海洋総合辞典 Comprehensive Ocean Dictionary, 特選フォト・ギャラリーPhoto Gallery, セント・ポール教会St. Paul's Church, サンチャゴ門Porta de Santiago, マラッカMalacca, マレーシアMalaysia

一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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マラッカ/セント・ポール教会の墓石に刻まれた帆船

マレーシアのマラッカ市内を流れるマラッカ川の河口域。そのすぐ南側に"マラッカの丘 (Melaka Hill)" と呼ばれる小高い丘がある。 1511年にポルトガルがマラッカを武力制圧した後、それを取り囲むように「ア・ファモサ」(A' Famosa) と呼ぶ 堅牢な砦(城塞)を築造した。そして、ポルトガルの支配 (1511年~1641年) 下にあった1521年に、ポルトガル人によってその丘上に セント・ポール教会 (St. Paul's Church/カトリック) が建てられた。

セント・ポール教会は、日本にもキリスト教の布教のために渡来したイエズス会の宣教師・聖フランシス・ザビエル (St. Francis Xavier。 中国語の表記では「方済各・沙勿略」) の遺体が安置された所でもある。カトリックに反発するオランダ、イギリスの軍・民の度重なる攻撃で 破壊され、教会は廃墟と化した。今ではその礼拝堂の壁跡だけが残される。跡地の脇には聖ザビエルの像が建てられ、マラッカ海峡を見下 ろしている。

壁跡だけが残る礼拝堂の中には、いくつかの墓石が壁に立てかけられている。墓石には1600年代中頃のものもある。 そのうちの一つが下の画像4である。そこには帆船のレリーフが施されている。その帆船をズームアップしたものが上の拡大画像である。 残念ながら誰の墓石か不詳だが "1660年" の年号が刻まれている。画像5の墓石には、どういう訳か海賊のシンボルマーク "ジョリー・ロジャー" が描かれている。

観光案内パネルによれば、

    ⌈教会はもともとポルトガル人船長 Duarto Coelho によって1521年に建てられた小さな礼拝堂であった。 礼拝堂は1548年にイエズス会へ移譲され、1556年には増築された。オランダ人がポルトガルからマラッカを奪い取ると、オランダ人は その名前を St.Paul's Church と改名し、1753年にキリスト教会 (Christ Church) を建てるまでの112年間それを使用した。 その後支配した英国人は、礼拝には用いず、弾薬庫として使用したという歴史がある。 教会の跡地内から古い墓石が発見されたが、それらは幾人かのポルトガル人・オランダ人が永遠の眠りにつく地であることの証である。 スペイン生まれのイエズス会の宣教師ザビエルは、1545年から1552年にかけて、定期的にこの教会を訪れた。彼の死後、自身の遺体は9ヶ月間 ここに埋葬された。その後、遺体が掘り起こされインドのゴアへと送られた。⌋

* イエズス会の聖フランシス・ザビエル関連略史
[2011.6.23-25. マレーシア・マラッカにて][拡大画像: x23621.jpg]

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1. 眼下にマラッカ旧市街地が全面に広がる。その向こうにはマラッカ海峡が横たわる。画像左側に2つの塔が見えるが、それを取り巻く こんもりとした森がマラッカ川河口域南側に広がる小高い丘 "マラッカの丘" である。左側の鉄塔のすぐ左後方下にセント・ポール教会 が建っている。 [拡大画像: x24923.jpg][拡大画像: x24925.jpg: 英文説明書き]
2. "マラッカの丘" 上に立つ礼拝堂跡とザビエル像。 [拡大画像: x24924.jpg]

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3. 礼拝堂跡の内部。両側の壁などには墓石が立てかけられている。 [拡大画像: x24926.jpg]
4. 墓石の一つ。中央に帆船のレリーフが施されている。 [拡大画像: x24927.jpg]
5. 墓石の一つになぜか海賊のシンボルマークらしきレリーフが施されている。 [拡大画像: x24930.jpg]

サンチャアゴ要塞+帆船

マラッカの城塞のうち唯一残る "サンチャゴの門" に刻まれた船。門には、"The only remaining part of the ancient fortress of Malacca build by Alfonso d'Alboquerque and by him named. Famosa. 1511. Near this stood the bastion of Santiago." と案内されている (一部誤記が見られるようだ)。  [拡大画像: x23622.jpg]

観光案内パネルによれば、

    ⌈ポルトガル語の "Porta" はゲートウェイ (入り口) の意味で、"サンチャゴ門" (Porta de Santiago) は、文字通り"ア・ファモサ A' Famosa" と称されるポルトガルの城塞への4つの主要な入り口の一つであった。ポルトガル軍の指揮官 Alfonso de Albuquerque は、 1512年に A' Famosa の建設を始めた。 それは、1世紀以上におよぶマラッカとアチェのスルタン軍による攻撃から防護するためであった。 ポルトガル人は "マラッカの丘 (Melaka Hill)" を取り囲む、このほぼ四角い城塞を建設するのに奴隷の労役を用いた。打ち壊した宮殿や、 王族の霊廟、モスクなどのパーツをもって厚さ3メートルの城壁を築いた。城塞の北西にはかつて40mの高さの見張り塔が建てられた。 1641年にオランダ人がポルトガル人の支配したマラッカを奪い取ると、オランダ人は城塞を再建・拡張し、「VOC」(Dutch East Indian Company)のマークを施した。年号1670年とともに、オランダ人兵士の武器の覆いに VOC の紋章を付けた。 この城塞はイギリス人によってほとんど取り壊され抹消された。というのは、イギリスからオランダに返還された後のマラッカが オランダ人によってイギリスへの反攻に用いられるとの恐れから、1795年に城塞を破壊することが決定された。 1807年英国は弾薬を用いて城塞を吹き飛ばしたが、ラッフル卿ら (Sir Stamford Raffles & Lord Minto) は、自国民が城塞を完全に破壊 し尽くすのに介入し、中止させようとした。しかし、時すでに遅くサンチャゴ門だけが破壊から免れた⌋
* VOCの紋章: サンチャゴ門に彫られたレリーフの兵士(右側) が左腕にもつ覆いに刻まれている。
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6. 奇跡的に破壊を免れたサンチャゴ門。右後ろの丘上にわずかに礼拝堂が見える。 [拡大画像: x24928.jpg][拡大画像: x24929.jpg]


辞典内関連サイト
・ 世界の海洋博物館
・ マレーシアの海洋博物館


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