなくば、ドクターと看護師の付き添いの下で米国かコスタリカへ緊急移送してもらう他に助かる手立はなかった かもしれない。JICAに奉職した時から、親などの死に目には会えないことや、医療の整わない途上国で助からないこともありうると、ある程度は 覚悟していたとはいえ、自身がそのような緊急事態に陥り、九死に一生を得るという実体験する羽目になってしまった。

  当時、任期を延長するためにパスポートを更新した直後であった。そのため、ニカラグアの査証の延長手続きのために、ニカラグア外務省にパス ポートを添えて申請をしていた。偶然にも当時パスポートは手元にはなかった。緊急移送で出国しようにも、パスポート不所持ではいくらなんでも できなかったであろう。外務省に駆け込んでも、書類の山からすぐさまそれを探し出し、ビザを取得したうえで出国できたかどうか。省内で相当もたついて、 何日も足止めを余儀なくされるというリスクもありえた。

  山間奥地での出来事から手術に至るまでのことを思い起こすと、冠動脈の閉塞ではなく狭窄であったこと、外科医の奇跡的な存在や実働中であったこと、 また手術中における閉塞事態と言い、パスポートのことと言い、全てのチョイスにおいてワーストを免れた。偶然の運の良さを改めて感じ入るところであった。 運命のいずれかのベクトルがワーストチョイスに向かっていたとすれば、事態はどうなっていたことか。血の気が引き、時に凍りつくような話で あったと思われる。

  手術後は一般病棟の個室に移され、2~3日ほとんど横になっていた。トイレに行く時だけは、止む得ず起きて室内のすぐ近くのトイレに向かった。 生きるエネルギーの局限なまでの減退、気力・体力の脱力感は半端ではなかった。トイレに行くにも擦り足となり、急に90歳の老人になったかのようで、 足元は全くおぼつかなかった。だがその後は、医師からは、廊下を出来るだけ歩いてもよいと勧められ、恐々に病院の廊下をゆっくり歩くなどしてリハビリを始めた。 そして、自身でも感じ取れるほど日ごとに少しずつだがエネルギーが湧いてきた。

  その頃になって、妻と娘2人が療養見舞いのため突然病室に姿を現した。全く聞かされていなかったので、びっくり仰天した。 全てのJICA関係者(役職員、専門家、協力隊員など)が海外赴任や出張時 にその都度強制的に加入する「海外共済会」の保険制度があって、その中の見舞いのための往復渡航費給付制度を活用して、ニカラグアにやってこれたという。 30数年のJICA奉職において初めて共済会による見舞い渡航費給付のお世話になった。保険はやはり万が一の場合における大きな頼りであった。 既に手術を受け回復途上にあったことを知っていた家族は安心しきって日本からやって来れた次第である。

  一週間ほど病院内で療養した後、めでたく退院できた。自宅に戻った後は、数週間自宅でずっと静養しながら、毎日のように定期的に経過観察のために 通院した。時に近くのショッピングモールに出掛け買い物などで息抜きをした。とは言え、歩行は亀のような足取りであった。娘は来訪後4~5日 で帰国したが、妻は、思い迷った末居残ることになった。元のエネルギッシュさはまだまだ 戻っていなかったが、少しは足取りもしっかりとし、元気も取り戻しつつあったので、いずれは職場復帰と軽く考えていた。 一か月もすれば相当程度回復し、事務所に復帰ができるものと想い描いていた。当然に、職務続行のつもりでいた。 実は、任期は元々2009年9月末であったが、後任者の着任が遅れていたので、3~4月延長することが内々にJICAとの間で合意していた。

  ところが、自身が思うほどには、職務続行は難しいことがひしひしと分かって来た。自宅で養生していたが、元通りの気力・体力はなかなか蘇って 来そうになく、自信がもてなくなってきた。動作はいたってのろいままであり、決断のための頭の回転も遅いままであり、今まで通りエネルギッシュに 業務に立ち向かえる状態からはほど遠かった。端的に言えば、自分が生きてきた状況の世界からすっかり変わってしまったように思えた。今までの 職務遂行のスタンダードに自身をフィットさせるにはほど遠い、というのが正直なところであった。従前のようにその場その場で即断即決し、 物事をどんどん前に進め、適切かつエネルギッシュな動作と行動を為すというパワーは、まだまだ取り戻せてはいない状態にあった。

  自宅療養して3週間ほどして、あるショッキングな体験をしてしまった。そのことは職務続行の希望を完全に喪失させてしまった。気晴らしの ショッピングの帰りに、面白そうなハリウッド・アクション映画を妻と鑑賞することにした。ところが、映画が始まって2~30分 後、大音量で、しかも心臓の鼓動リズムにシンクロナイズするかのような音楽が流れた時、予期せぬことが起こった。心臓に異常に大きな負荷が かかるのを感じた。音とともにドキンドキンと鼓動が高まり、そのリズムを狂わせるかのような負荷を受け、気分が急に悪くなり、とても映画を 観ていられなくなった。すぐに退出する羽目となった。心臓の筋肉がかなり壊疽してダメージを受けているかを想像させるに 十分な心臓への負荷であった。そのショックは大きかった。

  エネルギッシュに、職務遂行ができるパワーはいずれ戻ってくることは間違いないだろうと推察するも、問題は何時ごろになるのかであった。 私的としては、1か月程度を見越していた。だが、振り返ってみると、1年以上要することであったことを後で知ることになった。また、どうしても避けられ ないことがあった。冠動脈2箇所にステントを入れたということは、それ以外にも閉塞のリスクの高い箇所が潜んでいるかもしれなかった。 また、体のあちこちに別の健康リスクを抱えている可能性があった。血管の老化、髙血圧、髙いコレステロール・中性脂肪・血糖値など のいわゆる生活習慣病に冒されているリスクが大であった。事実、ニカラグアでも、降圧剤とコレステロール抑制剤はそれまでも服用していた。 帰国し精密検査を受けて、心臓筋肉へのダメージの程度、糖尿病のリスク、生活習慣病の有無と進行度、その他の余病の有無、薬の処方箋の見直しと 確定などを行なうことは不可欠であった。帰国せず、従前通りそのまま職務続行をしても問題なし、とは行かなかった。誰に指図された訳ではないが、 自身で忖度して帰国を覚悟した。また、たとえ職務を続行するとしても、残されているのは後任の事務所長が着任するまでのわずか数カ月のこと であった。残念だが、職場に復帰し従前通りに仕事に就くのは無理があり、やはり早期帰国もやむなしと覚悟をした。

  辺境奥地で心筋梗塞に襲われてから、日本大使館、JICA本部・事務所など多くの関係者にお世話になり、多大な迷惑と心配をまき散らし、心痛む ことであった。そもそも事務所の責任者は自身であった。関係者に迷惑をかけ、申し訳なく思い、心残りは多かった。「敵前逃亡」のような 心境となり心苦しかった。任期終末にあったとはいえ、途中でニカラグアを去るのは残念至極であり、忸怩たる思いで一杯であった。だが、 自ら招いた事であり、どうにもならなかった。責務を最後まで全うしたかったが、止む得ない。それまで我が世の春を謳歌し、公私共々エネルギッシュ に動き回っていた。私的には「第6の青春」を歩んでいた。だが、事態は一変してしまった。大病をするかしないかの間にある、余りにも大きな 落差を痛感していた。そして、以後ずっとその大きな落差を 抱えていくことになろうとは、その当時全く自覚できていなかった。さて、帰国するには、医師から帰国フライトに耐えられるというお墨付きを もらう必要があった。それを待って帰国の時期を決めることになった。

  帰国の日が決まり、もろもろの片づけをした。住居内の後片付け、車の売却、各種契約の打ち切りと支払いや精算など、たくさんの残務整理 があった。日本大使館や事務所の関係者などへのいわば身内への挨拶で精一杯となり、殆どは欠礼させていただいた。 車椅子に乗っかり、健康監理員に押してもらいながら、マナグア空港のパスポートコントロールを通過して、搭乗待合室に入った。妻と二人っきりと なった待合室から、滑走路の先の遠くに緑に包まれた山々が見えた。その中腹辺りに2年間暮らした我が住処があった。空には 見慣れた入道雲が高く湧き上がっていた。見慣れたニカラグアの風景もこれで見納めと思うと、何ともいえない寂しさが込み上げた。 妻と共にヒューストンに向けてアメリカン航空で飛び立った。眼下のマナグアの町を見納めにする心の余裕はなかった。 2009年10月8日のことである。

  「生きて日本に帰る」というのは、ごく当たり前のことであるが、それを実体感したのはJICA奉職して今回が初めてであった。空港を飛び立った 瞬間これで生きて日本に帰れると思うと、奇跡の生還となった自身の運命に、 何とも言いがたい複雑な思いがこみ上げてきた。何よりもあの辺境奥地から生還できたことが信じられなかった。ニカラグアで自然淘汰を免れた ことに感謝するばかりであった。職務半ばの無念さを胸にしまい込み、生還の喜びを噛みしめながらマナグアを後にした。だがしかし、完全燃焼しきれず、 多くの物をニカラグアに置き忘れてきたような気がした。

  フライトの中ではいろいろな想いが去来した。帰国してからのことをあれこれ巡らせる時間もたっぷりとあった。 当座はJICA本部の国際協力人材部・健康管理センターでお世話になる予定であった。ニカラグアから帰任後の勤務先として、内々に同センターに勤務するという約束を取り 交わしていたからである。当座は、その約束を果たす責務があり、それを全うしたいと考えていた。

  だが、大病した今となっては、一つの大きなテーマがくっきりと出現していた。同センター勤務後における身の振り方であった。端的に言えば、JICAからの完全離職後の 身の振り方であった。今回の奇跡の生還がそれを考えるきっかけに なったといえる。人生何が起こるか分からない。人の命もいつ消えてなくなるか分からない。今日元気でも、明日の朝が迎えられるかどうか分からないものだと、 つくずく考えさせられた。今後再発を起こせば、明日はないと覚悟せざるをえなかった。だから、今回自然淘汰を免れ、いわば神から 授かった「おまけの人生」を無駄にすることなく、遣り残すことがないように、おまけ人生をどう送るべきか、真剣に向き合うことになるのは、自然の成り行きであった。

  過去20数年、余暇活動として、一つの楽しみとして、海洋辞典づくりに適宜適時にアトランダム的に取り組んできた。それは楽しみでもあったし、また毎日を リセットしたり、リフレッシュしたりできる余暇的活動でもあった。ずっと続けてはきたが、これまで一度も「一区切り」を付けたことも、「締めくくり」 をしたこともなかった。「総合的レビュー」をしたこともなく、このままでは遣りっ放しとなろうとしていた。だから、いずれかの機会をみて、 仕事から完全に離れ、「自由の翼」を得た時には、人生でやり残したこと、 やらねばならないこと、あるいは最もやりたいことにチャレンジしたいと、漠然ではあったが心に思い描いていた。大病後にあっては、 余命何年残されているか分からない。悠長に構えている訳には行かない、という思いに駆り立てられた。何れかの時点での完全離職の暁には、 辞典づくりに専念専従して、一区切りをつけ、「中締めの締めくくり」をしたい、そんな漠然とした思いを心の片隅に秘めながら、ついに日本の土を 踏むことができた。



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      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1)/ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2)/エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3)/サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
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