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    略 年 表:
    エンリケ航海王子・ディアス・バスコダガマ・支倉常長・コロンブス


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     第21章・目次
      第1節 カナダ・バンクーバー経由で、キューバの海と要塞を訪ねて
      第2節 香港とマカオの海洋博物館などを駆け巡る
      第3節 台湾の海と港(基隆・淡江・高雄)を巡り、海洋博物館を探訪する
      第4節 中国の「上海航海博物館」と「京杭大運河」(杭州・南京・蘇州)を訪ねる
      第5節 ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う
      [資料]ポルトガル~ギリシャ旅程/略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉常長・コロンブス


資料

● エンリケ航海王子の活躍: 大航海時代、航海学校、サグレス、西アフリカ南下、ディアス、バスコダガマ喜望峰・インド到達

・ 14世紀からの「地理上の発見時代」、あるいは「大航海時代」は、帆船航海技術の大きな発展とともに推し進められて行ったといえよう。 航海技術を大いに進歩させ、大航海時代へのゲートウェイまで導いた立役者の一人は、ポルトガルの「エンリケ(あるいはヘンリー)航海 王子」であることは間違いない。 彼はポルトガル王のジョアン一世と英国ランカスターの王女フィリッパの息子であった。

・ エンリケは、1415年のこと、200隻余の軍船をもってイベリア半島から北アフリカの地セウタを攻略し、ムーア人 (イスラム教徒) からセウタを奪取したこと でもその名を知られる。
[注] セウタ: ジブラルタル海峡に面する、現在のモロッコ北端にある港町タンジールの東方約70kmほどのところにあって、同じく同海峡 に面する。

・ ポルトガル南端のサグレス(イベリア半島南西端のセント・ヴィンセント岬の先端)に天文台や航海学校を設け、 民族・宗教などを問わず学者、航海者らを集め、そこで航海学、帆船の艤装や運用術、造船学、地図製作などの研究に取り 組み始めた。1419年頃のことである。 そして、アフリカ大陸の南を周回してインドへ到達することの可能性を固く信じ、船でアフリカ西岸を南下するという航海・ 探検事業を徹底して推し進めようとした。

・ 1143年、ポルトガルは、隣国のカスティーリャ王国から分離・独立し、アフォンソ・エンリケスが初代国王となる。
・ 1250年、ポルトガルは、国内に残るムーア人に壊滅的打撃を与え、カスティーリャ王国より240年以上も先んじて「レコンキスタ」 (ムーア人に侵攻され征服され続けてきたイベリア半島を奪回するキリスト教徒の戦い。国土回復運動)を終結させる。

・ 1394年、エンリケ航海王子生まれる(~1460年)。
・ 1415年、ポルトガル、北アフリカのムーア人の要衝セウタを攻略・占領する。
・ 1415年、エンリケ航海王子、「ボジャドール岬」に向けて小艦隊を派遣する (カラベル船を使用する)。
・ 1420年、最初のポルトガル遠征隊、マデイラ諸島の一つのポルト・サント島に嵐で打ち上げられる (その後、遠征隊が再派遣され、 マデイラ諸島であることを確認し、サトウキビとブドウの株を移植する)。
・ 1427年、アゾレス諸島を再確認する。
* 当時、「ナン岬(ネバー岬)」以南では、海は沸騰し、怪物が現れ、二度と帰還できないと考えられていた。
・ 1432年、エンリケ航海王子からナン岬以南への航海を命じられたが、それに失敗していたジル・エアンネスはその再挑戦を命じられる。
・ 1434年、ジル・エアンネス、ナン岬から更にその200海里ほど南の「ボジャドール岬」(その沖合には暗礁が突き出る航海の難所で あった)をも越えることに成功する。
* エアンネスのこの成功は中世の人々の迷信打破に絶大な影響をもたらす。

・ 1441年、ヌーノ・トゥリスタン、リオ・デ・ジャネイロに到達した後、ボジャドール岬の遥か南方の「ブランコ岬」に到達する。
・ 1443年、ヌーノ・トゥリスタン、「ブランコ岬」を通過して、その少し南方の「アルギン湾」に達する。
・ 1443年、エンリケ航海王子の実兄ペドロ親王、ボジャドール岬以遠への通航には同航海王子の許可を必要とする旨布告する。 以後、幾つかの新たな布告によって、同航海王子への航海・交易上の特権拡大がなされる。
・ 1445年、ディニス・ディアスが「ヴェルデ岬」に到達する。
* ヴェルデ岬についても、海は沸騰し灼熱の世界といわれていた。
・ 1460年、エンリケ航海王子、没する。

・ かくして、同航海王子が生きた時代におけるアフリカ西岸南下の航海・探検事業は、シェラレオーネ辺りまでの到達で終わりを告げた。 だが、その後20年ほどの間に、南下を続けたポルトガルの航海者たちは、赤道を越え、更にはコンゴ河口に到達し、 ついにはアフリカ南端を周回するにいたるまで、数々の成果をあげるにいたった。 ・ 1479年には、ポルトガルとカスティーリャは、カナリア諸島等の領有権、同諸島以南の航海権について合意するにいたり、 「アルカソヴァス条約」を結んだ。

・ 1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは二隻のカラベラ船と一隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを 一路南下した。同年12月末に嵐に遭遇したことで、15日間も方向を見失ったまま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。 アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。

・ ディアスはさらに周回継続を主張したが、乗組員らが暴動を起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在のダーバン は南緯30度辺りにある) に位置する現在の「グレート・フィッシュ川」付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰着をその港で見物していたという。

・ ディアスは南端を周回していた頃は激しい嵐に見舞われていたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、国王ジョアン2世は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であったため 岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。

・ 1497年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに向け出航した(コロンブスが西回り航海に出帆したのは1492年であり、コロンブスがインディアス に到達したとの報をもって帰国したのは翌年1493年3月のことであった。ガマは当然のことながらこのインディアス到達を知った 上での出帆であった。到達したのはインディアスではなくカリブ海諸島であった)。 ガマは南西アフリカの「セントヘレナ湾」に到達後、1498年喜望峰を周回し、インド南西岸のマラバール海岸のカリカットに到達した。
エンリケ航海王子が思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ周回によるインド航路の開拓にかかる大事業がついに ここに完成した。

ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易を自らの手に独占する道を切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き進むことになる。

・ エンリケ航海王子によるインドへの航路開拓事業の創始からまさに80年を経た1498年、そしてポルトガル航海者バルトロメウ (バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias)がアフリカ南端・喜望峰に到達してから10年を経たその年に、 バスコ・ダ・ガマはインド亜大陸の陸地を視認し、着達した。

・ ポルトガル王ジョアン2世は1495年10月に没したが、後継の王マヌエルは1497年バスコ・ダ・ガマを航路開拓に 派遣した。ダ・ガマは1498年5月1日インド亜大陸の陸地を望見し、そしてカリカット近くの港に錨を降ろした。

[ポルトガル語] Vasco da Gama realizou a primeira viagem marítima entre a Europa e o Oriente em 1497-98.
[英語] Vasco da Gama accomplished the first voyage between Europe and the Orient in 1497-98.
・ バスコ・ダ・ガマは1497年から98年にかけて初めてヨーロッパ・東洋間の航海を成し遂げた。


● ポルトガルの航海者バーソロミュー・ディアス (人物図絵)、アフリカ最南端・喜望峰を周回する[マカオ海事博物館]

・ 1418年、ポルトガル・エンリケ航海王子は、イベリア半島のポルトガル領南西端のサグレス岬に航海学校・天文台などを設立し、 地理・航海・造船・天地誌学などに関する研究を行ない、またそれらを学ばせ、航海者を育成し、アジアへの 海上ルート開拓を期して、アフリカ西岸沿いに南下させる探検航海者を本格的に派遣し始めた。 歴史上、後に「大航海時代」と位置づけられる初期の頃のことである。 ポルトガルは、アフリカ最南端周回とインド航路開拓、それに続きアジアでの国勢伸張への道を切り開いた。

・ エンリケ航海王子によるアジアへの航路開拓事業の創始から70年を経た1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ (バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias)はついに、アフリカ大陸最南端を視認するという偉業を果たすにいたった。 ディアスはアフリカ大陸を迂回せんと航海を続けるなか、激しい嵐の中で知らないうちに大陸南端を周回していたことを認識した。 航海の続行は彼の部下の反対で断念せざるをえず、船を反転させ帰国の途についた。 彼は南端を「嵐の岬」と名付けたが、後にポルトガル国ジョアン2世は「喜望峰」と命名した。

画像は四分儀を手にもつディアスの図絵である。説明パネルには次のように記される。
[ポルトガル語]Bartolomeu Dias atinge o extremo sul da costa africana em 1487-88.
[英語]Bartolomew Dias reached the extreme south of the African coast in 1487-88.
・ バーソロミュー・ディアスは1487年から88年にかけてアフリカの南端に到達した。


● ポルトガルの航海者ジル・イアネス (立像)、アフリカ西岸ボハドール岬に到達する[マカオ海事博物館]

・ 1415年、ポルトガルのエンリケ航海王子は、アフリカ北西岸のボハドール岬到達をめざして、自国船隊を派遣する。
・ 1418年、エンリケ航海王子は、イベリア半島のポルトガル領南西端のサグレス岬に、航海学校・天文台などを設立し、 地理・航海・造船・天地誌学などに関する研究を行ない、またそれらを学ばせ、航海者を育成し、アジアへの 海上ルート開拓を期して、本格的にアフリカ西岸沿いに南下させるべく、探検航海者を派遣し始める。 歴史上「大航海時代」と位置づけられる初期の頃のことである。かくして、ポルトガルはアフリカ最南端迂回と インド航路開拓、それによるアジアへの国勢伸張の道を切り開いた。

・ ポルトガル航海者ジル・エアンネス(Gil Eanes)は、エンリケ王子の命により、「ナン岬」を越えて南下すべく航海を試み、 一度は失敗していた。彼は、1432年に再び出帆し、ナン岬を越え、1434年にはそのはるか南方の「ボハドール岬」に到達することに 成功した

画像はその航海者ジル・イアネスである。説明パネルには次のように記されている。
[ポルトガル語]Principal obstáculo ao avanço das navegaçãoes portuguesas para o Sul, o Cabo Bojador foi ultrapassado por Gil Eanes em 1434.
[英語]Cape BOJADOR the principal obstacle in the path of the Portuguese navigators heading South was rounded by Gil Eanes in 1434.
ボハドール岬はポルトガル人航海者たちが南方をめざし航路を進める上での第一の障害であったが、1434年ジル・イアネスによって 迂回された。


● ポルトガル国王ジョアン2世 (在位1481‐1495年) が在位していた1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは 2隻のカラベラ船と1隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを一路南下した。同年12月末に嵐に遭遇したことで、 15日間も方向を見失ったまま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。

・ アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。ディアスはさらに周回することを主張したが、乗組員らが暴動を 起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在の「ダーバン」は南緯30度辺りにある) に位置する現在の「グレート・ フィッシュ川」河口付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰還をその港で見物して いたという。

・ ディアスは南端を周回していた頃激しい嵐に見舞われたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、「国王ジョン2世」は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であった ため岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。

・ ポルトガルはディアスの帰還後すぐに次の探検船隊を派遣するにはいたらなかった。「ジョアン2世」に代わって王位を継いでいた 「マヌエル1世」は、ようやく1497年になって、ヴァスコ・ダ・ガマを喜望峰回りでインドに向けて出帆させた。 かくして、ポルトガルはスペインよりも早くインドのカリカットへ到着することをめざした。
[参考]コロンブスは、ガマの出帆に先立つ1493年には、自身のいうインド到達の報をもって第1回目の航海から帰還していた (注:実際は インドではなくカリブ海の諸島であった)。更に、コロンブスは1495年に第2回目の西回り航海を果たしていた。

・ 1497年7月8日に、ガマは13隻からなる船隊を率いてリスボン出航した。ヴェルデ岬諸島を経た後、大西洋に大きな半円を描き 迂回するように (画像参照:下) 喜望峰をめざした。同年11月9日喜望峰に近いアフリカ南西部の「セント・ヘレナ湾」に到達した。 11月22日には喜望峰を周回し、11月25日に「サン・ブラス湾」に到着、12月17日には、ディアスが先の航海で到達した最遠地で ある「インファンテ川」(現在のグレート・フィッシュ川)河口で投錨した。

・ その後沿岸沿いに北上し、1498年4月に現在のケニアのマリンディに到達した。ガマはそこでアラブ人でインド洋での航海に 熟達した船乗りイブン・マジードを水先案内人として雇い入れた。ガマはその後首尾よくアラビア海を横断し、翌5月になって インド南西部マラバール海岸のカリカットに到達した。

・ 1498年8月にカリカットから帰国の途に着いたものの、その航海は厳しいものとなった。アラビア海を越えるのにほぼ3か月を要し、 ガマの旗艦「サン・ガブリエル号」がリスボンに帰還したのは、1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ 2年を要し、又約170名の乗組員のうち帰還したのはわずか60余名であった。 また、ガマがもち帰った香辛料の量は見本程度というごくわずかなものであったし、更にはカリカットの王との香辛料の交易取り 決め交渉は成功するにいたらず、通商面での成果はほとんどなかった。

・ だが、エンリケ航海王子が1400年代初頭以来思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ周回によるインド航路の 開拓にかかる大事業がついにここに完成したことの意義は計り知れない。 ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易において新たな海上交易ルートを切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き 進むことになった。翻って、アラビアのイスラム商人らとの熾烈な闘いが始まることになった。


● コロンブスの航海と修道院との関連

第一回航海までの略史
クリストファー・コロンブスはイタリアのジェノバに生まれ、早くから航海にいそしんでいた。
・ 1476年8月、コロンブス、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で遭難し、その東方対岸の町ラゴスの海岸に泳ぎ着く。
・ 1478年にポルトガルへ転居する。
・ 1478年、ジェノバ商人パオロ・ディ・ネグロの代理商人として商品の買い付けのためマデイラ諸島へ航海する。
・ 1480年頃、フェリパ・モニス・デ・ペレストレロと結婚する。この頃から、大西洋の西回り航海に関する計画、即ち ヨーロッパから西回りでもって大西洋を航海し、インディアス、カタイ(中国)やジパング(日本)に到達し、 黄金や香辛料を獲得するというインディアスへの航海事業計画なるものの作成に取り組む。
* コロンブスがいかなる書物、世界地図等を読んだのか、地球の周回距離やインディアス東端までの距離をどのように計算したかなどは 大変興味あるところである(別稿に譲る)。
・ 1483年末、若しくは1484年初、ポルトガル国王ジョアン2世に同計画を提案するも、採用されなかった。

・ 1485年、ポルトガルからスペイン(イスパニア)へ移る。
・ 1486年1月20日にアルカラー・デ・エレーナスにてカトリック両王に謁見し、同インディアス事業計画を提案し支援を懇請するも、結局 採用されるにいたらなかった。
その後、紆余曲折を経た後、1492年1月のグラナダ開城にともない、カトリック両王は同計画を再検討する。
・ 1492年4月17日、両王とコロンブスとの間で、いわゆる「ンタ・フェの協約」が成立し、カトリック両王の後援 をえられることになった。

第一回航海
・ 1492年8月3日、サンタ・マリア号 (280トン) を旗艦にして、ピンタ号、ニーニャ号の3隻にて120名といわれる乗組員を配乗して、 パロス港を出港し、大西洋を南西に向かう。 カナリア諸島にて船体修理、食糧・水などを補給後、同年9月6日に同諸島のゴメラ島を出港し、西航を続けた。

・ 出港して72日目の1492年10月12日未明、先頭のピンタ号の乗組員が、陸地初認する。 夜明けを待って、同12日、コロンブス一行は上陸し、カスティーリャ王国旗を立て、カトリック両王の名において領有宣言をした。 そして、グアナハニーと呼ばれていた同島をサン・サルバドールと名付けた。現在の西インド諸島の中のバハマ諸島の一島である。 その後、今のキューバ沿いに航海する。

・ 1492年12月24日夜、サンタ・マリア号がエスパニョーラ島 (今のハイチ、ドミニカ共和国のある島) の北部の海岸で座礁した。 当該船の部材などを用いてその海岸に居留地を設営し、ナビダー (Navidad、クリスマスという意味) と名付ける。
・ 1493年1月6日、居留地に39名の乗組員を残して、幾人かの先住民を帯同して帰国の途に着く。なお、コロンブスは「 発見」したこれらの土地をインドの一部と考え西インドと名付けた。

・ 1493年3月4日イベリア半島を目前にしながら大嵐に遭遇したため、3月6日リスボンに緊急退避し、9日にはコロンブスはポルトガル・ ジョアン2世の招きで謁見した。
* リスボンでニーニャ号を臨検し、コロンブスと問答を交わしたのが、喜望峰を南緯33度まで周回した後1488年12月に リスボンに帰還していたバルトロメウ・ディアスであった。コロンブスはこのディアスの華やかな帰還をリスボンの港で見物していたという。 他方、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰周回インド航路開拓に向け出港したのはようやく1497年になってからのことであった。 ディアスの成果を受けてインド航路開拓を成就するためにすぐさま引き続いて探検船隊を派遣するという動きはそれまでなかった。

・ 1493年3月、コロンブスは、インディアスに到達した (実際はカリブ海の諸島であった) ものと固く信じ込んでいたので、 意気揚々とかつての出港地パロス港に帰還した。

・ 1494年6月7日、ポルトガル・スペイン間で「トルデシリャス条約」が結ばれ、大西洋西方海域における両国の航海域の 分界地点をヴェルデ岬諸島の西方370レグアの子午線へと移動された。結果、ブラジルはポルトガルに帰属するにいたった。

第二回航海、1494-95年。17隻の船で1500人の乗組員をもって航海に就く。

第三回航海、1498年-1500年。6隻の船で、マデイラ、カナリア、ヴェルデの各諸島を経た後に西航し、小アンティル諸島の 最南端のトリニダード島、およびそのすぐ南に横たわる南アメリカ大陸北岸に足跡を残した。その後、スペイン本国から送り 込まれた査察官によって不正ありととがめられ捕縛され、本国に連れ戻された。

第四回航海、1502-1504年。初めてアメリカ大陸の一部に到達する。即ち、今のホンジュラス湾付近には到達する。1504年11に 帰国した後は、不遇な境遇と病気・貧困に悩まされ、1506年この世を去った。

コロンブスは死ぬまで、自身が探検踏査した土地が「新大陸」であることに気づかず、またインディアスのいずれかであると 信じて疑わなかった。新大陸アメリカの発見のめい誉もアメリゴ・ベスプッチに奪われることとなった。 コロンブスの大西洋横断西回り航海の意義はいろいろあろうが、その一つは西欧人たち、まずはスペイン人、ポルトガル人による 植民地経営の歴史的起点をつくり出したことであろう。

[参考文献]「海の道と東西の出会い」(世界史リブレット)、青木康征、山川出版社、2010年など。


● 支倉常長・慶長遣欧使節とサン・ファン・バウティスタ=グアダキルビル川、セビージャを経てローマへ向かった。

・ スペイン・セビリャの旅、メキシコ・ベラクルス、東北バウティスタ号見学の紹介時にはこのエピソードを記す。 select683 & 684
支倉常長・慶長遣欧使節とサン・ファン・バウティスタに関する略史(その1)→(その2)
・ 仙台藩主・伊達政宗は、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、家臣・支倉常長を副使にして、イスパニア (スペイン)の国王フェリペ3世のもとに外交使節団を派遣した(使節団は、スペインからさらに旅して、ローマ教皇パウルス 5世のいるバチカンへと赴いた)。その主目的は、仙台藩とメキシコとの交易許可をえるべく、スペインとの通商交渉を 行うことにあったと言われる。

・ 徳川家康の許可をえて政宗が建造したサン・ファン・バウティスタ(ガレオン船)をもって、支倉・ソテロら総勢180 余人は、1613年10月28日(慶長18年9月15日)に、牡鹿半島の月の浦(現在の宮城県石巻市)を、イスパニアの植民地ヌエバ・エスパーニャ (現在のメキシコ)のアカプルコに向けて出帆した。

・ 約3か月後の1614年1月28日、アカプルコに入港した。その後陸路でメキシコシティを経由して大西洋岸の港町ベラク ルスへ。6月10日、イスパニア艦サン・ホセで、ベラクルス地先に浮かぶ要塞島サン・ファン・デ・ウルア(San Juan de Ula)からイスパニアに向けて船出した。

・ 使節団はキューバのハバナを経て、10月5日イスパニア南部のサンルーカル・デ・バラメダに上陸した(支倉らは日本人としては 初めて大西洋を横断した)。その後グアダキヴィル川を遡上し、セビリアに入城した。その後若干名をセビリアに残して11月25日 マドリッドに向かい、12月20日にはイスパニアの首都マドリードに到着。常長らは翌年の1615年1月30日イスパニア国王フェリペ3世に謁見した。


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    エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉常長・コロンブス



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      第3節 台湾の海と港(基隆・淡江・高雄)を巡り、海洋博物館を探訪する
      第4節 中国の「上海航海博物館」と「京杭大運河」(杭州・南京・蘇州)を訪ねる
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