画像1は、スペイン南部のセビーリャの「インディアス古文書館 (Archivo de Indias)」に展示される史料で、中米ニカラグアの
太平洋岸のエル・レアレホ(El Realejo)の入り江周辺の古地図である。キャプションには、「Nicaragua 1779. Puerto y estero
en la villa del Realejo, sobre la coasta del Pacífico, Nicaragua. MP, Guatemala, 239」と記されている。
即ち、「ニカラグア 1779年 ニカラグアの太平洋岸のレアレホの村にある港と河口域」の地図である。1779年の製作と記される。
16世紀初期からのスペイン植民地時代においては、ニカラグア地域を横切る最短の地峡は、パナマ地峡と並んで、大西洋と太平洋との
両洋間を行き来する上での重要なルートであった。それは何故か。大河と大湖の存在が大きい。
ニカラグア地峡を横断するのに、ニカラグア湖 (中南米ではチチカカ湖に次ぐ大きな淡水湖) と、そこから大西洋 (カリブ海) に注ぎ出る大河
サンファン川 (Río San Juan) が利用された。
スペインのコンキスタドーレスたちは、そのニカラグア湖北西の最奥部にグラナダ (Granada) という港町を築いた。グラナダはいわば
大西洋に面する海港と見なされた。船でサン・ファン川を遡り、ニカラグア湖に至り、そのまま縦断してそこに到達できたからである。
日本でいえば、琵琶湖北東端の長浜や今津を、大阪湾・太平洋に面する海港と見なせば見なしうるのと同じである。
船で淀川と宇治川を遡り、琵琶湖を縦断して長浜などに至るのとほとんど類似する。
さて、1524年、スペインのペドラリアスは、部下のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにニカラグアの支配・防衛を命じた。
同年、コルドバはニカラグアへ出発し、グラナダに最初の基地を建設した。
ニカラグア湖の少し北西にはマナグア湖があり、川や沼でつながっている。そこで、さらにマナグア湖を横断して、その北西最奥湖岸に
第二の基地レオンを建設した。そして、1532年に新レオンから西北西の太平洋岸にエル・レアレホという町が築かれた。
[参考] コンキスタドーレスはかくしてマナグア湖畔にレオンという町を築いたが、すぐそばのモモトンボ火山(下図2の最右下隅にマナグア湖と
モモトンボ火山がある。また地図3も参照)が、1609年に爆発し、町は火山灰で埋もれ壊滅状態となり、放棄された。その後レオンは
その西方に移され再建された(現在では、旧レオンで発掘された史跡「レオン・ビエッホ (León Viejo)」は、ユネスコ世界文化遺産として
登録されている)。
エル・レアレホの町の中心部には小さな民家風の市役所が建ち、表看板には「1532年設立」と明記されている。
すぐ近くには町の中心をなす「サンティアゴ教会」が建つ。1532年設立の市役所と同じくらいの時期に建てられたという。
その他、サンティアゴ教会から西へ1区画ほどのところに、「サン・フランシスコ修道院」の史跡が残る。
文献によると、1525年に建設されたという(その後1685年に補修されたそうである)。現在、かつての修道院には崩れかけたような壁が
部分的に残される程度である。
画像1の古地図では、入り江下方(下方が北を指す)に2か所の錨マークがあるが、そのいずれかがエル・レアレホである。
レアレホはスペイン植民地時代、造船所のある町として発展した。現在ではその跡形もないが、造船所のあった古い町としての言い伝えが
残されている。町はそれを誇りにし、幹線道路から町へ通じる脇道の入り口には、ガレオン船の絵図を町の紋章の如く描かれた門柱が
立てられている。
町のはずれから手漕ぎボートで、マングローブに覆われた細い川筋を縫いながら20分ほど下ると河口にいたる。
そこからは入り海が広々と広がる。入り海には数多くの小河川が注ぎ込む。外海からはほとんど遮断されていて、天然の穏やかな停泊地を
供している。だがしかし、大型船舶が奥深く入り込み停泊できるような深水の入り江ではない。
現在では、この入り海の入り口にコリント港という商港がある。ニカラグアの太平洋岸では、コンテナ船などの外航船が接岸し、
ガントリークレーンで積み降ろしできる埠頭を有するのは、このコリントが唯一の港となっている。
辞典内関連サイト
* ニカラグア運河の夢 視察の旅 旅の記録: 第5回 エル・レアレホと
アポセンティーヨ /El Realejo & Aposentillo
[画像撮影: 2018年9月29日 スペイン・セビーリャのインディアス古文書館にて][拡大画像: x28323.jpg]