画像 1 は、帝政ロシア軍艦「ディアナ号」の副艦長ピョートル・リコルド (Deputy Captain Pyotr Ivanovich Rocord of Russian
imperial warship "Diana") の肖像である。画像 2 は、P.リコルド著「対日折衝記」に記載される高田屋嘉兵衛 (たかたやかへえ) の肖像である。
高田屋嘉兵衛は、1769年(明和6年)に淡路島洲本市五色町の貧農の長男として生まれた。幼少の頃から海に親しみ、
やがて兵庫津に出て船乗りとなった。その後、大型の千石船「辰悦丸」を最初の持ち船にした嘉兵衛は、西廻り(日本海)航路で
交易する廻船問屋を営み廻船業で大きな成功をおさめていく。函館を本拠地にしながら、その経済社会的地歩を固めていく嘉兵衛は、
幕府の要請を受け択捉島と国後島間の航路を開拓したり、新たな漁場を拓くなどして、北方域の開拓者としても大きな功績を残した。
閑話休題、1811年(文化8年)、千島列島南部の調査・測量中の帝政ロシア「ディアナ号」艦長ゴロヴニン少佐ら8名は、国後島で
水、食糧などの補給を得ようと交渉中、松前奉行所役人によって捕虜とされた。彼らは箱館そして松前へと連行され、投獄・幽囚 (ゆうしゅう)
の身となった(ゴロヴニン拿捕事件)。
ゴロヴニンは、フォボストフ(注)による対日来襲がロシア政府の命令によるものかどうか尋問を受けたが、彼は一貫して政府の関与を否定した。
(注)フォボストフ事件(1806~7年)(文化3~4年)
ペトロパブロフスクに帰還した第二次遣日使節のレザノフは、鎖国日本の扉を開けるには武力しかないと考え、ロシア中央政府の指令を
仰ぐことなく、部下の海軍士官フォボストフとダヴィドフに命じて、カラフト、択捉島、利尻島の日本人部落を次々と攻撃させるという
事件が起こった。これに対して、江戸幕府は、東北諸藩に出兵を命じ厳戒した。流言蜚語の類が飛び交い、日露間の緊張が高まる情勢が
続いていた。
ディアナ号副艦長リコルドは、ゴロヴニン艦長拿捕事件翌年の1812年、捕らえられた艦長の消息を聞きだそうと、国後島ケラムイ沖で、
偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船「観世丸 (かんぜまる)」(択捉島から函館へ向かう途中であった)を捕らえた。
嘉兵衛は水主 (かこ)(水夫) ら5人と共にカムチャッカ半島ペトロパヴロフスクに同年9月に連行され、抑留生活を
余儀なくされた。
囚われの身の嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、一冬中に二人だけの言葉をつくって意思疎通を図り、信頼関係を強めながら、
ゴロヴニンの釈放へ導くための交渉を始めた。
嘉兵衛は、日露交渉の間に立ち、両間の対立の緩和やゴロウニンの早期釈放のために知恵を出し、両国関係者間を奔走し、当該事件の解決
へと導いた。嘉兵衛の連行(1812年9月)から1年を経た1813年9月に、ゴロヴニン艦長らは函館においてリコルド副艦長側に引き渡され、
拿捕事件の解決を見た。
[辞典内関連サイト]高田屋嘉兵衛の略史
[画像撮影: 2017.10.13 高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館にて/顕彰館所在地: 〒656-1301兵庫県洲本市五色町都志1087/電話: 0799-33-
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