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中国明代・鄭和(ていわ)の南海大遠征
[マレーシア・マラッカ・鄭和文化館 (Cheng Ho Cultural Museum)]

中国明代・鄭和(ていわ)の南海大遠征 & "鄭和文化館" (Cheng Ho Cultural Museum) について。

鄭和文化館はマレーシアのマラッカ市内にある博物館である。鄭和 (右画像参照) の南海方面への大遠征、マラッカとの 関わりなどを展示する。明の第3代皇帝・永楽帝は、宦官の最高位「太監」であった鄭和 (Cheng HoまたはZheng He; 1371年~1434年?) に命じて、 南海へ遠征させた。鄭和は大型木造艦船60隻余、2万数千人からなる大船隊を率いて、1405年から1433年の間に計7回インド洋へ 遠征航海した。

第1~4回遠征では、南シナ海、マラッカ海峡、インド洋を横切り、インドのカリカットへ、 第4回遠征以降ではさらにペルシャ湾のホルムズへ赴く。分遣隊はアフリカ東岸マリンディ(在ケニア)、あるいはアラビア半島 の紅海に面するジェッダや内陸部のイスラム教聖地・メッカへも到達した (鄭和はイスラム教徒であった)。

船隊主力船は通称「宝船」(ほうせん) (画像参照) と呼ばれ、その最大の船は全長150m・幅62mもあったといわれる。その遠征目的は、 南海の数10か国に大「明」の勢威を示すとともに、明への朝貢を促進し、また交易を盛んにすることであったという。 大航海時代の西欧列強諸国とは異なり、それらの遠征は"中国の植民地建設"のような政治的結果をもたらすものではなく、 平和的なものであったといえる。

他方、西欧人のアジアへの来航よりもかなり以前に、中国の海洋技術(航海・造船術など)なるものを示威した。 因みに、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってカリカットに到着し、西欧人として初めてインド航路開拓を成し遂げたのは1498年のこと。 鄭和の第1回遠征の出立(1405年)から90年以上も後のことである。

2013年3月に正式に政権を継承する習近平総書記は、中国の"海洋権益を断固守り、海洋強国を建設する"と高らかに謳い、また「偉大な 中華民族の復興」をめざすという。インド洋の"真珠の首飾り"と呼ばれる、"南海"方面でおける自国艦船寄港可能な港湾施設の整備、 即ち海洋進出の拠点網の整備を更に展開して行くであろう。 東シナ海から中東につらなる現代のシーレーン海域は、まさに鄭和の遠征した海域とほとんど重なる。 "海洋強国"となって自国空母艦隊群をいずれインド洋をはじめとする大洋に遊弋・展開させんとする。西欧人に先駆けて大船隊の インド洋派遣を成し遂げた「中華帝国」の過去の栄光と勢威顕示の歴史ともまた重なる。 [2012年11月30日・記]

[2011.6.23-25 画像撮影/マレーシア、マラッカの「鄭和文化館 (Cheng Ho Cultural Museum or Muzium Budaya Cheng Ho, Malacca, Malaysia)」にて]


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