中国水利学会の話: 中国の歴史で3回の運河建設があった。
①・ なぜ掘り始めたか。BC484年淮河と長江が繋がる。邗溝が最初の運河、復元される。呉王夫差が邗溝を造った。戦の道として。
夫差は首都を長江の南の蘇州に置いた。当時長江の北には水路がなかった。夫差は北の派遣を握るためBC486年ここ揚州に邗溝を
造った。
2.呉王夫差と魏の惠王は黄河と淮河を、また長江とも結んだ。
・ 紀元前486年春秋時代、時の王・夫差、淮河ー長江を繫ぐ邗溝。
紀元前221年秦の始皇帝は初めて中国全土を統一したが、BC206年滅亡した。わずか15年。、
・ 統一国家と運河:初めての統一国家/秦。しかし15年で滅ぶ。秦は黄河の支流・渭河の中流?の咸陽・かんように都をおく。
漢はその対岸の西安・長安に都を置く。
秦の始皇帝が造った○○渠は珠江と北方をつなげ、長江も結んだ。
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②隋(AD581-618)・文帝・開封・大いに繁栄
・ 西安は13の王朝の都で、漢・唐の時代に繁栄した。長安人口多く、官僚も増え周辺で作る食糧では不足、隋の文帝(隋の初代皇帝)
はこの問題解決のため有名な「広通渠」を造った。漕渠:西安市の新合村にその跡が遺る。鴻溝:黄河と淮河の間を斜めに結ぶ。
・ 運河の町・開封:過去7回も首都、北宋は開封を都にし、画家張沢端が描いた「清明上河図」のように繁栄した。
その繁栄に最も寄与したのが隋の煬帝が開削した「通済渠」であった。唐・宋の時代には「汴渠べんきょ」と呼び大動脈の役割を
果たした。江南地方の食料が開封まで運ばれた。隋の時代大運河が開通すると物資の集積地として開封は賑わった。
開封には宋の時代も都が置かれ国中の物資が集まり繁栄を極めた。
・ 隋の第2代・煬帝は名君か暴君か。容態、3つの運河を開削した。
1.黄河ー淮河間の通済渠、淮河ー長江間の山陽濵?瀆?(山陽渠)、長江以南・江南河。100万人の男女が動員された。完成後船遊び、放蕩
な生活三昧によって評価を落とした。高句麗を攻めるため永済渠を黄河中流から北京方向へ。しかし、派遣軍は撃退される。
煬帝は親衛隊長により暗殺される。同黄河中流から淮河経て、長江との交点=揚州の「瓜洲船閘」(閘門)を経て、杭州での銭塘江との
交点=「三堡閘門」を経て、さらに紹興、寧波にいたる。
・ かつては人力、馬力で閘門通過を操作した。大運河には20の閘門があるという。宋の時代に中国を訪ねた日本僧侶・成尋はその日記に16頭の牛の力をもって
閘門を超えたと記している。
・ 船は帆を揚げて航行したが、無風の時は曳船や人力による牽引に頼った。
・ 塩の専売
3.秦の統一後の大事業が運河建設、隋の煬帝が運河開削、それは国の統一のため。
・ 税収の一種である糧食を運ぶため。隋2代目皇帝煬帝、運河建設を命じる。581年隋は300年ぶりに、中国を国家再統一した、しかしわずか数十年で618年滅亡する。運河建設が火種になって反乱?:日本
では飛鳥時代。わずか6年で完成。史料によると600kmの長さを半年で完成させ延べ350万人を動員。
。
・ 581-618年隋王朝は、北京ー都・長安ー淮河・杭州(くの字に)を結ぶ。それを1271年に北京に都を置いた元朝は、
ストレートにショートカットで北京と杭州を最短距離で結ぶ運河を建設しようとした。
・ 隋の第2代皇帝・煬帝、7世紀に大運河の建設を命じる。南北2つに分かれていた隋・陳は、6世紀に隋が300年ぶりに国家統一した。
科挙整備、万里の長城と大運河建設の大土木工事を始める。高句麗に遠征軍を派遣するために軍事的物資の運搬のため補給路として、都・
洛陽から北へ運河を造ろうとした。他方、穀倉地帯の江南地方まで食料や必要物資の調達のため南へ運河を造り、洛陽を起点に
「くの字」型の大運河を建設しようとした。
・ 「開河記」によれば、至る所から男だけでなく、女、老人、子供など543万余人が集め動員され、労役を逃れようとすれば親戚に
至るまで厳しく処罰した。工事の過酷な労苦労役で落命した者は250万人とも言われる。
・ 運河は6年で完成。完成後翌年から3回に渡り高句麗に遠征した。しかし失敗に終わる。
煬帝はしばしば揚州の運河で女性をはべらし遊覧、派手な瀟洒な船遊びに興じた。「二十四橋」:24人の女性に橋の上で楽器演奏させた。
揚州の大運河沿いには大レリーフがあり、煬帝が船遊びした場面がある。
運河完成3年後各地で反乱が勃発、洛陽から揚州に逃避し、遊興にふける。
618年腹心の部下の裏切りに遭い、殺害される。
2013年、揚州郊外の工事現場で彼の墓が発見された。「揚州博物館」には、唐の時代に作られた彼の墓から発見された2本の歯が厳重に
保管されている。
・ 「中国隋唐大運河博物館」、洛陽と淮北(わいほく)にあると思われる。揚州にも運河博物館ありそう。
洛陽から杭州へ南に運河が伸びるが、その途上の「淮北・ホワイペイ」(徐州の南西40㎞ほど)で運河の埠頭跡が発見された。
そこから沈没したとみられる船8隻が出土した。それらが同博物館に保存公開される。全長10mほど、平底の出土船(陶磁器を
運ぶ民間の商用船)をもって発掘現場が再現されている。唐時代には大運河は物流を発展させ経済を支える動脈となっていた。
唐時代の急速な発展は煬帝の大運河を継承利用することでもたらされた。
洛陽は大運河の起点、北方に伸びる運河と南方へ伸びる運河の分岐点・結節点といえる。洛陽--100km鄭州-―開封・カイフォンーー
南東250kmほど・淮北へ通じる。
煬帝は洛陽近郊?に巨大な穀物倉庫・地下サイロ700も造る。
・ 10世紀、五代十国時代、運河は荒廃、北宋→金・南宋へ、13世紀・元が成立、そして最短距離の運河で北京ー杭州を
結ぼうとしたが高地に阻まれた。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、大運河を蘇させた。(聊城(リャオチョン・ようじょう?、りゅう
じょう?でかつての閘門跡が発掘され改修・復元された。)
・ 14世紀元→明を建国、300年続く。永楽帝は元の運河を改修し拡幅し南北に最短距離で北京・杭州を南北に結ぶ大動脈を
貫通させようとした。当時、南京の都を北京へ遷都し、江南から食料を調達する必要があり、元が失敗した高地を経る最短
ルートを永楽帝が完成させた。煬帝以降最も大規模に改修したのは14世紀、明の永楽帝である。
南京大橋、6.7km、上は車道、下は鉄道の2階建て、1968年完成。東西に流れる長江と古運河が交わる、その交点から500mほど北に、
水位を調節する閘門があり、運河が揚州へ通じさらに北・黄河に伸びる。
・ 揚州: シンボルタワーの文峰塔、8角形にして7階、1582年建造、古運河沿いに建つ。
・ 長江・黄河を結び、北へ伸ばしては北京へ、南に掘り進んでは杭州に至る全長1800kmの大土木工事をやってのけた
煬帝は揚州を好んだ。運河により長安の民は飢えることなしと言われた。
余りの大工事に民は疲れはて、兵は反乱、容体は長安を追われて都を揚州に移した。慰めは月見の宴だけであった。かつての部下に刃を
向けられあえない最期を遂げた。そして隋王朝は倒れた。
揚州郊外の水田の中に煬帝の墓=煬帝陵はあった。
煬帝が築いた運河によって、隋に続く王朝唐の礎を築いたといわれた。揚州の繁栄はその運河の中継点たる地の利をえて初めて成り立った。
・ 揚州はまた国際貿易の地でもあった。アラブ人も多く暮らしていた。アラブ人の墓やイスラム寺院もある。
揚州はイスラム商人によって賑わった。マルコポーロも揚州に来たと東方見聞録に記している。フビライハーンの命で3年間揚州で知事を
務めたという。元の皇帝フビライハーンは色目人といわれる外国人を登用した。
・ 鑑真は揚州に生まれ、揚州の大明寺(だいめいじ)で修業を積んだ。742年のこと、2人の日本人僧が訪れ、鑑真と日本とを
結びつけるきっかけとなった。鑑真が日本を目指した。渡海に何度も失敗したが、ついに日本の土を踏んだ。
・ NHK取材班は古運河を経て黄河との交点へ、黄河を遡り西安=長安をめざした。このルート=南京・長江南の町→長江→揚州→
古運河→黄河→長安へ??、地図作成。
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③元
4. 元の時代に運河は現在のような姿となった。大運河は政治経済軍事文化交流を索審査説明書き国家を統一した。
・ 581-618年隋王朝は、北京ー都・長安ー淮河・杭州(くの字に)を結ぶ。それを1271年に北京に都を置いた元朝は、
ストレートにショートカットで北京と杭州を最短距離で結ぶ運河を建設しようとした。
・ 1271-1368年元王朝は、北京-今の山東省・聊城(ようじょう?、りゅうじょう?・北京の少し南、標高が高い)ー
淮河ー長江ー紹興ー寧波を直線的に南北に繫ぐ。しかし、標高のある山東省の高地に何十と言う閘門を建設し水の階段を建設し、
高地を越えようとした。聊城には大運河の「土橋閘遺址」が遺される。かつての古閘門が発掘・復元されている。水源は如何に。
揚州はいつの時代でも大運河の一大重要かつ共通の通過点・要衝的地位であった
用集には古代塩商人が権勢をにない、また文化的繁栄に寄与。揚州にある大明寺: 鑑真が住持を務めた、10段ほどの高塔あり。遣唐使であった空海は
それを知っていて同寺を訪れた。
・ 10世紀、五代十国時代、運河は荒廃、北宋→金・南宋へ、13世紀・元が成立、そして最短距離の運河で北京ー杭州を
結ぼうとしたが高地に阻まれた。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、大運河を蘇させた。(聊城(リャオチョン・ようじょう?、りゅう
じょう?でかつての閘門跡が発掘され改修・復元された。)
・ 14世紀元→明を建国、300年続く。永楽帝は元の運河を改修し拡幅し南北に最短距離で北京・杭州を南北に結ぶ大動脈を
貫通させようとした。当時、南京の都を北京へ遷都し、江南から食料を調達する必要があり、元が失敗した高地を経る最短
ルートを永楽帝が完成させた。煬帝以降最も大規模に改修したのは14世紀、明の永楽帝である。
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④明・永楽帝
・ 明朝の第3代皇帝永楽帝は北京に都を移した。通州区の運河で紫禁城建設のための巨木(皇木と呼ばれる)が発見された。
通州から紫禁城近郊を経て、城の北側の「什殺海・じゅうさつかい」の「万寧橋」まで運河が開削された。
什殺海は「元の時代に使われていた大運河」の終着地点となった。「万寧橋」はいわば京杭大運河の北の最終地点である。
それ以前の大運河の最終地点は通州であった。
・ 10世紀、五代十国時代、運河は荒廃、北宋→金・南宋へ、13世紀・元が成立、そして最短距離の運河で北京ー杭州を
結ぼうとしたが高地に阻まれた。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、大運河を蘇させた。(聊城(リャオチョン・ようじょう?、りゅう
じょう?でかつての閘門跡が発掘され改修・復元された。)
・ 14世紀元→明を建国、300年続く。永楽帝は元の運河を改修し拡幅し南北に最短距離で北京・杭州を南北に結ぶ大動脈を
貫通させようとした。当時、南京の都を北京へ遷都し、江南から食料を調達する必要があり、元が失敗した高地を経る最短
ルートを永楽帝が完成させた。煬帝以降最も大規模に改修したのは14世紀、明の永楽帝である。
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⑤その他
北京の北40㎞?の白浮泉=8の龍が水を吐く、が運河の端に当たる。南端は寧波。寧波ー北京2000km。日本の僧侶も寧波をめざした。
マルコは1271年中国に渡る。
・ 杭州の「京杭大運河博物館」No.2049 掲示によれば、吴王夫差(前495?-前473年)は、春秋時代末期の吴国の王であるが、邗沟(かんこう)やその他の沟渠=
かんこうが春秋時代に、通さい渠、永さい渠などが隋王朝、
広さい渠、会通河、通けい河などが元時代に形成されたと表示される。
詳細を省くが、主に3つの時代、春秋、隋、元の時代に開削・修復・整備された。??
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中国と日本の絶景:隋唐大運河
行く経路:河南省洛陽市と安徽省淮北市の「隋唐大運河博物館」を推薦する。洛陽市は、上海から飛行機で行くことが便利。
淮北市は上海から飛行機で徐州へ、徐州から観光バスで淮北市へ行く。
隋唐大運河は、東都洛陽中心として廣通渠,永濟渠,通濟渠,山陽瀆,江南運河で構成する。紀元605年から建設、360万人投入、
全長2700kmだった。今は半分以上不通、半分は断続的他の水系とつなっていた。
隋唐大運河は中国の秦で始めて建設され、隋は続いて、中国の南北を結ぶ重要な物資輸送手段となり、元代にも修築された。
運河は、ヨーロッパで発達し、特にイギリスでは産業革命期の鉄道以前の主要な交通、物資運搬手段として運河網が造営されたこと、
近代のスエズ運河やパナマ運河がよく知られているが、中国大陸では、ヨーロッパより千年前から運河は農業用水・内陸交通・
物資運搬手段としても早くから開発されていた。むしろ中国史における運河の開設の方が古く、重要な役割を果たしていた。
特に隋の大運河網の建設を頂点として、統一王朝の事業として重視され、その一部は現在まで使用されているものもある。
秦の運河
中国の運河開削の歴史は、秦の政(始皇帝)の鄭国渠(ていこくきょ)に始まる。前247年、13歳で秦王となった政
(正とも。後の始皇帝)が秦王となったとき、鄭国という人が、関中の黄土地帯を開拓するために渭水の支流の水を引いて
灌漑用水をつくることを献策した。実は鄭国は隣の韓のスパイだったのだが、用水は立派に完成し、鄭国渠と言われ、今も使われている。
また始皇帝は、前214年に嶺南(今の広東・広西)の南越を征服しようとして軍を派遣したとき、華中と嶺南を南北に結ぶ
霊渠という運河を建設した。これは南海の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになり、この運河も現在も使われている。
(鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.145-147)
隋文帝の大運河
中国全土を統一した隋は、首都圏の人口増加を支えるために、豊かな生産力のある江南地方と首都大興城
(長安)を結ぶ大運河の建設を開始した。まず、隋文帝の584年、長安と黄河を結ぶ広通渠建設された、隋代の運河で最初に
建設された。隋の都長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を解決するため、黄河とつながるこの運河を築き、
中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。隋の文帝の587年に山陽涜を建設された、淮水と長江を結ぶ運河。
隋煬帝の大運河
604年に即位した第2代煬帝は605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠を築き、これによって江南の物産は長江から
長安に至る運河が貫通した。華北と江南地方とを結ぶ重要な役割を果たした。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南運河を完成させ、
長江デルタ地帯と結びつけた。長江(下流の揚子江)流域の揚州と浙江省の杭州を結ぶ運河だので、これによって長江デルタ地帯
と遠く長安が水路で結ばれることとなった。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征
のための食料輸送用に建設された。 大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、
早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈
となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれら
の大運河網は活用されている。洛陽は大運河のおかけ、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の首都となる。
元の大運河
金と南宋の対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。
そこで再び脚光を浴びたのが大運河であった。隋の大運河は、長安・洛陽に向けて、江南と華北地方を横Y字型で結ぶもの
であったので、元は都大都と江南地方を直接結ぶ、南北縦断する運河の建設を新たに開始した。1276~1292年の間に
それを完成させ、現在見るような大運河となった。一方で元は南方の物資を海上輸送で華北に運んだ。それは、冬季になると
大都付近の運河が凍結して使えなくなってしまうからであった。
通恵河 つうけいが
元代に首都大都から通州まで開設された大運河の一部。1291年、フビライ=ハンの命令で、郭守敬
(授時暦の制定でも知られる漢人の技術者)が設計し、翌年著工、1293年に完成した。郭守敬は、大都の北方の昌平県白浮泉の
水源から水路を甕山泊に導き、そこから城内の積水潭に引きために、東に向かってから南に折れ、南の水門から旧運河に
合流するようにした。旧運河にも14の水門を設けるなど、厳密な測量と工事で運河を完成させた。約2万人を動員し、
約91kmの大工事であった。この運河の完成によって、これまで通州で荷揚げされていた穀物輸送等の船舶は、大都まで
直通できるようになり、大都の積水潭は船で水面が覆われるほど盛況が出現した。なお、甕山泊とは、現在の頤和園の昆明湖の
前身である。 (陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書 p.64-65)
隋唐大運河の世界遺産登録内容:
通済渠
(1)含嘉倉遺跡〔河南省洛陽市〕
(2)回洛倉遺跡〔河南省洛陽市〕
(3)鄭州段運河〔河南省鄭州市〕
(4)商丘南関段運河〔河南省商丘市〕
(5)商丘夏邑段運河〔河南省商丘市〕
(6)柳孜運河遺跡〔安徽省淮北市〕…柳孜段運河遺跡、柳孜橋梁遺跡
(7)泗県段運河〔安徽省宿州市〕
永済渠
(8)滑県 - 濬県段運河〔河南省安陽市・鶴壁市〕
(9)黎陽倉遺跡〔河南省鶴壁市〕
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淮北市隋唐大運河博物館
淮北市隋唐大運河博物館には数万点の文物が所蔵されており、内には漢代の銅玉衣、淮北柳孜隋唐大運河跡の出土文物及び
春秋戦国から秦漢期の淮北の出土文物がある。博物館は市役所の向かいにあり、無料で便利です。「漢煉瓦」を見えるし、
運河の発展の概況と江淮地の歴史的起源を見ることができ、もう一度江淮地の歴史的文脈の印象を深めます。
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【京杭大運河の建設】
人類5000年の歴史をみると、地球社会において東西方向、すなわち同緯度にある地域は、気候が似ており、土地の文化が
伝播しやすく、相互の交流により文明もよく発展した。一方、土地が南北に長いと、緯度により気候が大きく変化することから、
アメリカ大陸にみるように、地域の文化が広がりをみせにくい。ユーラシア大陸では、紀元前からラクダやロバまた船などを介し、
人の往来や物資の交換があり、それに伴い文化も伝播した。
中国の地は、東西だけでなく南北にも広がっている。この地の主な食糧は小麦と水稲で、淮河(図5)が流れる華中の秦嶺・
淮河線(年間降水量800~1,000㎜による境界)を境に、このラインより上は、気候が寒冷で乾燥しがちな華北の小麦耕作地帯、
下は温暖で湿潤な華中・華南の水稲耕作地帯となっている。
中国では漢が滅ぶと、中世に随・唐が成立するまで、国土は分裂し統一に至らなかった。それは国内の大河(黄河、
長江など)が、みな東西方向に流れ南北を分断し(図5)、軍勢の進軍を阻んだことが大きい。そこで隋の皇帝は、587年、
軍事と経済の連携を狙い、黄河と長江を貫き中国の南北を結ぶ、京杭大運河(図5、約2,500km)の建設に入る。この大運河建設は、
南船北馬ではないが、農業生産性の高い南部の豊かな食糧や物資を、痩せた土地が続く北部へと輸送して、
その消費にあてるとともに、遊牧民の血が入った華北の戦闘に強い騎馬軍団を、中国国内で広く活用しようとする戦略である。
食糧と兵を南北で動かすことで、社会統合・安定化を図る政策といえる。大運河の完成は610年である。しかし、
工事に100万人を超える人民の動員があり、多大な負担を強いたことが一因となり、隋は倒れ唐が興る。その後、
ユーラシア大陸での人や物の動きが大きくなると、高速での大量輸送に向き費用も安い、船での輸送(写真1)が有利となり、
陸の隊商交易*から河川や海洋など水運交易へとシフトする。
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大西洋と地中海を結ぶフランスのミディ運河には、300カ所以上のトンネルや閘門、橋梁、橋が付随している。素晴らしい文化
遺産であり、観光の目的地でもある。
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大運河
江南の経済地帯と北方の政治・軍事の中心地を結んだ水路。隋では文帝・煬帝の2代にわたって、洛陽から天津にいたる永済渠
えいさいきょの建設に始まり、広通渠こうつうきょ・山陽瀆さんようとく・江南河こうなんがの建設で、長安と江南の余杭
(杭州)を結んだ。
中国の8つの省を貫き、北は北京から南は浙江省に至る大運河。紀元前5世紀前から建設が始まり、後7世紀の隋代には、広大な
中国内陸部を結ぶ交通網となった。その後も歴代王朝によって維持拡張され、国民への米や穀物の供給、軍事物資や軍隊の
輸送に利用され続けた。建設が最盛期に達した元代の13世紀には、総延長は2000㎞以上におよんだ。産業革命前の世界最大
の土木技術であり、中国で最も重要な黄河や長江を含む5つの河川流域をつなぐこの運河は、現在でも交通網として重要な
役割を担っている。
京杭大運河
北京から浙江省せっこうしょうまで中国東部を縦断する京杭大運河けいこうだいうんがは、紀元前5世紀から各地でつくられて
きた小運河を、7世紀の隋代に連結したもの。分断していた南北が結ばれ、穀物や米の流通が国家の食糧事情を向上させ、
大運河は以後の王朝の内陸物流の要となった。13世紀には中国の主要5河川が結ばれ、国家の経済、文化交流に重要な役割を
果たした。運河の大部分は現在も利用されている。
文帝(隋)の整備した大運河
広通渠こうつうきょ 黄河〜長安 584年開通
邗溝かんこう (山陽瀆) 淮河〜長江 587年開通
煬帝の整備した大運河
通済渠つうさいきょ 黄河〜淮河 605年開通
永済渠えいさいきょ 黄河〜涿郡 608年開通
江南河こうなんが 鎮江ちんこう〜杭州こうしゅう 610年開通
元代が開いた大運河
済州河さいしゅうが 淮安わいあん〜大清河だいせいが
会通河かいつうが 大清河〜永済渠えいさいきょ
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NHK海のシルクロード・最後12:
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TV録画:プレミアムカフェ 「奇跡の水路2000キロ ~大運河が中国を作った~」 2008年放送、2022.5.14、No.40
・ 中国大陸の河川: 北京・海河、黄河、淮河わいが、長江・杭州湾、銭塘江・寧波
・ 大運河、紀元前342年から建設工事が人海戦術をもって始まる。唐の時代から米塩、、の輸送、3-400万隻も航行したと伝えられる。
・ 物流の大動脈として、戦のための道として、文化交流の道として大きな機能役目を果たす。南船北馬:大陸の北前船南では輸送手段が
異なり向き合った。
・ 黄河・渭河(渭水いすい)・洛水の合流地点・潼関。
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TV録画: 日中共同制作 中国大紀行「”京杭大運河”王宮に繋がる水の道 1794キロを行く」、田辺、2022.1.26、No.66
杭州・栱宸橋、いわば京杭大運河の南の起点、「京杭大運河博物館」入り口ホールに「清・南巡道理図(複製品)」=京杭大運河の古い
ルート図展示。
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TV録画: 中国王朝 英雄たちの伝説「巨大遺産の謎 大運河 ~煬帝から永楽帝へ~」、2022.2.6、No165
ここで終了。
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1. 杭州市内の古い拱宸橋 (こうしんきょう・Gongchen Bridge) は1631年 (明代の崇禎4年) に建設された。北京と杭州をつなぐ京杭大
運河の最南端の標識でもある。 [拡大画像: x27620.jpg]
2. 拱宸橋から京杭大運河を眺望する。 [拡大画像: x27621.jpg]
3. 揚子江 (長江) をはさんで、高層ビルがそびえる南京市街地側の中山碼頭 (中山フェリーターミナル) と、その対岸の浦口碼頭
(浦口フェリーターミナル) を結ぶ渡し船がシャトル運航される。片道2元、約35円。南京東方の少し下流で (鎮江、揚州辺りで)、
京杭大運河はこの揚子江を横切る。 [拡大画像: x27622.jpg]
4. 蘇州の寒山寺そばを流れる京杭大運河 (右側の運河)。左側の水路は古運河である。中央は中洲となっている。
中洲の最北端 (惊鴻渡) (画面上では中洲の最下端) から京杭大運河を眺望したのが下の画像5である。寒山寺は画面中央の古運河に
架かるアーチ型橋 (江村橋) の左側に広がる樹林の中にある。 [拡大画像: x27623.jpg]
5. 中洲の最北端 (惊鴻渡) から京杭大運河を眺望する。数珠つなぎで艀(はしけ)が行き交う。
[拡大画像: x27624.jpg]
6. 画像は蘇州南方郊外にある宝帯橋。橋は京杭大運河の大きな十字路にある。橋とはいえ、欄干は一つも見当たらず、
アーチ型橋桁の下は船が通行できる大きさでなく、また橋の先には道が続いていない。人が通って渡る橋ではない。
その昔、橋上の船曳人が、この十字路を通行する船との間にロープを渡し、それを引っ張りながら船を誘導したり、
方向転換させるために用いられた橋なのである。 [拡大画像: x27625.jpg]
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・ 杭州の「京杭大運河博物館」No.2049 掲示によれば、吴王夫差(前495?-前473年)は、春秋時代末期の吴国の王であるが、邗沟(かんこう)やその他の沟渠=
かんこうが春秋時代に、通さい渠、永さい渠などが隋王朝、
広さい渠、会通河、通けい河などが元時代に形成されたと表示される。
詳細を省くが、主に3つの時代、春秋、隋、元の時代に開削・修復・整備された。??
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NHK海のシルクロード・最後12:南京大橋、6.7km、上は車道、下は鉄道の2階建て、1968年完成。
東西に流れる長江と古運河が交わる、その交点から500mほど北に、水位を調節する閘門があり、運河が揚州へ通じさらに北・
黄河に伸びる。
・ 揚州: シンボルタワーの文峰塔、8角形にして7階、1582年建造、古運河沿いに建つ。
塩商人の家々有。
・ 長江・黄河を結び、北へ伸ばしては北京へ、南に掘り進んでは杭州に至る全長1800kmの大土木工事をやってのけた
煬帝は揚州を好んだ。運河により長安の民は飢えることなしと言われた。
余りの大工事に民は疲れはて、兵は反乱、容体は長安を追われて都を揚州に移した。慰めは月見の宴だけであった。かつての部下に刃を
向けられあえない最期を遂げた。そして隋王朝は倒れた。
揚州郊外の水田の中に煬帝の墓=煬帝陵はあった。
煬帝が築いた運河によって、隋に続く王朝唐の礎を築いたといわれた。揚州の繁栄はその運河の中継点たる地の利をえて初めて成り立った。
・ 揚州はまた国際貿易の地でもあった。アラブ人も多く暮らしていた。アラブ人の墓やイスラム寺院もある。
揚州はイスラム商人によって賑わった。マルコポーロも揚州に来たと東方見聞録に記している。フビライハーンの命で3年間揚州で知事を
務めたという。元の皇帝フビライハーンは色目人といわれる外国人を登用した。
・ 鑑真は揚州に生まれ、揚州の大明寺(だいめいじ)で修業を積んだ。742年のこと、2人の日本人僧が訪れ、鑑真と日本とを
結びつけるきっかけとなった。鑑真が日本を目指した。渡海に何度も失敗したが、ついに日本の土を踏んだ。
・ NHK取材班は古運河を経て黄河との交点へ、黄河を遡り西安=長安をめざした。このルート=南京・長江南の町→長江→揚州→
古運河→黄河→長安へ??、地図作成。
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TV録画:プレミアムカフェ 「奇跡の水路2000キロ ~大運河が中国を作った~」 2008年放送、2022.5.14、No.40
・ 中国大陸の河川: 北京・海河、黄河、淮河わいが、長江・杭州湾、銭塘江・寧波
・ 大運河、紀元前342年から建設工事が人海戦術をもって始まる。唐の時代から米塩、、の輸送、3-400万隻も航行したと伝えられる。
・ 物流の大動脈として、戦のための道として、文化交流の道として大きな機能役目を果たす。南船北馬:大陸の北前船南では輸送手段が
異なり向き合った。
中国水利学会の話: 中国の歴史で3回の運河建設があった。
1 秦の始皇帝が造った○渠は珠江と北方をつなげ、長江も結んだ。
2.呉王夫差と魏の惠王は黄河と淮河を、また長江とも結んだ。
3.秦の統一後の大事業が運河建設、隋の煬帝が運河開削、それは国の統一のため。
4. 元の時代に運河は現在のような姿となった。大運河は政治経済軍事文化交流を索審査説明書き国家を統一した。
北京の北40㎞?の白浮泉=8の龍が水を吐く、が運河の端に当たる。南端は寧波。寧波ー北京2000km。日本の僧侶も寧波をめざした。
・ なぜ掘り始めたか。BC484年淮河と長江が繋がる。邗溝が最初の運河、復元される。呉王夫差が邗溝を造った。戦の道として。
夫差は首都を長江の南の蘇州に置いた。当時長江の北には水路がなかった。夫差は北の派遣を握るためBC486年ここ揚州に邗溝を
造った。マルコは1271年中国に渡る。
・ 統一国家と運河:初めての統一国家/秦。しかし15年で滅ぶ。秦は黄河の支流・渭河の中流?の咸陽・かんように都をおく。
漢はその対岸の西安・長安に都を置く。
・ 黄河・渭河(渭水いすい)・洛水の合流地点・潼関。
・ 西安は13の王朝の都で、漢・唐の時代に繁栄した。長安人口多く、官僚も増え周辺で作る食糧では不足、隋の文帝はこの問題解決のため
有名な「広通渠」を造った。漕渠:西安市の新合村にその跡が遺る。鴻溝:黄河と淮河の間を斜めに結ぶ。
・ 運河の町・開封:過去7回も首都、北宋は開封を都にし、画家張沢端が描いた「清明上河図」のように繁栄した。
その繁栄に最も寄与したのが隋の煬帝が開削した「通済渠」であった。唐・宋の時代には「汴渠べんきょ」と呼び大動脈の役割を
果たした。江南地方の食料が開封まで運ばれた。隋の時代大運河が開通すると物資の集積地として開封は賑わった。
開封には宋の時代も都が置かれ国中の物資が集まり繁栄を極めた。
・ 隋の煬帝は名君か暴君か。容態、3つの運河を開削した。
1.黄河ー淮河間の通済渠、淮河ー長江間の山陽濵?瀆?、長江以南・江南河。100万人の男女が動員された。完成後船遊び、放蕩
な生活三昧によって評価を落とした。高句麗を攻めるため永済渠を黄河中流から北京方向へ。しかし、派遣軍は撃退される。
煬帝は親衛隊帳により暗殺される。同黄河中流から淮河経て、長江との交点=揚州の瓜洲船閘(閘門)を経て、杭州での銭塘江との
交点=三堡閘門を経て、さらに紹興、寧波にいたる。
・ かつては人力、馬力で閘門通過を操作した。大運河には20の閘門があるという。宋の時代に中国を訪ねた日本僧侶・成尋はその日記に16頭の牛の力をもって
閘門を超えたと記している。
・ 船は帆を揚げて航行したが、無風の時は曳船や人力による牽引に頼った。
・ 塩の専売
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TV録画: 日中共同制作 中国大紀行「”京杭大運河”王宮に繋がる水の道 1794キロを行く」、田辺、2022.1.26、No.66
杭州・栱宸橋、いわば京杭大運河の南の起点、「京杭大運河博物館」入り口ホールに「清・南巡道理図(複製品)」=京杭大運河の古い
ルート図展示。
税収の一種である糧食を運ぶため。
隋2代目皇帝煬帝、運河建設を命じる。581年隋は300年ぶりに、中国を国家再統一した、しかしわずか数十年で618年滅亡する。
運河建設が火種になって反乱?:日本では飛鳥時代。わずか6年で完成。史料によると600kmの永さを半年で完成させ延べ350万人を動員。
・ 紀元前486年春秋時代、時の王、淮河ー長江を繫ぐ。
・ 581-618年隋王朝は、北京ー都・長安ー淮河・杭州(くの字に)を結ぶ。それを1271年に北京に都を置いた元朝は、
ストレートにショートカットで北京と杭州を最短距離で結ぶ運河を建設しようとした。
・ 1271-1368年元王朝は、北京-今の山東省・聊城(ようじょう?、りゅうじょう?・北京の少し南、標高が高い)ー
淮河ー長江ー紹興ー寧波を直線的に南北に繫ぐ。しかし、標高のある山東省の高地に何十と言う閘門を建設し水の階段を建設し、
高地を越えようとした。聊城には大運河の「土橋閘遺址」が遺される。かつての古閘門が発掘・復元されている。水源は如何に。
揚州はいつの時代でも大運河の一大重要かつ共通の通過点・要衝的地位であった
用集には古代塩商人が権勢をにない、また文化的繁栄に寄与。揚州にある大明寺: 鑑真が住持を務めた、10段ほどの高塔あり。遣唐使であった空海は
それを知っていて同寺を訪れた。
・ 明朝の第3代皇帝永楽帝は北京に都を移した。通州区の運河で紫禁城建設のための巨木(皇木と呼ばれる)が発見された。
通州から紫禁城近郊を経て、城の北側の「什殺海・じゅうさつかい」の「万寧橋」まで運河が開削された。
什殺海は元の時代に使われていた大運河の終着地点となった。「万寧橋」はいわば京杭大運河の北の最終地点である。
それ以前の大運河の最終地点は通州であった。
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TV録画: 中国王朝 英雄たちの伝説「巨大遺産の謎 大運河 ~煬帝から永楽帝へ~」、2022.2.6、No165
・ 隋の第2代皇帝・煬帝、7世紀に大運河の建設を命じる。南北2つに分かれていた隋・陳は、6世紀に隋が300年ぶりに国家統一した。
科挙整備、万里の長城と大運河建設の大土木工事を始める。高句麗に遠征軍を派遣するために軍事的物資の運搬のため補給路として、都・
洛陽から北へ運河を造ろうとした。他方、穀倉地帯の江南地方まで食料や必要物資の調達のため南へ運河を造り、洛陽を起点に
「くの字」型の大運河を建設しようとした。
・ 「開河記」によれば、至る所から男だけでなく、女、老人、子供など543万余人が集め動員され、労役を逃れようとすれば親戚に
至るまで厳しく処罰した。工事の過酷な労苦労役で落命した者は250万人とも言われる。
・ 運河は6年で完成。完成後翌年から3回に渡り高句麗に遠征した。しかし失敗に終わる。
煬帝はしばしば揚州の運河で女性をはべらし遊覧、派手な瀟洒な船遊びに興じた。「二十四橋」:24人の女性に橋の上で楽器演奏させた。
揚州の大運河沿いには大レリーフがあり、煬帝が船遊びした場面がある。
運河完成3年後各地で反乱が勃発、洛陽から揚州に逃避し、遊興にふける。
618年腹心の部下の裏切りに遭い、殺害される。
2013年、揚州郊外の工事現場で彼の墓が発見された。揚州博物館には、唐の時代に作られた彼の墓から発見された2本の歯が厳重に
保管されている。
・ 「中国隋唐大運河博物館」、揚州or淮北(わいほく?)にあり?
洛陽から杭州へ南に運河が伸びるが、その途上の「淮北・ホワイペイ」(徐州の南西40㎞ほど)で運河の埠頭跡が発見された。そこから沈没したとみられる
船8隻が出土した。それらが同博物館に保存公開される。全長10mほど、平底の出土船(陶磁器を運ぶ民間の商用船)をもって
発掘現場が再現されている。唐時代には大運河は物流を発展させ経済を支える動脈となっていた。唐時代の急速な発展は煬帝の大運河を
継承利用することでもたらされた。
洛陽は大運河の起点、北方に伸びる運河と南方へ伸びる運河の分岐点・結節点といえる。洛陽--100km鄭州-―開封・カイフォンーー
南東250kmほど・淮北へ通じる。
煬帝は洛陽近郊?に巨大な穀物倉庫・地下サイロ700も造る。
・ 10世紀、五代十国時代、運河博物館荒廃、北宋→金・南宋へ、13世紀・元が成立、そして最短距離の運河で北京ー杭州を
結ぼうとしたが高地に阻まれた。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、大運河を蘇させた。(聊城(リャオチョン・ようじょう?、りゅう
じょう?でかつての閘門跡が発掘され改修・復元された。)
・ 14世紀元→明を建国、300年続く。永楽帝は元の運河を改修し拡幅し南北に最短距離で北京・杭州を南北に結ぶ大動脈を
貫通させようとした。当時、南京の都を北京へ遷都し、江南から食料を調達する必要があり、元が失敗した高地を経る最短
ルートを永楽帝が完成させた。煬帝以降最も大規模に改修したのは14世紀、明の永楽帝である。
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Chinese Naval Museum at Qingdao 中国海軍博物館
[山東省青島市; 清代には北洋艦隊の本拠地があった; 青島湾に臨む; 東側には魯迅公園と海産博物館がある;
中国海軍史の紹介、退役駆逐艦・潜水艦の展示あり; a Chinese naval musuem, operated by the Chinese Navy;
located at a former naval base at Qingdao]
定遠記念艦 [中国・威海]
「定遠」(ていえん)は清国・丁汝昌(ていじょしょう)提督の頃の北洋艦隊に所属した、当時における最新鋭の軍艦。
中国国家海洋博物館 National Maritime Museum of China [天津市浜海新区]
世界や中国の海洋文明・文化、船舶史などをテーマにする。
海軍博物館 [山東省青島市]
海産博物館 [山東省青島市]
水産博物館・標本館・淡水魚館 [山東省青島市]
海外交通史博物館 [福建省泉州市内の東湖公園近傍; 泉州は海のシルクロードの拠点として発展した港町;
泉州后諸(こうしょ)干潟から掘り出された宋代の12の隔壁をもつ木造帆船が展示される; 中国と外交関係のあった諸外国と泉州との
海外交通・海運史を示す展示館; 動物の皮袋で造られた筏、帆船、軍艦艇などの展示、中国船の発展史を示す展示など]
泉州湾古船陳列館 [福建省泉州市; 開元寺近傍]
対外交易の栄華をしのばせる泉州湾古船陳列館では、1974年に泉州港で発掘された13世紀・宋代に建造のジャンク船(貿易船)
およびその遺物(積み荷の胡椒、香木、古銭など)を展示する。沈船の大きさは全長25m、幅10㎡。船体は隔壁によって細かく区分けされる構造をもつ。
泉州湾・古代海上交通陳列館では、泉州における、宋元代の海洋交易史、鄭和の南海大遠征などについて展示する。
泉州でのその他の見どころとして、開元寺、海外交通史博物館、老子の巨像老君岩、航海の神を祭る媽祖廟、イスラム寺院の清浄寺、
イスラム聖墓、自由市場など。
China Maritime Museum 上海中国航海博物館
上海市浦東新区申港大道197号
http://news.xinhuanet.com/english2010/china/2010-07/07/c_13388058.htm
上海市南汇区の、杭州湾を見下ろす地; 博物館の館は中国ジャンク船の帆をかたどる; 中国の船モデル
やレプリカ、航海技術に関する遺物、鄭和大航海に使われた船のレプリカ、昔の海図などの展示物を通じて中国の海洋史を学べる.
海洋博物館
[杭州市でオープン; 昨年(2009年)暮れに開館した中国・国立海事博物館].
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20070121527.html
The Grand Jinghang Canal Museum 中国京杭大運河博物館 [杭州市・拱宸橋(ごんぜんばし)(京杭大運河の南端にあたる)の近傍]
展示は「京杭大運河の開削と変遷」、「大運河の利用」、「川沿いの都市と運河の文化」など4つのコーナー。運河に関係する多くの出土品や
模型など。運河文化プラザ南側。電話: 0571-88292420。
Nankin Teiwa KInenkan 南京鄭和記念館
中国・南京; 鄭和による南海航海の580周年を記念して1985年に建てられた中国最初の鄭和記念館; 同館は南京にある鄭和の
邸宅遺跡の敷地内にあり、明の時代様式の床面積734平方メートルに及ぶ建築群も含まれる; 鄭和の航海を中心に数多くの
実物・模型、関連文物を展示する.
http://www.china.org.cn/japanese/183288.htm
清明上河園 [河南省開封市; 宋代の開封の街並みを再現した歴史テーマパーク; 当時の復元帆船の展示]
Zhenhaikou Haifang Lishi Jinianguan 鎮海口海防歴史記念館 [寧波市鎮海区]
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