ニ カ ラ グ ア 運 河 の 旅
サン・ファン川を下る(サン・カルロス~エル・カスティージ) [2009.02.20-22]


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    ニカラグア両洋間大運河計画、6つの運河候補ルート図(2006年)

    図1. 候補ルート図 (下記のGCINより)

    ニカラグア政府の「大運河検討作業委員会」が2006年8月に公表した「ニカラグア両洋間大運河計画書」では、 ニカラグア運河候補ルートとして6つ挙げられている。
      * "Gran Canal Interoceánico por Nicaragua (GCIN): Perfil del Proyecto", Comisión de Trabajo Gran Canal, Gobierno de Nicaragua

    No.6のルートが、サン・ファン川~ニカラグア湖~リーバス地峡ルートである。 6つのいずれのルートも、リーバス地峡(ここではラ・ビルヘン/ラス・ラッハス川~ブリット川の区間)を共通の区間にしている。


    ニカラグア国概略図&マナグア・グラナダ周辺図
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    1. 左上隅にマナグア湖が、中央にニカラグア湖がある。ニカラグア湖の南東端からサン・ファン川がカリブ海へと注ぐ。
    湖中のひょうたん形の島はオメテペ島(Isla de Ometepe)で、淡水湖に浮かぶ島としては世界最大といわれる。  [拡大画像: x23951.jpg]
    2. 左上隅にマナグア湖、右下隅にニカラグア湖がある。首都マナグアは中央左端に、古都グラナダは右下方(錨マーク)にある。
    グラナダからニカラグア湖沿いに北上すると「エル・パソ・デ・パナローヤ」(El Paso de Panaloya)という村があり、そのすぐそばをティピタパ 川(Tipitapa)が流れる。マナグア湖とニカラグア湖はこのティピタパ川をもってつながる。
    かつて、1849年に、ニカラグア議会によって、サン・ファン川~ニカラグア湖~(間違いなくティピタパ川経由と思われる) ~マナグア湖~レオン(León)~エル・レアレッホ(El Realejo 太平洋岸)の運河ルートが認可されたことがある。 

      マナグア、グラナダ、レオンなどが立地する太平洋側沿岸地域には、カリブ海側沿岸地域に見られる熱帯性多雨密林地帯はなく、 また高い山脈もない(カラソ台地があるほかは、平野部があるのみ)。さほどの自然上の障害はないので、グラナダから 太平洋沿岸に出るにはほとんど困難はなかったことであろう。だが、太平洋岸での自然の良好な入り江は、グラナダから 160km以上離れたコリント(Corinto)くらいであった。 コリントは天然の入り江の湾口にあり、その内奥にエル・レアレッホがある。エル・レアレッホとコリントとの距離は6kmほどである。  [拡大画像: x23950.jpg]


    グラナダ上空画像
    1 2 撮影:2009.02.20

    1. 首都マナグアから、ニカラグア湖南東端に位置するサン・カルロス(San Carlos)へ向かう途上、古都グラナダ上空を飛行する。
    サン・カルロスは、ニカラグア湖から流れ出るサン・ファン川の流出始点に形成された町である。
    左画像に写る小半島は「ラス・イスレータス(Las Isletas)」と呼ばれ、その名の通り無数の小島によって縁取られている。 「イスレータ」はスペイン語で小島の意味である。  [拡大画像: x23959.jpg]
    2. グラナダ市街は右画像の中央部辺りで、ニカラグア湖畔に位置する。 [拡大画像: x23960.jpg]

      [参考] ニカラグア湖畔にあるコロニアル様式の古都グラナダ(Granada)。グラナダが建設されたのは1524年で、 コロンブスが1492年に第1次航海にて西インド諸島に到達してから30年ほど後のことである。建設したのは、 「新大陸」に植民しその支配途上にあったスペイン人で、当時パナマ市において警備隊長を務めていたフランシスコ・ フェルナンデス (あるいはエルナンデスともいわれる)・デ・コルドバ (Francisco Ferna'ndez de Co'rdoba)である  (彼はもう一つの古都レオンをも建設した。その彼はレオンにて1527年に処刑された)。

      サン・ファン川をもって大西洋・カリブ海につながる。スペイン植民地時代の後半以降、多くのヨーロッパ人がカリブ海側から サン・ファン川を遡り、 ニカラグア湖を経てこのグラナダまでやって来た。ヨーロッパから船で人・物をグラナダ港まで輸送できた。 このことから、当時グラナダは内陸の奥深くに位置しながら「大西洋岸に立地する港」と考えられたのである。


    サン・カルロス&サン・ファン川上流域図

    サン・カルロスは画像中央の錨マーク地点。川を下るとボカ・デ・サバロス(Boca de Sábalos、白い○マーク)へ、 さらにその右下方のエル・カスティージョ (またはエル・カスティーリョという)(El Castillo、米粒大の●マーク) へとつながる。

      エル・カスティージョには、スペイン人が1675年に築いた、敵国軍や海賊などから防御するための堅牢な要塞がある。 ピンク色の地域は隣国コスタリカである。エル・カスティージョを少し下った辺りからニカラグア・コスタリカ間の国境は サン・ファン川の南岸沿いとなる (河川中央ではない。ただし、河口付近は複雑な三角デルタ地帯となっており、 両国国境は南岸沿いでも河川中央でもない)。 [拡大画像: x23964.jpg]


    サン・カルロス上空
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    1-4. ニカラグア湖の南東端に位置するサン・カルロス。首都マナグアから早朝発の民間定期便でサン・ カルロス(San Carlos)へ。単発のプロペラ機で、 搭乗できる乗客数はせいぜい15、6人である。飛び立つとすぐ眼下にマナグア湖が見える。そして、 まもなくニカラグア湖畔の古都グラナダ(Granada)上空にさしかかる。
    その後はずっと小一時間ニカラグア湖の上空を飛行する。右側には、オモテペ島(Isla de Omotepe)が見える。 その島にそびえる円錐形をした2つの火山を半時間ほど見ながらの飛行となる。サン・カルロスの滑走路は細かい 砂利を敷き詰め固めたものである。

    ニカラグアの気候は大きくは乾期と雨期の2期に分かれる。乾期は11月~翌年4月頃、雨期は5月~10月頃である。 踏査時の2月期は乾期の真っ最中である。
    1[拡大画像(x21458.jpg)] 2[拡大画像(x21448.jpg)] 3[拡大画像(x21457.jpg)] 4[拡大画像(x21459.jpg)] 5[拡大画像(x21234.jpg)]


    サン・カルロスの港など
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    1. サン・カルロスの港近辺の風景。大小のパンガと称される細長い船(乗合船、水上バスなどに利用される)が係留されている。 ここは交通の要衝で、サン・ファン川沿いの各地に生活物資が輸送され、あるいは各地から産業生産物が集積される。  [拡大画像(x21460.jpg)]
    2. サン・カルロスの港の埠頭風景。あらゆる生活物資が積み込まれ各地に運ばれていく。 [拡大画像(x21461.jpg)]
    3. グラナダとの間を行き来する定期船「Gustavo Orozco」号。週末においてはグラナダを拠点にした島めぐりの遊覧観光船 として運航されている。  [拡大画像: x23968.jpg]
    4. 早朝、サン・ファン川を下る乗合船・水上バスが桟橋から出港する。 [拡大画像(x21462.jpg)]

      サン・カルロスは、コスタリカと国境を接するニカラグアの南東部辺境地域における中心地である。人の移動、物資集散活動 はほとんど舟運で行われる。サン・ファン川両岸に点在する小さな町、村落、リゾートホテルなどに立ち寄る乗合船が行き来する。

      サン・ファン川の終点、すなわちカリブ海への出口地点に位置する町サン・ファン・デル・ノルテ(San Juan del Norte)は、 現在San Juan de Nicaraguaが正式名称となっている。英語での別名はグレイタウン・Greytaownである(英国の植民地であった ジャマイカの総督名に由来する)。サン・カルロスからグレイタウンまでのパンガの定期便数は極めて限られている。

      乾期には水嵩が減少し、河口から10kmくらい上流域で土砂がひどく堆積する箇所が出現する。そこでは喫水の浅い平底舟 であっても通航が困難となり、乗船客らは時に13、4時間の旅を覚悟せねばならないという。パンガをチャーターして ほとんどノンストップで下る場合には、川の水嵩さえ確保されているのであれば、6、7時間で行き着けよう。 それでも、時期によっては土砂のひどい堆積と水嵩の減少のために全員がボートから降りて押す羽目にでもなれば、6、7 時間という訳にはいかない。


    サン・ファン川の遡航風景など
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    1. 物売りの船外機付きカヌーが水上バスに接舷し商いをする。左舷側のお客との商いが終わると、右舷側に移って商いをする。 [拡大画像(x21463.jpg)]
    2. サン・カルロスから小一時間上流における川岸風景。川幅は200メートルほどある。川幅は下流に行ってもほとんど同じである。  [拡大画像(x21464.jpg)][拡大画像: x23971.jpg]

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    1. サン・ファン川本流と支流のサバロス川とのちょうど合流点に建つホテルからサバロス川上流方面を見る。 中央にはボカ・デ・サバロスの船着き場がある。 [拡大画像(x23991.jpg)]
    2. ホテルからサン・ファン川の上流を見る。画面左側の水域はサバロス川との接合点である。 [拡大画像(x23992.jpg)]
    3. ホテルからサン・ファン川下流方面を見る。 [拡大画像(x23993.jpg)]

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    4. ボカ・デ・サバロスの船着き場。 [拡大画像(x23994.jpg)]
    5. ボカ・デ・サバロスからエル・カスティージョへ向かう途上の川岸風景。 [拡大画像(x21449.jpg)]
      


    エル・カスティージョの要塞 1
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    1. サン・カルロスからボカ・デ・サバロスを経てエル・カスティージョに到着するところ。岸のすぐ傍の高みに要塞が 見える(画像中央。要塞上に国旗が翻っている)。 [拡大画像(x21450.jpg)][拡大画像: x23974.jpg]
    2. 要塞は堅牢な石積みである。要塞はスペイン政府の援助で修復され、また博物館も整備された。  [拡大画像(x21475.jpg)][画像(x21465.jpg & z16179.jpg)]
    3. エル・カスティージョの案内図。 [拡大画像(x21466.jpg)]


    エル・カスティージョの要塞 2
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    1. 要塞からサン・ファン川の上流方面を見下ろす。 [拡大画像(x21467.jpg)][拡大画像(x21451.jpg & z16165.jpg)][拡大画像 (x21479.jpg & z16191)]
    2. 石積みの堅牢な要塞にニカラグア国旗がはためく。同じく上流方面を見る。  [拡大画像(x21456.jpg)][拡大画像(x21470.jpg & z16184)]
    3. 要塞から眼下に「ラピッドス(rápidos)」と呼ばれる早瀬・急流を見下ろす。急流はいくつもあるが、 その中でもこの急流が最も規模が大きいものである。自然にできた急流なのか、海賊などのボート遡上を阻止するため岩の 人工投下によるものか、確認できなかった。 [拡大画像(x21452.jpg)][拡大画像: x23981.jpg]


    エル・カスティージョの要塞 3
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    1. 要塞から下流方面を見下ろす。この左側眼下に早瀬があり、波立っている。 [拡大画像(x21453.jpg)]> [拡大画像(x21468.jpg & z16182.jpg)]>[拡大画像(x21481.jpg & z16193.jpg)]
    2. とうとうと流れるサン・ファン川。下流方面を見下ろす。 [拡大画像(x21469.jpg)]
    3. 要塞からはいくつもの大砲が川を遡上する敵軍・海賊のボートに睨みを効かせていた。上流方面を睨む大砲。  [拡大画像: x23986.jpg]

    中米地域は16世紀にはほとんどスペインの植民統治下にあったものの、 17世紀になるとイギリス、フランス、オランダ からの挑戦を受けてスペインはカリブ海地域での制海権を喪失しつつあった。イギリスは現在のベリーズ、ニカラグアの カリブ海沿岸地域への領土的干渉、占拠などの挑戦を行っていた。 新興国イギリスによるグラナダなどの内陸部諸都市への侵入を阻止するため、また海賊による襲撃に備えるために、 スペインはサン・ファン川沿いにいくつもの要塞を築造した。1600年にサン・ファン川の始点にある町サン・カルロスに、 1675年にはエル・カスティージョに要塞を築いた。  


    エル・カスティージョの要塞 4
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    1-2. 下流方向に水がとうとうと流れ行く。その眺めは壮観である。ここを何十万という欧米人、さらには奴隷が通過して 行ったという歴史をこの要塞は見届けて来た。
    1.[拡大画像(x21454.jpg)][拡大画像(x21483.jpg & z16195.jpg)] 2.[拡大画像(x21455.jpg)]
    * [拡大画像(x21471.jpg & z16185.jpg)][拡大画像(x21485.jpg & z16197.jpg)]
    * [拡大画像: x23982.jpg][拡大画像: x23983.jpg]

      川の蛇行を滑らかにし、深さを25メートルほどに浚渫・維持される場合には、25万トンクラスの船もカリブ海から ニカラグア湖まで通航可能となろう。ニカラグア湖は海抜31-32mであるので、海面式にするとニカラグア湖の水は海へ 流れ出てしまうので、閘門式にする必要はある。この辺りから河口域にかけて広大な熱帯原生雨林に覆われた インディオ・マイス自然保護区が広がる。 サン・ファン川をはさんでコスタリカと国境を接し、国境・航行に関する外交上の重要課題、その他川底浚渫・川岸拡張 による動植物生態系への影響など、対処すべき課題が多い。歴史的に観てかつてはこのルートが最有力な運河候補ルート であったが、現在は別のルートが最有力候補に挙げられている。   [拡大画像: x23977.jpg][拡大画像: x23978.jpg][拡大画像: x23979.jpg]


    エル・カスティージョの要塞 5
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    1. 修復された要塞(エル・カスティージョ要塞、サン・ファン要塞、インマクラーダ・コンセプシオン要塞とも称される) は17世紀の重要な歴史的遺産である。 [拡大画像(x21480.jpg)][拡大画像: x23984.jpg][拡大画像: x23976.jpg]
    2. アーチの先の眼下には波立つ早瀬がある。 [拡大画像(x21478.jpg)][拡大画像: x23985.jpg] [拡大画像(x21476.jpg): 説明書き][拡大画像(x21477.jpg): 銘板]
    3. いくつもの大砲が睨みを効かせる。 [拡大画像(x21482.jpg)]
    4. 要塞の上部構造の様子。 [拡大画像(x21484.jpg)]

      要塞敷地内の博物館では、15世紀の大航海時代以降の歴史、エル・カスティージョの要塞をはじめ川沿いに築造された いくつかの要塞、海賊ヘンリー・モーガンやイギリス海軍ネルソン提督などと サン・ファン川との関わり合い (若かりしネルソンもかつてサン・ファン川に大きな足跡を残して行った)、 米国カリフォルニアでのゴールド・ラッシュ時代における米国鉄道王ヴァンダービルトによるニカラグア地峡横断旅客輸送、 ニカラグア人の「ニカラグア運河の夢」 (中米地峡横断運河建設ではニカラグア・ルートが最有力候補であった。 それがサン・ファン川~ニカラグア湖~リーバス地峡ルートであった)などなど、興味がそそられる多くの史実をパネル展示している。  [博物館の展示紹介]


    エル・カスティージョの船着き場
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    1. エル・カスティージョの水上バスの発着場。川岸にはレストラン、一般民家などが立ち並ぶ。  [拡大画像(x21472.jpg)][拡大画像(x21486.jpg & z16198)][拡大画像: x23975.jpg]
    2. 遡り行く乗合船。 [拡大画像(x21473.jpg)]
    3. 乗合船の待合所の壁面には要塞や自然が素朴なタッチで描かれている。インディオ・マイス自然保護区では赤い カエルが生息する。 [拡大画像(x21487.jpg)][拡大画像(x21474.jpg & z16188.jpg)]



    [参考 1 (サン・カルロスへの交通)]
    首都マナグアからサン・カルロスへは、車では12、3時間はゆうに要する。アコヤパからサン・カルロスまでの150kmほどは 未舗装の悪路のためである。バス便は1日5、6本はあるが、時間はかかる。定期航空便は日に2便あり、1時間半くらいで飛ぶ。 船便は古都グラナダから週数便あるが6、7時間はかかる。


    [参考 2 (「サン・タフェ橋」の建設)]
    2011年8月現在、アコヤパ-サン・カルロス間の砂利道は舗装工事中である(米州機構の援助)、また日本の無償資金援助で 「サンタ・フェ橋」(el puente Santa Fe')が建設中である。サンタ・フェ橋が2013年頃に完成すれば、 パンアメリカン・ハイウェイの迂回路ができることになり、隣国コスタリカから大勢の観光客がこの地を訪れよう。 見るところはいろいろある。たとえば、サン・ファン川中流にあるエル・カスティージョの歴史的な要塞 (スペインの援助 で改修され、また博物館も整備されている)、サン・ファン川下流域の熱帯原生林・動植物を保護するインディオ・マイス 自然保護区域、ニカラグア湖のオモテペ島・ソレンティナメ群島などである。 コスタリカ側からサン・カルロスへの人・物の往来は飛躍的に活発となり、経済・社会的様相は一変することになろう。


    [参考 3 (消えたニカラグア運河の夢)]
    米国議会においてかつてこのサン・ファン川~ニカラグア湖を利用したニカラグア運河建設案が真剣に 検討され、又そのための調査も行われた。しかし、1902年の米国議会において、ニカラグアではなくパナマの地に運河を 建設することになる決定的な議決が行われた。それは事実上「ニカラグア運河の夢」を打ち砕くものであった。 その後パナマ運河が建設され、今では2014年の完成を目指して運河拡張工事が進められている。 だが、ニカラグア運河建設の可能性が消えたわけではない。世界が第二の両洋間運河を必要とする時代が来るかもしれない。


    [参考 4 (グラナダを略奪した海賊ヘンリー・モーガン)]
    サン・ファン川、ニカラグア湖、グラナダをキーワードとする歴史にあっては、世界的に有名な海賊ヘンリー・モーガン (Captain Sir Henry Morgan)が登場する。英国のウェールズで生まれたモーガンは、1650年に15歳にして西インド諸島 バルバドス島に年季奉公のため渡海した。5年間の年季奉公が1655年に満了すると、ジャマイカ島に渡り、そのまま海賊の世界に足を踏み入れた。 それ以後海賊行為の限りを尽す人生を送った。海賊でありながら1674年にナイトの爵位に叙せられた。 最後には英国植民地ジャマイカに国家の重要役職付きで戻った(1680年には代理総督までなった)。 約20年間の海賊業から引退するまで、ニカラグアのグラナダ(ニカラグア湖北西端の町)、キューバ、パナマのポルト・ベロ、 マラカイボ、パナマ市など多くのスペイン植民地を襲撃し財宝を収奪した。

    1655年の20歳過ぎの頃にはメキシコのカンペチェ湾、ホンジュラス、ニカラグアなどの沿岸で海賊行為を働いていたが、 原住民インディオからニカラグアのグラナダの繁栄ぶりを聞き及んでいた。モーガンは1665年全長190kmのサン・ファン川 を1週間かけて遡上し、ニカラグア湖を5日間かけて北上し、グラナダを3日間にわたり略奪した。 その戦利品・分捕り品として 50万ポンド貨(libras esterlinas)を収奪した。 カヌーで遡上したので嵩張る財宝は余り持ち帰れなかったが、ジャマイカに戻ったモーガンは一躍有名になった。 モーガンは書に書き残した-「グラナダは英国ポーツマスのように大きく見事な町である。7つの教会と1つの大聖堂があり、 数多くの学校、修道院がある」。 エル・カスティージョの堅牢なサン・ファン要塞が完成したのはその約10年後の1675年のことであった。


    [参考 5 (米国鉄道王ヴァンダービルトとニカラグア地峡横断通航路の開設)]
    1800年代中期の米国カリフォルニアでのゴールド・ラッシュ時代で、パナマ地峡を横断する鉄道も運河もなかった時期には、 サン・ファン川~ニカラグア湖の水上ルートは大変貴重なものであった。その当時地峡を横断するに最短ルートは、 ニカラグア湖を北上しグラナダに至るのではなく、湖を西航してラ・ビルヘン (La Virgen。サン・カルロスの西北西対岸、 あるいはオメテペ島のほぼ西方対岸辺り)に至り、鉄道あるいは馬車で太平洋岸のサン・ファン・デル・スール (San Juan del Sur)の海岸へ抜けた。そこから蒸気船に乗ってサンフランシスコへ向かうことができた。

    米国鉄道王ヴァンダービルトは、この地峡横断通航路の開拓・運営によって1850年代の5年間で10万人の乗客を輸送した。 「トムソーヤの冒険」を著したマーク・トウェインはサンフランシスコから東部海岸へ移動する時このルートを利用した。 だが、 1869年にパナマ鉄道の開通に伴い、早くもこの旅客輸送路としての横断通航路は急速に衰退し、ついには 閉鎖される運命となった。




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サン・ファン川を下る(サン・カルロス~エル・カスティージ) [2009.02.20-22]


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