一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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人類史上初めて世界周航を成し遂げたマゼラン船隊の「ビクトリア号」(復元船)

1519年8月10日、マゼランは5隻の船隊を率いてスペインのセビリャを出港した。ヨーロッパから大西洋を横断する西廻り航路で東洋の 香料諸島(モルッカ諸島)を目指した。現在の南米大陸南端において、後に言う「マゼラン海峡」を発見し、1か月かけて通過した。大洋に出でて、 それを横断し、マリアナ諸島に、さらにフィリピン諸島に至った。1521年4月27日、セブ島の対岸にあるマクタン島での原住民との戦いで戦死した。 その後、船隊の指揮を引き継いだエルカーノら総勢18名のみが、ビクトリア号ただ一隻にて、生きてスペインに帰還した。 人類史上初の世界一周の航海がここに成し遂げられた。 [2012.3-4 スペイン、バルセローナにて][拡大画像: x24370.jpg]

[注] マゼランはポルトガル語名(本名)でフェルナン・デ・マガリャンイス Ferna〜o de Magalha〜es、スペイン語名で フェルナンド・デ・マガリャネス Fernando de Magallanes という (名をエルナンド Hernandoともいう)。英語表記では Ferdinando Magellanで、 その発音はマジェランであるが、ここでは慣用表記のマゼランとする。


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1. 船首楼の前檣(横帆)と檣楼。その前方は斜檣(バウスプリット)。 [拡大画像: x24955.jpg]
2. 主檣(横帆)と支索・ラットライン [拡大画像: x24957.jpg]
3. 船尾楼から船首方向を見る。左端に見える円材は後檣(縦帆)のヤード。 [拡大画像: x24958.jpg]
4. 主檣(手前)と前檣の檣楼 [拡大画像: x24959.jpg]



マゼランの略史および関連事項




・ 1480年頃、マゼラン生まれる。

・ 1492年、クリストファー・コロンブス、インディアスをめざして大西洋西廻りの第1次航海に出る。

・ 1494年、スペインおよびポルトガルは、ヴェルデ(Verde)岬諸島の西370レグア(leguas)地点を通過する西経46度37分にあたる子午線を 両国領土の分界線として引き、その東側をポルトガル、西側をスペインの独占海域として分け合うという 「トルデシリャス条約(contrato de Tordesillas)」を結ぶ。この子午線の正反対側にあるアジアでのそれがいずこに位置するかは定かではなかった。

・ 1499年、バスコ・ダ・ガマ、アフリカ南端の喜望峰廻りのインド航路を開く。

・ 1505年、ポルトガル国王マヌエル1世は、フランシスコ・デ・アルメイダ(1450年頃〜1510年)を初代インド副王に任命する。アルメイダは、 同年3月息子ロレンソと共に20隻の艦隊にてポルトガルを出港しインドに向かう。
マゼランはアルメイダが率いるこの艦隊に乗り込み、インドへ遠征する (マゼランの初めての航海)。

・ 1506年、ポルトガル、ソコトラ島を攻略する。
・ 1507年、ポルトガル、ホルムズを攻略する。

・ 1509年2月、ポルトガルのインド副王アルメイダは、19隻の艦隊をもって、200隻のマムルーク・ディウ・カリカット連合艦隊をディウ沖で撃滅する。 この海戦でポルトガルはインド洋での覇権を握る。マゼランはこの海戦で重傷を負う。

・ 1509年9月、マゼランは、ペレイラが率いるマラッカの攻略に参加する (ポルトガルの最初のマラッカ遠征)。ペレイラの艦隊は大敗に帰す。

・ 1511年4月、ポルトガルは、再度大艦隊を派遣し、マラッカを攻略し制圧する。マゼラン、およびフランシスコ・セラーン(マゼランの従兄弟)、 このマラッカ攻略戦に参加する。

・ 1511年12月、第2代インド副王アフォンソ・デ・アルブケルケ(1456〜1515)の命により、アントニオ・デ・アブレウは、3隻の艦隊を率いてモルッカ諸島 へ向かう。嵐に遭遇した艦隊は離れ離れとなり、セラーン指揮の船はモルッカ諸島のテルナーテ島にたどり着く。

・ 1513年1月にマゼランはマラッカを離れる。その後ポルトガルに帰国する。

・ 1513年6月、ポルトガルのマラッカ総督ルイ・デ・ブリトが派遣した船隊がテルナーテ島に着く。セラーンらのポルトガル人を救出するが、 セラーンは同島に残留を決意し、僚友のマゼランに書状をしたためモルッカ諸島について伝える。 (マゼランはすでにマラッカを後にしていたが、 セラーンの書状は運よくマゼランの手に届けられる)

・ 1513年8月、マゼラン、ポルトガルのブラガンサ公ハイメが指揮する、モロッコのアザムールへの攻略に参加する。

・ 1515年10月8日、スペイン国王フェルナンドの命を受けたファン・ディアス・デ・ソリス、スペインを出帆する。 大西洋から「南の海」(後の太平洋)へ通じる「海峡」を求めて南米南部の探検に乗り出したソリスは、翌年の1516年2月にはウルグアイの 海岸に到着し、ラ・プラタ河口に入り探索する。しかし、ソリスは原住民に襲われ死亡する。

    * コロンブスは、1492年第1次航海から最後まで、現在の西インド諸島やアメリカ大陸をアジアの一部と思い込んでいた。当時はアメリカ大陸は 東アジア東端にある大半島と思われていた。その大半島からインド、香料諸島へつながる「海峡」はなだ発見されないままであった。

・ 1515年末または翌年初め、マゼラン、ポルトガル国王マヌエルに謁見し、モルッカ諸島へ派遣されるよう嘆願する。この嘆願は退けられる。その後、 ポルトガル王室に見切りをつけて、ポルトガル北部の港町オポルトに移る。

・ 1517年10月20日、マゼラン、オポルトから海路にてスペインのセビリャに到着する。その後、モルッカ諸島への航海計画を練り、スペイン国王 カルロス1世に謁見し、西廻り航海計画を説明することになる。
マゼランは、若い頃ポルトガル国王のためにインド、マラッカ方面で活動したが、処遇面での不満からポルトガルを離れスペインへ移り、 カルロス1世に仕えことになる。

・ 1518年3月22日、マゼラン、西廻り航海をもって香料諸島(スパイス諸島)へ探検することを引き受ける協約(「香料諸島の発見に関する協約」)を、 スペイン国王カルロス1世、ルイ・デ・ファレイロ(ポルトガルの天文・地理学者)と結ぶ。

・ 1519年8月10日(月曜日)、マゼランの船隊がセビリャを出発する。グアダルキビール川を120kmほど下り、大西洋への出口にあるサンルーカル・デ・ バラメーダ港へ向かう (そこで最後の補給を実施する)。

・ 1519年9月20日、5隻からなるマゼラン船隊が大西洋へ船出する。

    * 船隊は、マゼランが乗艦する旗艦トリニダード号110トン、サン・アントニオ号120トン、コンセプシオン号90トン、ビクトリア号85トン、 サンテャゴ号74トンの5隻である。人員についてはいろいろな人数が取沙汰されるが、270〜280名の間である。

・ カナリア諸島を経由(水・食糧を補給する)、カーボ・ヴェルデ諸島を通過し、大西洋を横断する。
1519年12月13日、現在のブラジルのリオ・デ・ジャネイロのあるサンタ・ルシア湾に到着する。当地で13日間滞在後、同年12月27日出帆し、 ブラジル沿岸沖を南下し続け、サンタ・マリア岬に達する。
現在のウルグアイの首都モンテビデオ沖を航行したマゼランは、当地をモンテ・ビディ(「山を見た」という意)と命名する。
マゼランは現在のラ・プラタ河をたどれば香料諸島にいたると期待したが、探索の結果川であることが判明し、「ソリス川」と命名した。

・ その後パタゴニア沿岸を南下し、サン・マティアス湾を調査した後、1520年3月31日〜8月23日まで南半球の冬期をパタゴニアのサン・フリアン港で 越冬する。

・ 航海出発早々にスペイン人指揮官らが反乱を起こし、3隻が反乱側につくが、最後にはマゼランが反乱を制圧する。

・ 1520年8月日24、航海を再開し、香料諸島への海峡を求めてさらに南下するが、サンティアゴ号がサンタ・クルス川の河口付近で難破する。

・ 1520年10月21日、南緯52度地点の「一万一千の聖母の岬」で「海峡」入り口を発見する。
途中分岐する水路を2隻ずつで進航するが、サン・アントニオ号が離反し、帰国の途についた (1521年5月6日、セビリャに帰着する)。

・ 1520年11月22日にパタゴニアとフエゴ島の間 (後の「マゼラン海峡」) を通過し、11月28日に海峡の出口にある岬を最後に海峡を抜けて外洋へ出た。 通過には一ヶ月余りを要した。その岬は「待望の岬 Cabo Deseado」と命名された (カーボ・デセアード Cabo Deseado; 発見した海峡を通過した後に 「待望の」大海へと抜け出たところの「岬」という意味であろう)。

・ 1521年3月6日、99日間の大洋航海の末に、現在でいうマリアナ諸島にたどり着く。その後、3月16日にフィリピン諸島を発見し、 3月18日スルアン島の島民に出会い、レイテ島を経て、4月7日にセブ島にいたる。セブ島には3週間滞在する。

    * 大洋を「太平洋」と名付けたのはマゼラン船隊のいずれかだが、マゼランが命名したことを明示する記録はないとされる。航海のことを記録し 続けたピガフェッタは、その記録の中で「太平洋」(Mare Pacifico)と称している。

・ 1521年4月27日、マゼラン、セブ島の対岸の小島マクタン島へ60名の兵士を引き連れ赴いたところ、ラプ=ラプ王の大軍勢の襲撃を受け戦死する。
マゼランの死後、スペイン人のファン・セバスティアン・デ・エルカーノが航海を引き継ぐ。途中、コンセプシオン号を破棄する。

・ 1521年11月8日、ビクトリア号とトリニダード号の2隻となっていた船隊は、モルッカ諸島のティドール島に到着する。

・ 1521年12月18日、ティドール島の出帆直後、香辛料の丁子(クローブ)を積みすぎたトリニダード号が浸水する。トリニダード号を修理のために島に 残したまま(残留者51名)、12月21日ビクトリア号だけが47名にて喜望峰をめざして航海に出る。

・ 1522年9月6日、ビクトリア号がスペインのセビリャに帰還する。乗組員は指揮官のセバスティアン・デ・エルカノ(デルカノ)以下18名のみであった。




出典/参考文献
・ 「図説・大航海時代」、増田義郎、河出書房新社、2008年9月、86‐99ページ
・ 「世界史リブレット25 海の道と東西の出会い」、青木康征、山川出版社、1998年2月、59‐80ページ
・ フリー百科事典ウィキペディア「フェルディナンド・マゼラン」



関連サイト
・ 世界の海洋博物館
・ スペインの海洋博物館


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