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    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する
    第3-2節 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2) /統営、閑山島、潮汐発電所など


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     第20章・目次
      第1節: 「自由の翼」をまとい海外を旅する、世界は広い(総覧)
      [参考] 海外出張などの記録
      第2節: オーストラリアに次いで、東南アジア(タイ・マレーシア・ シンガポール)の海洋歴史文化施設を訪ね歩く
      第3-1節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その1) /釜山、蔚山
      第3-2節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2)/統営、閑山島、潮汐発電所など
      第4節: 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く/2013.5、挙式
      第5節: アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、パタゴニアを縦断する/2014.3
      [参考] ビーグル海峡、マゼラン海峡、パタゴニア縦断の旅程



  釜山ではすでに「国立海洋博物館」が開館しており早く訪れたいとやきもきしながら願っていたところ、ようやく二回目の探訪の機会が2016年9月にやってきた。 初めての韓訪から5年後のことであった。近年開館した本格的な総合的海洋博物館をめざして真っ先に釜山に駆け付けた。 同博物館は釜山市街地にある「龍頭山」という小高い丘のすぐ眼前に浮かぶ「影島」という島の臨海部に立地する。 同館は単体にして総ガラス張りで、5~6階建てのデザイン性に富む巨大建築物である。中に入ると中央部は5~6階 上にある天井まで吹き抜けとなっており、大空間が広がり、それ故に開放感と巨大感に溢れている。

  館内をじっくり一日かけて見学した。最も際立つ圧巻の展示文物は、やはり実物大の亀甲船である。パビリオン中央にどっしりと 鎮座する。加えて、目を見張るのは、李王朝時代に日本へ外交使節を派遣するのに用いられた朝鮮通信使船の木造復元船(縮尺1/2 ほど)である。通信使船と併せて、通信使関連の史料、通信使船を建造するための各種工具類、その船体構造模型などが展示される。 子どもたちへの配慮であろうか、巨大な円柱状の魚類水槽(水中トンネルも備わる)とタッチプールもある。また、鯛のような魚のロボット (電子・機械式の人工魚)が泳ぐ小プールも設置されている。

  その他、展示は盛りだくさんである。各種の現代船や古い韓船の船舶構造・造船関連模型、発掘された古代カヌー、海運・ 港湾関連の模型(コンテナヤードなど)、航路標識パネル、救命関連器具、古地球儀や天球儀などの展示を巡覧した。 また、豊臣秀吉水軍と戦った 亀船の模型、秀吉軍船を撃退し国民的英雄に崇められている李舜臣(りしゅんしん Yi Sun-sin)将軍の史料などの展示。

  ウナギ・タコなどの捕獲用漁具、はえ縄・巻き網・トロール網などの漁具漁法模型、各種沿岸定置網漁法の模型、海女による潜水漁 関連の漁具や史料、製塩に関する模型、漁村の伝統的な祭りや文化的史料の展示。また海洋調査研究関連機器の陳列の他、 深海底鉱物資源関連では、熱水鉱床 の大型ジオラマ、マンガン団塊の標本やその採鉱システムの模型、国連の「国際海底機構」から発行された公海資源探査鉱区の取得 証明書などが展示される。

  展示文物はさらに多岐に渡っている。例えば、韓国の海洋管轄海域現況、南極大陸に関する研究体制や観測状況、北極研究に 関する現況説明、地球温暖化による北極海の海氷溶融による北極航路とスエズ運河経由の南航路の距離比較半球図、「海洋強国」を めざす政府の戦略・政策説明パネル、古代における東アジア海域での貿易・文化交流史、海軍艦艇の模型や海軍活動紹介パネル、韓国 コーストガード関連資料の展示などである。博物館正面入り口には潜水調査艇(実物)が展示される。 なお、同館入場はすべて無料である。

  さて、翌日は釜山郊外の少し内陸部に所在する「海洋自然史博物館」を再訪した。今回2回目の訪問であっても不思議に思う ことは、同博物館が臨海部ではなく内陸部の山間に立地していることである。前回魚類標本などの多くの画像を切り撮ったが、 陳列品数が余りに多過ぎ、また入館時刻が遅かったので、30~40%くらいしか切り撮れず、かなり積み残した。 別館に陳列された貝類標本などは全く手つかずであった。随分心残りの思いがあった。いつしか釜山に舞い戻る 機会もあろうかと、ずっと期待していた。今回はもう一度最初から魚貝類、海洋哺乳動物、サンゴ・海藻標本などの画像を切り 撮るつもりで真剣に陳列品と向き合った。そして、その別館の分を含めて、陳列標本を一から最後まで何とか一通り撮り収める ことができた。なお、初回の訪問時には、竹島(韓国名・独島)に関する古文書・地図などの資料が展示される 特別展が一階で開催されていた。

  今回は、釜山の代表的なランドマークの一つである「龍頭山」という小高い丘上にそびえ立つ「釜山タワー」の階下に「世界船舶模型展示館」があることを知り、 丘を訪れた。内心半信半疑であったが先ずは訪ねてみた。悪い予感が的中した。残念ながら休館中の様相であった。雨模様で見晴らしも 良くなく、止む無く売店で李舜臣と亀甲船のデザインの切手を購入しただけで、出直すことにした。 なお、同模型展示館の前身は海洋科学展示館であったと推測されるが、2016年10月時点ではその所在は不詳である。いずれにせよ、訪問時には 在り処などを確認要である。なお、タワー直下には、李舜臣将軍の銅像が建つ。その台座には、龍の船首像が施され、 甲板が亀の甲羅のように覆われた亀船を中核に描いた海戦レリーフがはめ込まれている。

  時間的には余裕があったので、龍頭山の麓にある「釜山近代歴史館」を今回初めて訪れた。釜山の港を写す昔の古い写真を観たかった。 展示には「日帝の侵略」云々という説明書きが幾つも散見され緊張感が走ったが、日本統治時代の釜山の街や港・船を写した幾つもの画像 を切り撮ることができた。釜山の当時の様子を如実に記録した歴史的写真をも活写することができた。当時の釜山の街全体を俯瞰できる大ジオラマ もある。目抜き通りの商店街を再現したコーナーもあり、当時の釜山の街にタイムスリップしたようだ。 その他、釜山の近代開港、日本による釜山支配、近代都市への発展、東洋拓殖株式会社、韓米関係などのサブテーマの下に関連史料が展示 されている。

  翌日のこと、地下鉄で長距離バスターミナルのある最寄駅まで行き、釜山から100kmほど西方の漁業・観光の町・統営へ路線バス で向かった。真の大義名分が何処にあったのか全くわからないが、豊臣秀吉が北九州の東松浦半島北端に名護屋城などの 本拠地を設営し、16世紀末期の1592年に朝鮮に大軍を送り、侵攻した(文禄の役)。そして、現在のソウルまで 一挙に攻め上がった。朝鮮半島南部の多島海でその後多くの海戦が行われた。韓国・李舜臣将軍(Admiral Yi Sun-Shin)が 指揮を執り、日本の軍船を撃破したという海戦が幾つかある。韓国で救国の名将と称えられる李将軍ゆかりの史跡、閑山島(Hansando) の軍営史跡、閑山沖での海戦のゆかりの海などを訪ね、慶尚道・統営周辺を散策するのが目的であった。

  統営からフェリーで閑山島へは3、40分ほどの距離にある。統営の港を出てまもなく「閑麗(はるりょ)水道」を横切る。 その辺りが李将軍率いる軍船と豊臣秀吉側の軍船がぶつかり豊臣軍を撃破したという「閑山島沖の海戦」の水域である。閑山島の北側 には小さいが奥行きの深い閑山湾がある。フェリーはその湾奥にある桟橋を発着場とする。湾の入り口にはコンクリート造りの亀甲船 型基台の上に建てられた灯台(Geobuk Lighthouse)がある。

  灯台に関するパネル説明には、「亀灯台: 遠く閑山湾の入口に亀灯台が見える。李舜臣将軍が世界で初めて建造した亀甲船 を記念して、閑山湾に入港する船の航路を照らすために、自然の岩礁の上に建てられた。亀甲船は屋根の上に刀と錐を挿して接近 できないようにし、前頭部は竜のように造って大砲を発射し、両側にそれぞれ6門の銃砲を装着して四方に銃を撃ち放った。 朝鮮水軍は常に亀甲船を先頭に立たせ、数々の戦いに勝利したと伝えられる」と記されている。

  さて、有名な海戦の一つである「閑山沖の海戦」に戻る。海戦は、統営本土と閑山島との間にある狭く細長い水道 (閑麗水道)で日本軍船と李軍船との間で繰り広げられた。閑山島には朝鮮海軍の軍営地があったが、後に統営に移されたという。 その軍営地が閑山島に復元されている。閑麗水道は南北に横たわり、南下すると外海(対馬海峡・西水道)につながる。 フェリーで閑麗水道を閑山島に向けて横切る辺りの水域がまさにその海戦が行われた所縁の海とされる。 同島には、「制勝堂(チェスンダン)」の他、軍営史跡がある。「制勝堂」は李将軍が「三道水軍」(後述参照)の本拠地を 閑山島に移した時に建てられた館である。同史蹟にはその海戦の 様子を描いた絵画が飾られ、また両軍の軍船の配置や動きなど示す作戦図などを見ることができる。

  本土にフェリーで戻った。統営のフェリーターミナルから東へ海岸沿いに徒歩4、5分の所にあるウォーターフロントには、 李舜臣将軍とその兵士数十人が鎧に身を固め、気勢を挙げている等身大の群像と、亀甲船をモチーフにしたモニュメントが建てられている。 群像は、軍船において櫂を操る漕手たち、弓を射る兵士たち、太鼓を打ち鳴らす兵士たちを模している。李将軍が軍団の先頭に立ち、 戦いを指揮し、兵士たちを鼓舞する。群像の両サイドにそびえる2つのタワー上には、あたかも2隻の亀甲船が天空を飛翔するがごとく 高々と据え付けられている。モニュメントは全て光り輝く黄金色に染められている。訪問時点ではモニュメントは工事途上であったが、 ほぼ完成に近いものであった。(ターミナルから海岸沿いに進むと統営湾の最奥にある「文化プラザ(Culture Plaza)」にいたるが、 モニュメント広場はその途中にある)。

  さて、そのモニュメントの先には多くの漁船の溜り場となっている漁港の他に、「文化プラザ」がある。そのウォーターフロントで、 思いがけず、4隻の軍船(亀甲船・板屋船などの実物大復元船)が岸壁に係留・一般公開され、いわば亀甲船の船舶博物館となっている観光文化施設に出くわ したのはラッキーであった。じっくりと見学した。復元軍船内には亀甲船などに関するいろいろなパネル展示がなされる。因みに、 閑山沖の海戦などの紹介や李舜臣の戦法、武器・弾薬、亀甲船の構造・装備などがパネル展示されている。

  余談だが、統営市街地のフェリーターミナル近くを通る、いわば目抜き通りたる「中央路(Jungangno)」に沿って 歩道を辿り行くと遭遇したのがマンホールの蓋である。閑山沖の海戦の歴史を擁する街だけあって、まさに海戦勝利の シンボルとしての亀甲船の意匠がしっかりとあしらわれている蓋があちこちに敷設されている。さすが、亀甲船を案出したと される李将軍ゆかりの地だけのことはある。

  当時の歴史を少し振り返れば、1592年(文禄元年)および1597年(慶長2年)の2回にわたり、豊臣秀吉は大軍をもって攻め入り攻めたて 朝鮮を服属させようとした。日本では「文禄・慶長の役」と称される。韓国ではこの秀吉の朝鮮侵略は「壬辰倭乱(いむじんわらん)」 と称される。6年半におよぶ両軍の戦いの中で、李舜臣将軍(1545-1598年)が率いる朝鮮水軍は、いくつかの個々の海戦において 豊臣水軍を撃破し、戦局を自国有利へと導く上で大きな戦功をおさめた。海戦には時にいわゆる亀甲船を投入し、豊臣水軍に 大きな打撃を与えたとされる。因みに、豊臣側(脇坂水軍)を統営と閑山島の間に横たわる狭水道・閑麗水道において撃破し (1592年の閑山沖の海戦)、豊臣側の地上軍の侵攻を鈍らせる戦功をもたらしたという。

  統営には「統営三道水軍統制営」(トンヨンサンドスグントンゼヨン Tongyeong Samdosuguntongjeyeong, Naval Headquarters of Three Provinces)、即ち、3つの道の海軍総司令部が設置されてきた。「三道水軍統制営」は1604年に設営され、 1895年に閉営されるまでの290年間、倭寇の侵入を防備する朝鮮水軍の総司令部として、今日のそれと同じ場所にあった。 統営市では、「統営三道水軍統制営復元プロジェクト」(2000~2013年)なるものを推進し、これまで破壊された司令部の多くの 建物について復元し、史跡指定されるに至っている。そして、統営市街地や臨海部を一望に見下ろせる高台に3軍統轄海軍基地の いろいろな建築物が復元され、その先の遠くの島々の間には閑麗水道が見え隠れする。

  三道水軍統制営の「洗兵館」(セビョングァン Sebyeonggwan Hall/guest house)は、統制営の客舎である。第6代の統制使であった 「李慶濬(イ・ギョンジュン)」が1604年にこの場所に統制営を移したが、文禄の役(壬辰倭乱 イムジン ウェラン=豊臣秀吉出兵)の翌年の1605年に、脇坂安治率いる豊臣水軍の海戦に勝利したことを祈念して、客舎として初めて創建された 大型木造建築物である。洗兵とは中国詩人・杜甫の「挽河洗兵」から取った言葉で、「天の川の水を引いて兵器を洗う」という 意味である。現存する李氏朝鮮時代の建築物の中で床面積が最も広い建物の一つとされる。

  既述の通り豊臣秀吉による朝鮮侵略 (1592年~1598年) は日本では「文禄・慶長の役」と知られ、朝鮮半島にて6年以上にわたり幾多の 戦いが繰り広げられた。海戦は主に朝鮮半島の南部沿岸水域でなされた。閑山島の李忠武公遺蹟内には、 「閑山大捷図 (はんさんだいしょうず)」と題される絵図が掲示されている。豊臣側の脇坂安治水軍と李将軍率いる朝鮮水軍との間で、 1592年7月になされた閑山沖の大海戦の絵図である。因みに、その説明書きによれば、李将軍は、1592年7月8日、豊臣側の 脇坂安治率いる日本軍船73隻を統営と閑山島との間の閑麗水道の海に誘い込み、李将軍率いる朝鮮水軍は、「鶴翼の陣」を敷き、 大砲と矢を放って47隻を撃沈し、12隻を捕獲し、大勝利をおさめたという。そして、7月10日の早朝には「安骨浦」(Aggolpo Port) に留まっていた日本軍船42隻に火をかけたと記される。

  さて、時の国王の命により、1606年に、救国の忠臣・李舜臣の偉業を讃え祀るための祠(ほこら)が統営に建立された (祠は後に「忠烈祠」(チュンニョルサ Chungryeolsa Shrine) となる)。忠烈祠には同将軍の位牌がおさめられるという。 忠烈祠の所在する場所は、統営の「三道水軍統制営」(1604年に設営)、即ち3道の海軍総司令部のあった場所のすぐ近くである。

  さて、3回目の韓国への旅の機会が巡って来た。2017年10月のことである。韓国西海岸は潮位差が大きく、潮汐を利用した発電所が 既に建設され稼働しているのではないかと気になって、ネットでいろいろ調べたところ、実稼働していることを知った。 俄然、是非とも訪ねてみたいと計画を練り、友人に訪韓してみないかと誘ったところ、前向きな返事が返ってきた。だが、友人は 発電所には全く興味がなく、基本は別行動しながら時に二人でソウル市内の博物館などを見物三昧することにした。 ホテルは勿論同宿。私は何はともあれ、天候を見ながら 始華湖(シファホ Sihwa)潮力発電所(右画像)へ真っ先に向かうことにした。

  ソウルから発電所までの交通アクセスであるが、地下鉄ソウル駅から4号線にて「烏耳島(おいど)」駅(京畿(きよんぎ)道・ 始興(しふん)市)で下車し、そこからタクシーで行くのが最も効率的である(タクシーでの所要は20分程度)。発電所を経由する路線バスもあるが、本数が少ない。 語学力に問題なければ公共交通機関の利用も悪くはない。

  韓国ソウルから南西40㎞ほどの地に建設されている「始華湖(シファホSihwa)潮力発電所」。画像は発電所に隣接する展望塔 から見下ろしたものである。西海(黄海)沿岸の小さな入り江を堰き止める堰堤・防潮堤(コーズウェイ)が北へ (地下鉄「烏耳島(おいど)」駅方面へ) 伸びている。 左側の水面が外海、右側が4,380ヘクタールの広さをもつ人工湖・始華湖である。入り江は総延長12.7kmの堰堤によって閉め切られている。

  施設中央部には潮の流入トンネルが埋没しており、その中に10基のタービン発電機が設置されている。満潮時には、 10基のタービン発電設備が埋め込まれた水中トンネルに外海から海水が流入し、タービンを回転させた後、海水は人工湖側に流れ出る。 その上方に見える施設は、潮の満ち干き時に潮水を流出入させることができる水門である。

  ところで、満ち潮時のみに発電が可能な「漲潮式(ぼうちょうしき)」発電方式である。満ち潮によって外海の海水が漲潮すると、 その外海の水位と湖のそれとの間で高低差が生じる。それを利用して外海から湖側へ海水を水中タービン経由で流入させ、タービン を駆動させる。因みに、満ち潮時における海水の一方向の流れにおいてのみ発電する「単流式」(一方向発電) でもある(引き潮時においては発電されない)。 「Single-Effect Flood Generation」と呼ばれる。

  両岸を結ぶ総延長12.7kmにわたる堰堤の中ほどに人工島が造成され、発電所・展望塔・広報館などが設置されている。幾つかの アート作品も設置され、市民が憩える臨海公園となっている。広報館では、潮力発電の仕組みやその他の海洋再生可能エネルギーの開発 利用に関する展示などがなされている。

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  建設の経緯について触れると、当初「韓国水資源公社」は、西海(黄海)沿岸の入り江を総延長12.7kmにわたる堰堤・防潮堤で閉め切り、 4,380ヘクタールの人工湖(始華湖)を造り、干拓地の造成と用水確保のための淡水化を進めようとした。だがしかし、入り江を 締め切った2年後に、人工湖の水質が急激に悪化した。そのため、淡水化を断念し、海水循環を図る方針へと転換した。

  かくして、「韓国海洋研究院(KORDI)」は、水資源公社に協力して、潮力発電所を建設することとし、基本設計などを実施した。 西海では一般に干満の差が激しく、8~12メートル位の水位差があり、また遠浅の入り江や島嶼が多く存在し、締め切り堤防を造成する 上での立地条件が良好である。

  発電所の建設は2004年12月に着工され、7年後の2011年8月に部分的に発電が開始された。 発電設備能力は、出力25.4MWの発電タービン10基を設備し、その合計は254MW(25万4000kW)ある。1日当たり8~9時間稼動したとして、 年間552.7GWhの発電量が見込まれた。 因みに、フランスの「ランス潮力発電所」の場合は、発電設備能力は24万kW、その年間発電量は544GWhであるとされ、始華湖潮力 発電所はそれを少しだけ上回る。韓国国土海洋部によれば、始華湖の潮力発電量は、年間86万バレルほどの原油輸入代替となると 算出された。

  発電施設の構造と発電の仕組みを示す模式図を掲示する。引き潮時には水門が開かれ、湖水が外海へ大量に流出する。そして、 引き潮時に人工湖の湖面水位が3メートル下がった状態の時に水門が閉じられる。その後やがて満ち潮が始まり、それによって 水門を隔てて外海の海水が漲潮する。水位が上昇すれば、湖水面との間で水位差が生じることになる。外海の海面水位と 人工湖の湖面水位との潮位差が約2メートルになった時に、水中タービンの扉が開かれる。タービンに流れ込む海水は 直径7.5メートル、重さ53トンのプロペラを回転させることで発電する。

  ところで、韓国の西海沿岸には、始華湖発電所以外にも幾つかの潮力発電候補地があり、建設案が構想されてきた。しかし、 自然環境、沿岸漁業、経済・財政の諸課題のために、構想の実現は遅々として進まないのが実情である。例えばの候補事例。
・ 仁川(いんちょん)市の江華(かんふぁ)郡の華道(ふぁど)面一帯の近海(江華)。例えば、江華(Ganghwa)島 南端と永宗島(よんじょん)北端との海域(仁川湾)
・ 忠清(ちゅんちょん)南道の唐津(たんじん)郡と京畿(きよんぎ)道の平澤(ぴょんてく)市近海(牙山湾・あさんわん)。
・ 忠清(ちゅんちょん)南道の泰安(てあん)郡と瑞山(そさん)市一帯の近海(加露林湾・かろりむわん)

  さて、一日にして首尾よく始華湖発電所を一般見学した後、潮風に吹かれながら堰堤を延々と歩き続け、地下鉄駅 「烏耳島(おいど)」に2時間ほどで辿り着いた。翌日から、友人とお上りさんになって、ソウル市内の歴史文化施設などを巡覧した。 ソウル市街地の目抜き通りに面するビル階下にある「李舜臣物語」の展示館の他、国立民族博物館、国立中央博物館、国立近代 歴史博物館を見学した。最後は、ソウルの南30kmほどの地にある古い城壁都市「水原」にも足を伸ばし、李王朝時代の面影を色濃く 遺す風景を楽しんだ。

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