一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
マラッカ海峡を見下ろす聖フランシスコ・ザビエル
マレーシアのマラッカは、マラッカ川の河口域に築かれた港市である。河口のすぐ南側に"マラッカの丘 (Melaka Hill)" と呼ばれる
小高い丘がある。1511年にポルトガルがマラッカを武力制圧した後、それを取り囲むように「ア・ファモサ」(A' Famosa) と呼ばれる
堅牢な砦(城塞)を築造した。そして、その小高い丘上に、ポルトガルの支配 (1511年~1641年) 下にあった1521年に、ポルトガル人によって
セント・ポール教会 (St. Paul's Church/カトリック) が建てられた。今ではその礼拝堂の壁跡だけが残される(ザビエル像の後方に
見えるレンガ造りの建物がその教会の礼拝堂跡である)。
跡地の脇には、日本にもキリスト教を布教に来たイエズス会の宣教師・聖フランシス・ザビエル (St.Francis Xavier。
中国語の表記では「方済各・沙勿略」) の像が建ち、マラッカ海峡を見下ろす。
セント・ポール教会はザビエルの遺体が安置された所でもある。カトリックに反発するオランダ、イギリスの軍・民の度重なる攻撃で
破壊され、教会は廃墟と化した。
* 1506年4月7日、スペイン北部ナバーラ王国に生まれる。パリでイエズス会の創設に参加する。インド布教に派遣され、 セイロン(スリランカ)、マラッカ、マルク諸島(インドネシア)などで布教活動を行う。
* 1541年4月、ザビエルは東洋 (the East) における布教活動の拠点づくりのため、ポルトガル・リスボンを出立する。 * 1549年8月、鹿児島に渡来し、2年後の1551年11月に豊後 (大分県) から日本を離れる。そして、ゴアに戻った彼は、1552年4月 ゴアを出立し中国本土をめざす。同年8月末か9月に上川島 (マカオの西方100kmの南シナ海) に到着した。 * 1552年12月3日、中国・上川島で死去する。すなわち、中国本土での布教をめざしたが、病で倒れ上陸を果たせないまま上川島で世を去る。 上川島北部の象鼻山にザビエルの遺体が一時埋葬された。 1639年、その地にザビエルの墓園が建設される。なお、マカオ・聖ヨセフ修道院にはザビエルの腕の骨が安置されている。
* 1557年、ポルトガルはマカオに永久居住権を獲得した。マカオは中国が近代西洋文化を取り入れた最古のゲートウェイとなった。 [2011.6.23-25. マレーシア・マラッカにて][拡大画像: x24916.jpg] |
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1&2. 眼下にマラッカ旧市街地 (特に右画像の右半分) が全面に広がる。その向こうにはマラッカ海峡が横たわる。
右画像中央に2つの塔が見えるが、それを取り巻くこんもりとした森が「セントポールの丘 (St. Pauls Hill)」で、左の鉄塔のすぐ
左後方下にセント・ポール教会 (St. Paul's Church/カトリック) が建つ。 [拡大画像: x24917.jpg][拡大画像: x24918.jpg]
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3. 聖フランシスコ・ザビエル教会(Gereja Katolik St. Francis Xavier, Church of St. Francis Xavier)。
この教会はザビエルのカトリック宣教活動の努力と功績を称えて、1845年に築造されたもの。 [拡大画像: x24919.jpg] [参考]マラッカ関連略史
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[追記]ザビエルとフロイス関連の略史
・ 1543年(天文12年)、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。日本人が初めて西欧人と出会うきっかけとなったといわれる。
・ 1563年(永禄6年)6月16日、イエズス会宣教師ルイス・フロイス(当時31歳)が来日。佐世保湾の横瀬浦に上陸する。後に京都へ向かう。
なお、初の日本人キリスタン大名である大村純忠が横瀬浦の土地を提供し、南蛮船が出入りし活気づいた。教会も建てられた。
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