画像は、江戸時代後期、神戸に船たで場を造った網屋吉兵衛の顕彰碑
である(関係者有志によって建立されたもの)。実は「海軍操練所跡」という史跡が、神戸・三宮駅近くを南北に伸びる京町筋(オリエンタルホテルのある通り)と東西に走る
海岸通との交差点の一角にあるドコモ神戸ビルの南西隅に所在する。網屋吉兵衛のこの碑は、京町筋の大通りを挟んで海軍操練所跡の対面に位置
している。
網屋吉兵衛の碑文には次のように刻まれている(原文のまま)。
「天明5年(1785年)摂津八部郡二ツ茶屋村(現 生田区元町4丁目付近)に生まれる。72才にして安永新田
(現 新港第一突堤付近)に船樛場()(ただし、「たで」の漢字は木偏では
なく火偏である)(船底の貝殻や船虫などを焼く場所)の建造に着手、苦節3年大願成就す。
文久3年(1863年)時の将軍家茂公が小野浜に上陸の際「この地は港に最適でございます」と進言す。
後年この船樛(ただし、木偏ではなく火偏)場は勝海舟の幕府海軍操練所となって神戸港の夜明けを
迎え今日の繁栄の基礎となる。明治2年9月5日天寿85才」
また、顕彰碑脇に設置された「網屋吉兵衛顕彰碑」と題する神戸市の公設案内板には次のように記される(原文のまま)。
「当時、兵庫の津周辺には船底についた貝殻や船虫などを焼いて整備する「船たで場」が無く、船底をたでる場合には遠く讃岐國多度津
(現在の香川県仲多度郡多度津町)まで船を廻航する必要がありました。そのことを聞いた二つ茶屋村(現在の神戸市中央区元町通4丁目
付近)の呉服商 網屋吉兵衛は、船たで場の設置願いを代官に提出して、許可を得ました。船たで場は、築造をはじめてから3年余りの年月で
完成しました。
網屋吉兵衛の船たで場は、現在の新港第1突堤の基部にある京橋付近(神戸市中央区新港町)にありました。」
(注)案内板文中の「当時」とは19世紀中期(江戸時代末期)のこと。[英語]船たで場:ship repair yard。新港第1突堤の基部にある京橋付近
Shinko Pier No.1 in the Kyobashi vicinity。
* 辞典内関連サイト:海軍操練所跡 [神戸]
[撮影年月日:2020.10.08/撮影場所:神戸市内中央区]
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2. [拡大画像: x28845.jpg: 神戸市の「網屋吉兵衛顕彰碑」の説明書き]