三池港が石炭積出港として1908年に築港竣工・開港と相成ったのは1908年(明治41年)のことである。
築造される前は、大牟田市・荒尾市周辺の三池炭鉱がら採掘された石炭は、大牟田川河口から熊本県三角西港(宇城市)や島原半島の
口之津(くちのつ)港まで小型運搬船や艀で海上輸送されていた。口之津などでは人力(最盛期には積み替え人夫は1,500人を超えた)で石炭を担いで大型汽船へと積み替えられ、
海外に搬出された。三池港の築港後は石炭は三池港で直接積み出されるようになった。
[参考]三池港が築造された期間: 1902年(明治35)~1908年(明治41年)。
三池港の最大の特徴は、観音開きの閘門を有する感潮港湾施設になっていることである。同港が面する有明海は浅海であり、潮の干満差は日本では最大規模の
5.5m以上もある。そのため、干潮時でも港内の水位を一定に保ち、大型船舶が岸壁に着岸・停泊し、石炭を積み込めるように閘門が
造られた。閘門式の港湾施設としては日本唯一である。因みに、築港当初においては、「なぎなたの洲」の地先を潮留め堤防で閉め切り
、内側の海面を乾燥させ、その中を11m掘り下げたうえで、閘門式船渠が設けられたという。
閘門は幅約12.2m、高さ約8.8m、重さ約91トンの英国製の鉄鋼製扉2枚からなる。観音開きの扉が水圧をも利用して開閉されることにより
港内の水位が調節される。2023年現在も潮位に応じて開閉されている。
閘門の扉は構造的に陸地側(船渠側)に観音開きとなるように造作されている。
閘門扉は水圧ポンプを動力源とした水圧シリンダーの
動作により開閉するが、潮の満ち干と密接に連動している。潮が満ちてくると扉は水圧の力を借りて船渠内側に押されて開き、
船渠が海水で満たされていく。そして、完全に満潮状態になると、船渠と内港(外海)との
水位が平衡となる。潮が引き潮に転じると扉は水圧の力を借りて内港方向へ押されて閉じられる。
開閉の仕組みをもう少し説明するならば次のようになる。扉を開けるのは潮が満ちてきて水位が上がって行く時である。即ち、満ち潮
(上げ潮)により内港(外海)側の海水が船渠内へ流れ込もうとする時である。閉まっている扉が上げ潮の水圧の助けで動き始めると、
その流れ込んでくる海水に押されて扉は開いていく。
逆に、扉を閉めるのは潮が引いてきて水位が下って行く時である。即ち、引き潮
(下げ潮)により船渠内の海水が内港(外海)へ流れ出ようとする時である。開いている扉が下げ潮の水圧の助けで動き始めると、その
流れ出る海水に押されて扉は閉まって行く。かくして、水圧ポンプと潮流の水圧の力を利用しながら閘門扉が開閉される。
特に船舶が石炭を満載にしている場合には、船渠内での水深を最大限に保持し、かつ閘門・航路通過時の船の安全を確保するために、
満潮時またはその直前直後に出入りすることになろう。
満潮になって船渠と内港(外海)との水位が平衡となる頃に扉が完全に閉じられれば、船渠(ドック・泊地)内は常時8.5mの水深を維持する
ことができ、10万トンクラスまでの船舶荷役が可能となるという。
船渠内には1万トン級の船舶3隻が同時に係留可能で、かつては岸壁にはスキップ式(移動式)石炭船積機(通称ダンクロ・ローダー)3基が
設置されていた。それによって昼夜24時間に5,000トン(毎時250トン)の石炭積み込みが可能であったという。
[撮影年月日:2023.06.17./場所: 福岡県大牟田市三池港の船渠・内港周辺および「三池港展望所」にて]