「京杭大運河(けいこうだいうんが)」は、中国華北地方の北京から江南地方の杭州まで、人工水路などによって南北に結ばれる、
総延長1,800kmとも、2,500kmともいわれるまさに大運河である。途中、黄河、淮河 (わいが)、長江 (揚子江) などの大河川を
横断する。運河は戦国春秋時代より部分的に開削されてはいたが、隋朝の文帝と煬帝 (ようだい) がこれを整備した。
その完成は紀元後610年である。
紀元後581年に文帝(楊堅・ようけん)が隋を建国し、大興白(だいこうじょう)(長安) に都を置いた。584年には、文帝は
大運河の建設を開始し、587年に淮河 (淮水) と長江を結ぶ邗溝 (かんこう) を開鑿した。なお、589年には陳を滅ぼし南北を
統一した。
その後、文帝の子である二代目皇帝の煬帝 (ようだい) が604年に即位し、翌605年から再び大運河の工事を始めた。
最初に黄河から淮水まで結ぶ「通済渠(つうせいきょ)」が、続いて黄河から天津まで結ぶ「永済渠(えいせいきょ)」
が造られた。さらに長江から杭州にいたる「江南運河」が造作され、華北から江南へとつながる京杭大運河が、610年に
完成するに至った。
因みに通済渠の開削工事には百万人にも及ぶ人民が使役されたという。他方で特別の重税が課せられた。
大運河の経済・社会的な功は多大であるが、人民からの労働力の甚大な徴発、さらに人民へ重税賦課の強要が、
皇帝の暴政として厳しい非難を浴び、また隋代末の反乱の引き金にもなった。
煬帝は「龍船」に乗り運河を遊覧したり、江南地方へ行幸したことも、民衆からのそしりを免れなかった。
画像はその龍船の模型である。キャプションには「
」(大龍船)と付記される。
[画像撮影: 2017.4.5 中国・杭州の京杭大運河博物館 The Great Jinghang(Keikou) Canal Museumにて]
! & 2. [拡大画像: x28424.jpg][拡大画像: x28425.jpg]