フランス人のフェルディナンド・ドゥ・レセップス自らが統轄する運河会社をもってスエズ運河を完成させたのは1869年のことであった。
レセップスはその後、パナマ地峡を横断する太平洋・大西洋両洋間運河を建設すべく、1880年1月に運河開削工事に着手した。
だが、パナマはエジプト・スエズ地方とはまるで異なり、亜熱帯気候に属し、工事は難航した。結局、彼の統括するパナマ運河会社は
1889年に破産し、彼は同年この世を去った。
米国は1848年頃より中米地峡における両洋間横断通行路にかかわる利権を巡って英国とずっと対立していたが、レセップスの運河工事
がとん挫した5年後の1904年から米国がパナマ運河工事を引き継いだ。だが、米国が最終的にパナマ・ルートにて政治決着するまでには、
幾多の紆余曲折が展開された。中米地峡運河として、パナマ・ルートにすべきか、ニカラグア・ルートにすべきか、
米国議会において、また関係当事国・当事者間において、パナマ派とニカラグア派に分かれて対峙した。
過去にはニカラグア・ルートが有望であるという結果が発表されたりもした。例えば、1876年2月、米国政府の大陸間運河調査会はニカラグア・
ルートが最適であるとの答申をしている。
因みに、下記の略史ではその紆余曲折の歴史の一端を物語っている。
上記略史の1902年の項に記述されるように、技師長ブナオ・バリーヤがニカラグアにおける火山噴火の危険性につき米国議会へ
大宣伝を行い、1902年6月、米国議会は火山の危険性を理由に、ニカラグア・ルートからパナマ・ルートへと傾いた。
バリーヤはそもそもいかなる大宣伝を行ったのか、その詳細については、
郵便切手博士・内藤陽介氏のブログ*に興味深く、
また分かりやすく論述されているので、その部分を抜粋・引用させていただく。それによって、同氏の論述内容を正確に紹介したい。
* http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-category-137.html
⌈地図を見ると、ニカラグアの地峡はパナマよりも幅が広く、それゆえ、掘削工事もより大掛かりなものとなることが予想されましたが、
ニカラグアの地峡ではマナグア湖が大きな面積を占めており、明らかに掘削工事の距離は少なくて済むと予想されていました。
このため、米国政府内では、日々、ニカラグアに運河を建設すべしとする意見が勢いを得ていくことになります。
パナマ派とニカラグア派の勢力が拮抗するなかで、レセップスの遺志をついでパナマでの運河建設を実現しようと考えたフィリップ・
ビュノー・ヴァリーヤは、ニカラグアでは火山活動が活発で、しばしば地震が起きていることに着目。ニカラグアに運河を建設すれば、
将来的に地震によって運河の交通に支障が出るであろうということを、ニカラグア派への有力な反論としようと考えます。その背景には、
マルティニク島のプレ火山の噴火で4万人もの死者が生じた事件の記憶から、火山は危険だと考える人々が多かったという事情がありました。
このため、ヴァリーヤは、ニカラグアに活火山があることの動かぬ証拠として、ニカラグアの切手に注目します。切手には、噴煙を上げる
モモトンボ火山の風景が誇らしげに描かれていたからです。かくして、ヴァリーヤは、運河建設地を決める米議会の議員90人に資料として
提出するため、モモトンボ火山の切手を90枚調達すべく奔走します。
ヴァリーヤが切手の調達を始めた時、すでに、議会の開会までは残り48時間となっていました。しかし、ワシントンでは7枚しか切手を
入手できなかったため、彼はニューヨークへと走り、ともかくも90枚を確保します。時間内に枚数を確保することが最優先でしたから、
文字通り、札束でかき集める手法がとられ、最後の5枚に関して、ヴァリーヤが支払った金額は、この切手の相場から考えると、
異常な高値だったそうです。
審議当日、議員たちの机の上には、台紙にマウントされた切手が配られます。そして、その下には「ニカラグアの火山が現在活動中で
あることの公的な記録」との文言が付け加えられていました。
かくして、投票の結果、わずか4票差でパナマ案が採択され、パナマ運河建設が実現に向かって動き出すことになりました。
後に何人かの議員が告白したところによると、最後の最後で、彼らの態度を決めたのは、ニカラグアの切手だったとのことです。⌋
画像は、バリーヤがニカラグアにおける火山の危険性を訴え、パナマ・ルートでの運河建設再開を図ろうと画策したという
「パナマ運河建設の歴史秘話」の一部になった切手である。
[2014.8.5 初記][拡大画像: x26033.jpg]
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1. 首都マナグア (右最下) はマナグア湖(Xolotolán, Lago de Managua)に面する。同湖に米粒大のモモトンビート島 (Isla Momotombito)
が浮かび、そのすぐ左上に富士山のような円錐形のモモトンボ火山がそびえる。ニカラグア太平洋岸に沿って数多くの火山が連なる。
左最上端のサン・クリストバル火山から、テリカ火山、セロ・ネグロ火山、エル・エヨ火山、モモトンボ火山へと続く。
[拡大画像: x26122.jpg]
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2. マナグア湖 (右端) に浮かぶモモトンビート島のすぐ左隣にあるのがモモトンボ火山である。噴煙を上げているのはテリカ火山である。
マサヤ火山国立公園のビジターセンターでの展示。 [拡大画像: x26123.jpg]
3. モモトンボ火山近傍にあるプエルト・モモトンボ (Puerto Momotombo) という 村からの湖岸風景である [2007.12.31.撮影]。
プエルトとは港のこと。椰子の葉で葺いた湖岸のテラスは湖水が強風で吹き寄せられたために浸水している。近傍にはUNESCO世界文化遺産
に登録される「レオン・ビエッホ (León Viejo)」という遺跡がある。1609年のモモトンボ火山の噴火のために、レオンは
火山灰で埋もれ壊滅、町は放棄され(現在のレオン・ビエッホ)、他に移して再建された。
[参考] 1524年、スペインのペドラリアスは、部下のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにニカラグアの支配・防衛を命じた。
同年、コルドバはニカラグアへ出発し、グラナダ (Granada; ニカラグア湖の北西端の湖畔に所在する) に最初の基地を建設した。
さらにマナグア湖を越えてレオンに第二の基地を建設した。だが、1609年のモモトンボ火山の噴火で壊滅した。
辞典内関連サイト
・ ニカラグアの海洋博物館
・ 世界の海洋博物館
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