一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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新酒の一番船の江戸到着と新川河岸の賑わい(模型)
「TOKYOミナトリエ」(東京臨海部広報展示室)

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画像は東京・「TOKYOミナトリエ」(東京臨海部広報展示室)に展示されるジオラマである。その昔、江戸随一の「酒蔵のまち」として繁栄した 新川(現在の中央区新川)の河岸を再現したものである。

パネルガイドなどによれば、江戸時代、日本全国から大型の廻船で運ばれてきた物資は、隅田川河口沖で艀に積み替えられ、河岸を通じて 江戸城下の隅々まで運ばれた。河岸とは船を付けて荷揚げをするための場所のことである。河岸は、隅田川沿いを中心にして、 江戸の町中に造られ、商人たちの商業活動の拠点となっていた。その近辺には各種問屋や倉庫などが立ち並び、大勢の商人たちで賑わいをみせていた。 特に日本橋の周辺では、魚河岸や米河岸などのさまざまな河岸が発達し、江戸商業活動の中心地を形成していた。

江戸時代の寛文年間(1661~1673年)には、江戸と日本全国をつなぐ「東廻り航路」と「西廻り航路」とが開設され、江戸を中心にした東西 海運網(全国的な海運・海上輸送ネットワーク)が整備され確立された。 当時には菱垣廻船や樽廻船が往来した。樽廻船は船足に優れ酒の輸送などに活躍した。これらの大型の廻船は、水深が浅くて品川沖くらいまで しかアクセスできず、隅田川河口沖合で艀(小舟)に積み荷を積み替えたうえで、掘割(堀割・運河)を伝って河岸まで運んでいた。

新川は「明暦の大火」の3年後の1660年(万治3年)に開削された、長さ600m、幅15mほどの堀割(ほりわり)であった。その 両岸には酒問屋がたくさん建ち並んでいた。江戸時代には、その年の新酒を産地である西宮・大坂から消費地である江戸まで輸送する 「新酒番船」の競争が行われ、新川がその到着地・ゴールとなった。 一番船には商品だけでなく、その1年間における様々な特権も付与された。

画像1の下方に見えるのが新川の堀割である。橋の向こう側に見える水面が隅田川である。ジオラマでは、新酒の樽が 大型樽廻船の一番船から艀の小舟に積み替えられて、隅田川を運ばれた後、新川の河岸に到着した。ジオラマは、新川の河岸が喜びと活気に 溢れている様子を立体描写している。


辞典内関連サイト
  今津灯台と樽廻船 [西宮市]

2
1. [拡大画像: x28576.jpg]
2. 「文政10年江戸図(1828)」(TOKYOミナトリエの展示)より一部切り撮り。中央上部の川筋は隅田川で、その河口に佃島が描かれる。 隅田川に架かる橋が永代橋である。橋の左詰めから左方に伸びる細い堀割が、ジオラマに見る新川の堀割のはずである。  [拡大画像: x28577.jpg]

[撮影:2020.1.17/「TOKYOミナトリエ」(東京臨海部広報展示室)Tokyo Minatorie(Exhibition Room of the Tokyo Waterfront Area)/ ゆりかごめ「テレコムセンター駅」から徒歩数分の「青海フロンティアビル」最上階]


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