一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
ポルトガル・エンリケ航海王子の人物画像&略史
画像は、東京ディズニーシーの「メディテレーニアン・ハーバー」ゾーン内の⌈フォートレス・エクスプロレーション
⌋の壁面に描かれた、ポルトガルの「エンリケ航海王子」 (ヘンリー航海王子 Henry the Navigator, 1394 - 1460) の
人物画像である。壁面には、ヴァイキングのレイフ・エリクソンの他、コロンブス、マジェラン、
ドレーク、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータなどの
偉業を成し遂げた歴史上の者たちの人物画や関連史実なども描かれている。
14世紀からの地理上の発見時代、あるいは大航海時代は、帆船航海技術の大きな発展とともに推し進められて行ったといえよう。
航海技術を大いに進歩させ、大航海時代へのゲートウェイまで導いた立役者の一人は、ポルトガルのエンリケ(あるいはヘンリー)航海
王子であることは間違いない。
彼はポルトガル王のジョアン一世と英国ランカスターの王女フィリッパの息子であった。エンリケは、1415年のこと、
200隻余の軍船をもってイベリア半島から北アフリカの地セウタを攻略し、ムーア人 (イスラム教徒) からセウタを奪取したこと
でもその名を知られる。 ポルトガル南端のサグレス(イベリア半島南西端のセント・ヴィンセント岬の先端)に天文台や航海学校を設け、 民族・宗教などを問わず学者、航海者らを集め、そこで航海学、帆船の艤装や運用術、造船学、地図製作などの研究に取り 組み始めた。1419年頃のことである。 そして、アフリカ大陸の南を周回してインドへ到達することの可能性を固く信じ、船でアフリカ西岸を南下するという航海・ 探検事業を徹底して推し進めようとした。
1250年、ポルトガルは、国内に残るムーア人に壊滅的打撃を与え、カスティーリャ王国より240年以上も先んじて「レコンキスタ」 (ムーア人に侵攻され征服され続けてきたイベリア半島を奪回するキリスト教徒の戦い。国土回復運動)を終結させる。
1394年、エンリケ航海王子生まれる(~1460年)。
かくして、同航海王子が生きた時代におけるアフリカ西岸南下の航海・探検事業は、シェラレオーネ辺りまでの到達で終わりを告げた。
だが、その後20年ほどの間に、南下を続けたポルトガルの航海者たちは、赤道を越え、更にはコンゴ河口に到達し、
ついにはアフリカ南端を周回するにいたるまで、数々の成果をあげるにいたった。
1479年には、ポルトガルとカスティーリャは、カナリア諸島等の領有権、同諸島以南の航海権について合意するにいたり、
「アルカソヴァス条約」を結んだ。 1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは二隻のカラベラ船と一隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを 一路南下した。 同年12月末に嵐に遭遇したことで、15日間も方向を見失ったまま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。 アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。ディアスはさらに周回継続を主張したが、乗組員らが暴動を 起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在のダーバンは南緯30度辺りにある) に位置する現在のグレート・ フィッシュ川付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰着をその港で見物していたという。 ディアスは南端を周回していた頃は激しい嵐に見舞われていたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、国王ジョアン2世は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であったため 岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに向け出航した(コロンブスが西回り航海に出帆したのは1492年であり、インドに到達
したとの報をもって帰国したのは翌年1493年3月のことであった。ガマは当然のことながらこのインド到達を知った上での出帆であった。
到達したのはインドではなくカリブ海諸島であった)。
ガマは南西アフリカのセントヘレナ湾に到達後、1498年喜望峰を周回し、インド南西岸のマラバール海岸のカリカットに到達した。 ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易を自らの手に独占する道を切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き進むことになる。 [2014.4.24. 東京ディズニーシーの⌈フォートレス・エクスプロレーション⌋][拡大画像: x25961.jpg] |
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