一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
サンティアゴ・デ・クーバのモーロ要塞⌈サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ⌋ [キューバ]
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キューバ東部にサンティアゴ・デ・クーバ (Santiago de Cuba) という同国第二の港市がある。16世紀初期に創建されたその町は
サンティアゴ・デ・クーバ湾 (Bahía de Santiago de Cuba)の奥に位置する (画像7参照)。画像1~3に見られるように、
湾内へ通じる水道は狭い。そこを通り抜けると湾内は大きく、天然の良港を形成する。湾口には⌈サン・ペドロ・デ・ラ・
ロカ⌋(San Pedro de la Roca)と称される堅牢なモーロ要塞(Castillo de Morro)がそびえ立ち、敵国艦船や海賊を威嚇し、
それらの襲撃から町を防御する役目を果たしていた。
最上段の拡大画像はその要塞から湾奥を望見したものである。要塞内には展示室が設けられている。展示パネルの一つは次のように
記している。
モーロ要塞⌈サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ⌋の建設は軍の技師フアン・バウティスタ・アントネリによって1638年に着手された。
その長い建設過程において、フアン・デ・シスカラ・イバニュエスとフランシスコ・ペレスのような他の技師も加わった。
[参考] ベラスケスの家は現在⌈キューバ歴史博物館⌋Museo de Ambiente Histórico Cubano (Casa de Diego Velázquez) となっている。
近代においては、サンティアゴ・デ・クーバはスペインと米国との米西戦争(1898年)の舞台になった。また、サンティアゴ・デ・クーバは 当時のバウティスタ政権の打倒とキューバ革命への起点となったところとしても知られる。 1953年7月26日フィデル・カストロらが主導する反政府武装集団は、サンティアゴ・デ・クーバにあった政府軍のモンカダ兵営を 襲撃したが、作戦は失敗した。カストロ兄弟らは投獄されたが、恩赦により解放され、その後メキシコに亡命した。カストロらは メキシコにてチェ・ゲバラと出会い、そこで軍事訓練を重ねた。調達した⌈グランマ号⌋ (現在、ハバナの革命博物館に 厳重に保管されている) にてメキシコから渡海しキューバに上陸したが、待ち構える政府軍によって壊滅的打撃を被った。 その後長いゲリラ闘争の末、カストロ兄弟、チェ・ゲバラたちは、1959年1月1日にハバナからバティスタ大統領を駆逐するにいたった。 サンティアゴ・デ・クーバはいわばこのキューバ革命の起点となった町である。
Fundador de las primeras villas de la isla de Cuba y de la ciudad de Santiago de Cuba, nació en España en 1465. Vino con Cristóbal Colón en su segundo viaje a América. Comenzó la conquista y colonización de Cuba. Fue teniente gobernador desde 1515 hasta su muerte en 1524. ベラスケスは1465年スペインで生まれた。彼はキューバ島において最初の村々を創建し、またサンティヤゴ・デ・クーバをも創建した。 彼はクリストバル・コロンと第二回航海時に⌈新大陸へ渡航した経歴をもつ。キューバの⌈征服⌋と 植民地化を始めたのが彼ということである。1515年から1524年に世を去るまでの間、キューバにおける統治者(teniente gobernador) であった。 [拡大画像: x26888.jpg: 西語説明書き]
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1 2 1. モーロ要塞の平面図。図の左側には湾内へ通じる水道が横たわる(画像3はその水道から城塞を見上げたところである)。 要塞はカリブ海沿いの出っ張りの上に築造されている。海は南側 (図でいえば下側) に広がる(画像2の地形図参照)。 [拡大画像: x26884.jpg: 要塞平面図] 2. モーロ要塞周辺の1776年の地形図。楔形の出っ張りの先端にモーロ要塞が築かれた。その西側には湾奥に通じる水道が伸びる。 [拡大画像: x26905.jpg]
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